047

 夜が明ける。急ごしらえの枝で組んだ屋根の下から這い出て外の様子を伺う。焚火の跡はそのまま、何も変化は無いように見える。魔物の気配も無く、ただ、あるのは俺が残してしまった跡のみ。朝日は昇っているはずだ。背の高い木に覆われている所為で、太陽が今どれくらいの位置にあるのか分からない。ずっと木陰の中に居る。太陽が真上に来ない限り、俺は時間を把握するのが難しい。体内時計は大体朝八時程を指しているが、されど体内時計だ。そこまでの正確性は無い。


「…………、周囲の探索だけでもしないとだな」


 周辺の地形や植生を把握しなければ、遠出も出来ない。脱出の目途が立つのはいつになるやら。昨日も食べたが、木の実は十分にある。近くに気配は無いが、魔物も必ず居るはずだ。正直嫌だが背に腹は代えられない。


 単純な針葉樹林であれば、恐らく木の実も採れなかっただろう。広葉樹と針葉樹が混じり合い、そして果物さえも存在する。広葉樹と針葉樹が入り混じっているのはともかく、果物の木さえも成っているのは、木の実を運んでいた行商人が魔物に襲われ、その木の実を丸ごと喰らった魔物が消化しきれずに糞と共に吐き出された種が根付いた結果だろう。魔力による成長促進があるとは言え、ここまでになるとは。


 小川の音は聞こえない。果物を搾り取って水分を得る事は可能だが……、それでは若干憂いがある。ただの果物から毎日の水分を補うには限界がある。


 どうしたモノか、とヒトが居た痕跡を出来るだけ消す為に、炭となった焚火の跡を出来るだけ埋めて、作った屋根を壊す。ここを拠点にするのは賛成だが、ヒトが居た形跡を残すと後々厄介な事になりかねない。警戒は怠ってはならない。ここは城壁外なのだ、盗賊も魔物も居る。警戒しなければ、死ぬのは俺だ。ミーシャとの約束を果たさずに死ぬのは避けたい。


「景色が変わらん」


 目印が無ければ迷ってしまう。何かを残すべきだが、ヒトが居たという痕跡を残す事になる。最悪ここは捨て置いて、行く先々で見つけるしかない。貿易路に出る事が出来たら幸運だけど、そう上手くもいくまい。


 本当は夜の時点で星を見て方向を判断出来れば良かったのだが、残念ながら、そこまでの知識はまだ俺には無い。辛うじて植生からここがどこか判断出来る程度だ。


 しかし、何故、俺は飛ばされたのだろうか。ミーゼリオンによって邪魔されたとしたら、目的はアリシアさんではなく、俺という事になる。俺をファブナーリンドに帰したくなかった理由? 全く見当が付かない。だってそれは、俺を危険視したという事になる。あり得るか? そんな話。アリシアさんを危険視するのはあっても、ただの冒険者の俺を危険視する理由が解らない。


「………………」


 現状、方角すら分からない状況だ。真っ直ぐ歩いて行けば、どこかの方角には出る事が出来るだろうけれど、出た先がどこかわからなくなってしまう。植生から大体の位置は把握出来るが、しかし…………。


 ある意味、これまでで一番の冒険だ。正直ワクワクしている。……いや、冒険というより遭難だが、なんなら死にかけだが。


 ここに飛ばされた意味があるとすれば、何だ? ミーゼリオンの邪魔が入ったというのは前提だが、それにしても何故、ここなのかという疑問がある。ここがオヴィレスタフォーレであるなら、必ず意味がある。なんせ森とは言えファブナーの近場である事は違いない。何故わざわざここなんだ? 邪魔をされたくないというのなら、もっと遠くに飛ばせばいい。アリシアさんが使った転移からそこまで距離を稼ぐ事が出来なかったと考えるのも妥当だが──いや、それは無いだろう。転移は難しいモノだが、それに介入する事が出来るくらいの実力があるのなら、座標くらい弄るのは他愛無いだろう。


