第3話
ランチで訪れる場所に夜も来るのは、私にとっては珍しいことだ。外で夕食を済ませるにしても家の近くに帰ってからなので、会社のそばのお店には寄ることがない。
きっかけは、行きつけの洋食店が、夜も開店することになったことだった。主な客層である会社員のリモートワークの影響で、ランチだけでは成り立たなくなってしまったらしい。経理の仕事は、完全にリモートワークとはいかないので、出社する日は自然とそこで食事を済ませるようになった。かなりの頻度で使っていて店の人に顔を覚えられているのと、食事も美味しいし居心地のいい場所なのでゆったりと過ごすうちに一日の疲れも自然と癒やされていく。
今日もまた、寛ぎの空間を求めてドアを開けた。カランカランと音を立てたドアベルに呼ばれて、出てきたのは見慣れない若い男性の店員だった。その人は私を見て動きを止める。
知っている人だろうか。私はマスクの下を想像しようとその男性の顔を見つめた。結果的に少しの間見つめ合うかたちとなる。視線をそらしたのはむこうだった。
「失礼しました。一名様ですね。こちらへどうぞ」
彼の後について、案内された二人がけのテーブル席へと座る。店内はそこそこ人で賑わいをみせていた。私は傍らのメニューを開くと、厨房へと入っていく彼の後ろ姿を見送った。一体何だったのだろう。思案しながらメニューを見つめる。ドリンクのページを捲ると、カクテルの案内が挟まっていた。新しく始めたのだろうか。
「出られなくてごめんなさいね。ご注文はお決まりかしら?」
快活な声で顔を上げる。食堂の女将さんが、水と氷の入ったピッチャーとグラスを載せたお盆を片手に、紙伝票を小脇に抱えて立っていた。素早くグラスをセッテングすると、その中に爽やかな音をたてながら水と氷が注がれる。
「ええ、海鮮グラタンのセット、スープはコーンポタージュ、サラダはコールスローでお願いします」
女将さんがメモをとる間、少しの静寂が訪れる。特に話すつもりもなかったのに、私は口を開いていた。
「お席には、新しい店員さんに案内してもらいました」
女将さんの視線が上がり、その目が緩やかな弓形を描く。
「ああ、甥っ子なのよ。お店を手伝ってもらおうと思ってね。以前バーテンダーをやっていたものだから、新しくこんなのも始めたの」
女将さんは、私が先ほど見ていたカクテルの案内を指差した。
「ちょうど気になっていたんです。私、あまりお酒の席に行ったことがなくて。カクテルはよくわからないのだけれど……」
「じゃあ、食後に甥っ子をここへ越させるわ。色々聞いてちょうだいね」
女将さんはウインクをすると、厨房へとオーダーを伝えに行った。思いがけずすぐに話す機会ができてしまった。言葉を交わしていれば、人違いか、はたまた遠い昔の知り合いなのか、分かるかもしれない。
ぷりぷりとした海老の食感と、まろかやなホワイトソースが絡まったグラタンは格別だった。一頻り食べたあとに水を含んでいると、厨房から女将さんの甥っ子、あの男性店員が現れた。私は慌てて布巾で口を拭き、傍らに置いていたマスクを装着する。習慣でしてしまったことだけれど、別にお店の人である彼にはしなくてよかったことに気づく。マスク生活が長引いてから、男性と接する時は意識してマスクをするようにしていた。マスクを着けていない私を見たときの、一瞬落胆したような表情を見ずに済むから。
彼は私のテーブルのそばへと辿り着くと、「カクテルのご案内をしてもよろしいでしょうか」と伺いを立ててくる。「お願いします」と私が言うと、メニューにあるカクテルの一覧を見せながら、一つ一つについてかんたんな説明をしてくれた。
「名前や種類が多いですから、もちろん、好みに合わせてこちらでご案内することもできます」
全部は覚えられなそうだと途中から困惑していた私の表情を読み取ってから、彼は説明の最後にそう付け足した。