「…………は、ぁ。目的が分からん」


 何故俺はまともな装備も持たずサバイバル生活をしているのか。オヴィレスタフォーレを隅々で冒険しようと思うと、一か月以上は掛かる。けれどそこまでのんびりして居られないだろう。


 大体三時間程歩く。景色が変わらないから、どれだけ離れたか分からない。魔物は幽霊木と、猪系が数体くらい。昨日の夜に魔法の補充はしたが、それでも限りがある。交易路であればそこまで狂暴なモノは出ないだろうが、森の深部となれば話は変わる。森の中のゴブリンは厄介だ。統率の取れた動きは熟練の冒険者であれ手を焼く。一体入ればニ十体は居ると考えた方が良い。近年では魔法を使うモノも居ると聞く。ギガースと手を組む事もあるらしいが、あぁ、想像したくない。対処は出来るだろうが、大ダメージを受けるだろうし、魔法の貯蔵も全部使い切ってしまうだろう。そうなると、無防備だ。エフェクターにとって魔法の貯蔵が無くなるという事は死を意味すると言っても過言じゃない。


「く、っそ、どこだここ本当に」


 ようやく太陽が天に見える。これで今向かっている方角が分かるだろう。分かる……か? 奇跡的に北に進んでいるらしい。北であればいずれ森を抜ければファブナーに着く。だが、どれくらいの距離があるのかは……はあ……。


 一日やそこらで抜け出せるとは思っていないが、真っ直ぐ進むだけなら、たぶん一週間……。馬が居れば、三日程だろうか。だが、交易路では無いし、三日は無理か。道が悪いと馬の走りも悪くなる。木も沢山生えているし、先ほどから何度か転びそうになっている。。歩きにくいったらありゃしない。


 あと、ぶっちゃけ一人は寂しい。一人旅というのも乙なモノだと師匠は言っていたが、残念ながら俺には向いていないらしい。


 とにかく前に進まなければ。迷っている暇は無い。この間にもミーゼリオンの計画は進むんだろう。アリシアさんが居るとはいえ、一度関わってしまった手前、知らないフリは出来ない。俺にしか出来ない事は無いが、俺に出来る事は多くあるはずだ。だから、帰らないと。何より、帰らなければ、ミーシャとの約束も果たせないッ。


 ただ歩くしか方法が無い。先が見えないが仕方ない。北の方向にファブナーがある、という事は、そのまま真っ直ぐ北に進んでも交易路に出るのは随分と先になるだろう。あれは東西南北に伸びているが、綺麗に十字になっている訳じゃない。くそ、現実は優しくない。どれだけ歩けばファブナーに着く?


 大木の根を越えて、小川を越えて、魔物を倒し、前に進み、焚火を起こし夜を幾度と越えた。それでもまだ着かない。ここまで遠いモノだったか? 南に出れば、ファブナーには着かなくとも、カルイザムには着いただろうか。選択を間違えた? いや、カルイザムに行った所で路銀が無いのだから馬すら買い付けないだろう。結局は歩くだけなら、結局意味は……。


 雨が降り、立ち往生する日もあった。そうして辿り着いたのは、ファブナーでは無く、一つの集落だった。たまたま辿り着いただけ。部外者を許さない集落もあると聞く。何の情報も無く立ち入るのは危険だ。集落というより部族の方が近い。しかし、ここならば地図を持っているかもしれない。手に入れる事が出来れば、交易路の位置も分かるかもしれない。


「──────────っ」


 少年と目が合ってしまった。まずい、と直感が告げる。逃げようはある。だけどやや早計か?


「おにいさん、ここに入るのはやめておいたほうがいいよ」


 言葉が通じる相手らしい。いつの間にか近寄っていた少年が、集落のヒトの視線を気にしながら話をしてくれる。


「やめておいたほうがいい、とは?」


「村のヒト達は皆、他人を嫌うから」


「そう、か」


 やっぱり、そうらしい。オヴィレスタフォーレにはいくつか集落が点在すると聞く。完全な自給自足を行っている場所が多く、ファブナーに対して税を払う事をしないという話も良く小耳に挟む。こういった部族は森を神聖視する事もある。他人がそんな神聖な森に立ち入る事を嫌うんだ。まるでサミオイ近辺のエルフのよう。


「なら、俺はここを去るよ」


「…………おにいさん、この森で迷ってるの?」


「あ、あぁ、一応方向は解ったんだけど、どうにも出られなくてね」


「そう。ごめんね、地図は無いや。それに、こんな場所に他人が来るのも久々なんだ、もてなしも出来ないや」


「良いよ。君はまだ子供だろう。そんな事を気にする事は無いよ」


 少年は無感情に喋っている。その表情に凡その感情の起伏は見えない。まるで死者の様な。


「ここはね、聖女様が生まれるんだ」


「聖女、様?」


 なんだ、それは。聞いたコトが無い。この集落のみでの風習だろうか。ファブナーに生きて、そんな話は聞いたコトが無い。そもそもこの集落の存在さえ知られているかも分からない。


「聖女様っていうのは、この世界をお救いになられた方の末裔だよ」


 背筋が凍る。その言葉はゾッとする。世界を救った? そんな話は一つしかない。麗愛だ。あれこそ世界を救ったと言われても頷ける。けど、あれは……ッ。


 いや、考え過ぎか? 集落内での神話なんて良くある話だろう。他の集落と交流を持たない集落なぞ、文化圏が違うと言っても過言じゃない。こうして言葉が通じている事すら奇跡に近い。独自の言語で話していることもあるくらいなんだ。


「末裔、というと?」


「そのままの意味だよおにいさん」


 少年は怪しく笑う。あぁ、選択を間違えた。何故俺は彼を信用した? 何故俺は、彼を危険視しなかった。他人を嫌うはずの集落の子が、俺という部外者を赦すはずが無い。大きく距離を取り、背中の剣に手を回す。魔法の貯蔵は、まだある。切り抜ける事さえ出来れば森に姿を隠すことも出来るだろう。


 直感が告げている。ここはまずい。ここに居ては、ぬるりと生暖かいモノがやってきてしまう。聖女様。その言葉は気になる。喉に引っ掛かって仕方ないんだ。だけど、命の危機を感じてまで調べる事じゃない。


 集落の人々全ての視線が俺へと向けられる。それら全員、冷たい視線でなく、生暖かいモノ。純粋に恐怖を感じた。凶悪な魔物と遭遇した時よりも確実に、俺の思考は停止し始めている。


 全員、無表情なのだ。先ほどまで怪しく笑っていた少年ですら、無感動にこちらをじっと見つめている。ここはやばい。何かがおかしい。関わってはいけない。そう全身が警告している。逃げなければとそう思った時には既に遅いのだろう。


 集落の人々は何も言わない。何も動かない。まるで全てが人形の様にじっとこちらを見つめるばかり。それが不気味で堪らなく怖い。ただ、ここで尻込みする訳にもいかない。


「我らは言祝う。静寂の果て、聖女様の誕生のこの時を、言祝う」


 里長だろう年老いた男性がこちらを見つめたままじりじりと距離を詰めて来る。全身がマズイと理解しているが、何故だかその言葉に聞き入っていた。どうしてと訊かれては、その言葉自体に魔法的な魅了があったのかもしれないとしか言えない。


「贄なるは、外より来たる風来坊。混ざり弾き導き給え。我らは待ち人。聖女様の導きを待つ、木偶の坊」


 不思議な言い回しだ。魔法の詠唱とも違う。祈りの言葉とも違う。どこか童話めいた言い回し。逃げなければならない。どうしてそう思うのだろうか、不気味なのは、別に今に始まった事じゃない。周囲にワラワラと居る魔物たちだって不気味だ。