「ええっと、じゃあ、甘くて……ミルクを使ったものがいくつかあったと思うのですが、えっと……」
「カルーアミルクやベイリーズミルクですかね」
「じゃあ、カルーアミルクで」
なんとなく聞いたことがある方を口にすると、彼はにこりと微笑んで少し待つように告げて踵を返した。外でお酒を飲むのはいつぶりだろう。車で通っていた大学ではお店で飲む機会は殆どなかったし、会社に入ってからも、進んで頼まなかったらいつの間にか飲めないことになっていた。カルーアミルクは昔飲んだ気がする。低いグラスに入ったお酒だった記憶しかないけれど。
程なくして彼が現れた。お盆の上には、白とココア色の二層のグラデーションを湛えた液体が入ったグラスがある。レースのコースターがテーブルに置かれ、その上にグラスが乗ると、白い層、ホイップの上にはスペアミントが置かれている。初めまして……ではないですね。私は心の中でカルーアミルクに話し掛けた。
「では、ごゆっくり」
彼はそう言って、また厨房へと戻っていく。最小の印象に反して、無駄な動きのない男の人だ。話しながら、私の記憶を辿った限りでは初対面なので、きっと誰かとひと間違いをしたのだろう。マスクを外して、グラスに手を伸ばし、口をつける。
ふわふわのホイップはなめらかでかつさらりとした生クリームみたい、次にやってくるのはほろ苦い、そうか、これがさっき説明してくれたコーヒーリキュールか。
「美味しい」
言葉が溢れてから口を抑える。外で、マスクをせずに言葉を出すのはいつぶりだろう。はじめましての見た目でないカルーアミルクは、全く味わったことのない風味を纏っていた。きっと、この一杯が美味しすぎて前飲んだものが思い出せないんだな、と自分の中で納得する。
食後の一杯を堪能したあと、寛ぎの時間を惜しみながらお会計をと席を立った。厨房のカウンターから、女将さんからオーダーを聞く彼の姿が見えた。一瞬目が合う。私は美味しかったです、の代わりに会釈をした。彼も会釈で返してくれる。そういえば名前を聞き忘れたな。また次に、話が広がったら生きてみようか。カルーアミルクのリキュールでほんの少しだけふわふわする頭で考えながら、不思議と次の出社日を待ち遠しく思っている自分がいた。
週一回は訪れる出社日のたびに、私は洋食店へと寄っては、彼の作ったお酒をいただいた。名前は三度目に聞けた。
回数を重ねて、季節が秋に向かおうとして始めた頃、私がいつもどおりお酒を飲み終わり、グラスを置こうとしたときのことだった。いつもはレースのコースターなのだけれど、なぜかこのときは紙のもので、グラスの結露が紙を湿らせていた。そこに、紙に施された花柄とは無関係な、黒い数字のようなものが浮かび上がっていた。グラスを端に避け、まじまじと見つめてみる。鏡文字の数字だった。恐る恐るコースターを捲る。三文字、四文字、四文字と並んだ数字が、ハイフンで繋がれて、その下には、「遥貴」と書かれていた。私は思考するより早く、厨房の様子が伺える、カウンター付きの小窓を見つめた。目と目が合う。ぱちりと音でも鳴ったようだった。初めてあったときのように、遥貴さんは私からそっと視線をそらした。
電話番号? なんで? 私は混乱する頭を落ち着けようと水に手を伸ばす。空だった。それを察した女将さんが遠くから水を持ってやってくるのが見える。私は反射的にコースターを自分のバッグへ滑り込ませた。水が注がれる間も、心臓がバクバクとなっている。女将さんの顔が見れずに、ありがとうを告げて、再び小窓を見た。
「なにぼさっとしてるの!」
女将さんが軽く窘めるように遥貴さんを厨房へと押し返していた。真意がつかめずに、私はお会計を済ませて店を出た。足元がふわふわする。お酒で酔っているのではないことは確かだった。なぜこんなに気持ちが動揺しているのだろう。
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