 明確な敵意を彼らから感じないのだ。確かに、不気味ではあるがそれだけ。贄と呼ばれたのにも関わらず、まるで敵意が無い。まるで当たり前の事の様に、彼は俺を贄に捧げると宣言している。


 贄にされるのはごめんだ。森に逃げれば幾らでも姿は眩ませられる。好奇心は身を滅ぼす。冒険者にとって好奇心は武器であり最大の弱点でもある。それは俺も例外じゃない。不思議と続きが気になってしまうんだ。その言葉の続きは何だ? 聖女様とは、何だ? 気になることが多く、気にしてしまってはいけないモノだとその瞬間理解する。


「……………………っ、ぁ」


 恐怖心よりも好奇心が勝っている。そうだ、聖女の癖に贄を求むなぞ矛盾している。救世に贄は必須だと、そう言うのか? 馬鹿言え、そんなモノが救世な訳があるか。そんなモノが聖女様な訳があるモノかッ!


 落ち着け、冷静になれ。まずは後ずさりから始めろ。背中に携えた剣の柄を掴み、いつでも迎撃出来る準備だけは怠らず、一歩ジリジリと下がる。


 隙さえあれば、いつでも逃げられる。魔法を詠唱する声は聞こえない。魔力のうねりも無い。ただ単純に、何かを口ずさみながらゆっくりと距離を詰めて来るだけ。それが何より不気味だと再三言っている。集落の民達は瞬きさえせずじっとこちらを見つめている。人形の様だと言ったが、訂正しよう。あれは石像だ。梃子でも動かぬ石像だ。


「俺は、何を迷ってる……?」


 隙さえあれば? 違う、隙は作るモノだ。待つモノじゃない。そんな事冒険者になる前から知っている。なのにどうして躊躇っている? ヒトを傷付ける勇気が無いからか? あれだけの死者を屠った癖に? 違う。訥々と語られる聖女の話に興味をそそられているんだ。


「────────────」


 冒険者は好奇心に抗えない。冒険を繰り返すのはその身でロマンを体験する為。好奇心を満たす為だ。だから。


「……そんな事を言っている場合か?」


 里長らしき老人は、今にもこちらに飛び掛かりそうな気迫を放っている。


「ベスター様に捧ぐ。聖女様に告ぐ。我ら時の子。我ら忘れじの愛は報われん。故に、貴女に捧ぐのです」


 ベスター、と言った。寸分違わずベスターと。『ベスターは諦観した』ミーゼリオンはそう言った。深い意味を考える前に、五つ目を提示され、その前提を無視していた。ベスターは神の名前。では諦観した、とは。忘れている。何か、大事な事が抜け落ちている。


 ますます興味が湧いて来た。ここに留まって調べたい。けれど、それは許されないだろう。贄だと言うのであれば、そういう事なんだろう。俺は、ベスターに喰われるらしい。そんなのごめんだ。


「…………、ッ!」


 ミーシャに危害が及ぶ。アリシアさんは確かに言っていた。ここで止まっている場合じゃない。俺は進まなければ。前へ、進み続けなければ。


「────────そうだ、ここで、立ち止まる訳には、いかないッ」


 ライラックという男は執念深いのだ。見せつけてやらぁ。


「紅焔よッ」


 パニッシュ。所謂眼眩ませ。けれど、じっとこちらを見ている集落の民には良く効くはずだ。地を蹴って、根を飛び越え、北へと逃げる様に走る。


「あんなの相手してられるかよッ」


 ぶっちゃけ怖かった。恐ろしいとは、あの事だ。生きた心地というより、まるで別の世界に囚われてしまったかの様。


 逃げた先に何かファブナーへの手掛かりがあれば良いが……。続く森は長く、まだまだ抜けられそうにない。どれくらい走ったのか、距離にしてみるとそこまで離れていないのかもしれない。足元が不安定な中で全力で駆けるのはあまりにも危険な行為だ。というか、出来る事なら全力で駆けたかったが無理。木の根や朽木に邪魔をされて全力どころじゃない。


「っだ、はぁっ! ────────っ」


 大きく息を吐く。魔法の才があればこんな苦労はしなかったのだろう。エフェクターとして使っているのは全て劣化の模造品。あれらは魔法使いからすれば魔法と呼ぶ事さえ嫌われる。けれどどうしてアリシアさんは俺にエフェクターを勧めたのだろう。魔力の糸さえ編む事が出来れば使えるが、しかし扱いは難しくなる。剣術と魔法は本来両立するのは難しい。師匠に教え込まれたこれも、本当はエフェクターだと言えるかも分からない。あのヒトの戦い方を教えてもらい、再現しているに過ぎない。


「どうしたモンか」


 あの集落は無視して良いモノなのだろうか。背筋を伝う冷や汗が問いかける。アレは、まさしく狂気であった。隔離された一つの世界の様な、嫌な感じ。ゾゾゾゾと地面から迫ってくるような圧迫感。


 木に付いた手を離し、前を向く。


「────────────、」


 そこに一軒の小屋があった。言葉が詰まる。集落のソレとはまた様子が違っている。綺麗な木造の一軒家。ファブナーに建っていても不思議じゃない程立派なモノ。どうしてそんなモノがここに立っているのか。あの集落からも隔絶されている様に見える。しかし、別の集落の様には見えない。まるで祠の様に大切にされているような、家。何度も修復を繰り返された跡がある。


 窓から少女が覗いている。その顔は酷く怯え、俺を恐れている様な──。どうしてだろう、俺はあの子をあの集落のヒト達が言っていた聖女様であると直感した。そしてそれを異質だと思った。窓には格子がされてある。外からではなく内にされているのを見ると、あの少女を外に出さない為に思える。


 ────座敷牢。家の中に牢を作り閉じ込める。その行為に何の意味があるのかは分からないが、確かそういう物があったと記憶している。別に珍しい話でも無いんだ。特に人里離れた集落だと余計に。他の国では奴隷に対し行っている事もあると聞く。胸糞の悪い話だが、こうして間近に見るとは思わなかった。


 ……これ以上怯えさせる事も無いだろうと背を向ける。深入りするべきではないと、アリシアさんに忠告されたばかりだ。望まれても俺には何も出来ない。彼女が生きて望むのであれば、きっといつかまた転機が訪れるだろう。けれど、


「──────────、っ」


 やめてくれ。ガチャガチャと格子を外そうとするな、呼びかけるな、俺はキミに何もしてあげられない。それに、どうして言葉にしない。


 言葉を教わってないにしても何かしら発する事は出来るだろう。なのにどうして何も言わない?


 小屋を振り返る。少女が格子を掴んでガシガシと揺さぶっている。先ほどまでの怯えた表情は一体何だったのか。他人を怖がっているのは、何故だ。どうしてこんな隔離されたような場所に閉じ込められている?


 彼女の首に、包帯が巻かれている。あぁ、それだけでどうして声を出さないのかを理解した。喉が潰されている。赤色の滲んだ包帯、酷く痩せた腕。あれが聖女様だと? どうして俺はそう思った? 概念的なモノであると思っていたのにどうしてそれを見た途端理解した? 納得が行っているのが不思議で仕方ない。だが、それよりも、


「────────ッ!」


 背に携えた剣を抜きだし、扉をぶち破る。何をしているんだ、俺は。何も出来ないと分かっているだろうッ! 散々言われ、散々否定され、それでもどうして助けようとする?


「部屋の扉はどこだ」


 部屋は暗い。アグニで照らせれば良いのだが、エフェクターにそんな器用な事は出来ない。手探りで進みながら、ノブを見つける。


「ここか。おい、居るか? 居るのなら、床をドンドンっと踏み鳴らしてくれ」


 暫くして、ドッドッと二回足踏みするような音がする。時間が掛かったのは言葉を理解するのに時間が掛かったからだろうか。合図を聞いてそっと扉を開く。瘦せ細った少女がそこに居た。


「キミは一人か?」


 周囲にヒトの気配は無かった。隠れているという事も無いだろう。だから余計不思議なんだ。ここまで大事に隠されている様になっているのにどうして誰も居ないのだろうか。大事にされている、か。こんな状態で大事にされている? 馬鹿言え。


 彼女は言葉をゆっくりとしか理解出来ないようで先ほどの質問にようやく頷いた。何か言葉にしようとしているようで、こひゅー、と空気だけが口から抜ける音が聞こえる。辺りが静かだから聞こえるが、喧噪に呑まれれば絶対に聞き取れないだろう。口はパクパクと動いている。なんとか読み取れるかもしれないが、残念ながら読唇術は学んでいない。何を伝えたがっているのだろうか。


「文字は、描ける?」


 ゆっくり、出来るだけ聞き取りやすく彼女に問う。首を横に振る。そりゃあそうか、こんな状態にある彼女に読み書きを教える訳が無いだろう。


「キミは、聖女様なのか?」


 この問いに彼女は首を大きく縦に振った。


「そう、か」


 同時に、俺に出来る事は何も無いと判断した。今から集落に戻りこんな事は辞めるんだと訴える? あのヒト達にヒトの話を聞くなんて事を期待して? 無理だ。どうせ贄にされる。ならば、このまま彼女を連れだすか? それこそ自殺行為だ。魔物犇めくこの森で子供を守りながら移動なぞ、まだまだガキの俺には出来ない。自分の身を護るのに精いっぱいなんだぞ。彼女をオヴィレスタフォーレから連れ出してその後はどうする?


 小屋の中は閉じ込める事だけでなく普通に生活する事を前提として作られている様に見える。閉じ込めるだけならこんな立派な小屋は必要無いだろうし、一個世帯が住まいとして使っていても何の違和感も無い。


「なんだ……?」


 暗くて分からなかったが、ようやく慣れてきた目に紙きれが数枚目に映る。あの集落のヒトが残したモノだろうか。それにしては、紙というのはおかしい。確かに俺はオヴィレスタフォーレの村々を完全に把握している訳じゃない。地図に載っていないであろう集落だったというのもあながち間違いではないはずなのだ。紙を作るには複雑な工程が必要だ。羊皮紙であれば理解も出来ようが、紙というのは、行商人から手に入れるくらいしか方法が無いのではないだろうか。だが、地図の無い集落と交易なぞするモノだろうか。


「…………、いや深くは考えなくて良いか」


 一枚を手に取る。恐らく彼女の家系図。一番下の名前が彼女の名前だろう。グリシャ。ファーストネームしか書かれていないが、彼女にはラストネームが無いのだろうか。そういえばトルガニスも貴族以外にラストネームは与えられていないと聞いた事がある。そういうモノなのだろうか。


「グリシャ、か」


 名前を口にすると彼女が体を震わせる。驚いたのだろうか、少し怯える様な動作だった様な気がする。けれどすぐに平気なんだと思い出したようにほっと息を吐く。コミュニケーションさえ取れれば楽なんだが。残念ながら俺は回復魔法もとい治癒魔法は使えない。彼女の喉を治してやれれば良かったのだが……。


 何か書類は残ってないだろうか。彼女の事についてもう少し詳しく知りたい。現状彼女が聖女様である事と名前がグリシャである事しか分かっていない。この場所が何の為に作られたのかも分かっていない状況だ。あの集落から少し離れたこの場所にどうしてわざわざ作ったのか。聖女様だと崇められるのであれば村の近くで良かったのではないか。


 色々と分からない事だらけだ。それに俺はこれからどうすれば良いかも分かっていない。とにかく、ここから脱出した方が良さそうではあるのは確かだ。ここが聖女様を監禁する場所であるのなら、ここにあの集落のヒトは来るのだろう。その前に彼女を連れ出し────連れ出してどうするんだ? だが置いて行くわけにもいかないだろう。背伸びをするしかないのだろうか。


 十歳程の少女だ。俺と二つしか違わない彼女がこんな目に遭っているという現実は受け入れがたい。トルガニスで見たあの少年だってそう。目を逸らしちゃいけない。逃げてはいけないんだ。


「行こう。ファブナーリンドに」


 彼女に対して何か、出来る事。それはここから連れ出して、この森を抜ける事。出来るか出来ないかじゃなくやるしか無いんだ。ここで助けを求めている女の子一人助けられないで、ミーシャの隣に立てるはずが無いだろうッ。奮い立たせろ、精神を屹立させろ、前へ。一歩ずつ前へ進めッ!


 ──────背中を伝う嫌な気配があった。それは集落で味わった最悪の気分。やはりそうか、と合点が行った。この場所に俺は誘い込まれたのだろう。では、贄とはなんだ。この少女はなんだ。彼女は贄なぞ望んでいない。望んているのだったら既に俺はここには居ないのではないか?


「俺はここを出る。キミはどうしたい」


 彼女に問いかける。返事は無く、代わりに俺の服の裾をぎゅっと掴む。


「よし」


 悪いけど、少し我慢出来る? 彼女に問いかけ、返事を待たずして彼女を抱き上げる。丁度お姫様抱っことか言われる態勢になりながら、周囲の気配から逃げる様に小屋を出る。グリシャが驚いた様にじたばたと暴れたが、暫くして大人しくなった。


「ごめん、こうするしか無かったんだ」


 彼女に先に断っておけば良かったと反省するが、そんな時間も無かったのも事実。だが、遅かった。集落に住まうヒトはもうすぐそこまで来ている。


「やるしかないのか……ッ」


 彼女をそっと降ろし、背の剣に手を回す。戦わなければ逃げられない。逃げなければ生きられない。


「これじゃ、恨まれても仕方ないかも」


 抜いた剣を構え、人数を確認する。里長らしきヒトだけでなく、先ほど居た少年も居る。集落全てを敵と見なせ。俺は、進まなければならない。一度手を取ってしまったのなら、放す事は許されないんだ。前へ。一歩でも前へッ!


 先ほど言葉を交わした子をこの手に掛ける。その感覚は今後一生引き摺って行くモノだ。覚悟は、良いだろ? 何も背負わず誰かを護るなんて出来ない。そんな事は最初から知っている。俺は、今からヒトを殺す。


「………………──────────」


 こいつらを蹴散らして、ファブナーリンドへ向かう。必ず守ってみせる。じゃなければ、俺は……ッ!


 魔物を狩るのとは大きく違う。死者を斬り伏せるのとは覚悟が違う。もう、良い。良いんだ。生きる為、護る為に俺はこの剣を手にしている。約束を果たさなければ。こんな所で死ねるかッ!


「炎よッ!」


 纏うはグラーヌス。炎剣たる由縁をその刀身に輝かせ放つは


「煌々一閃……ッ!」


 纏った炎全てを一挙に放つ。横一閃の剣筋はその炎を纏い、周囲を焼き尽くす炎の斬撃と成り変わる。


 悲鳴は無い。発声器官を失っているのかと疑うくらいに、何も聞こえない。何故だ。あれはヒトですらないのか? いいや、逸らすな。あれはヒトだ。逃げようとするんじゃない。


 俺はたった今ヒトを殺した。それで良い。認識はそれで良い。違えるな、この感覚を、絶対に忘れる事を赦してはならない。


「何が目的かは知らない。俺を贄にする事も、彼女を閉じ込めた理由も、俺は知らない。けれど、前に進む為に、あの子との約束を果たす為に、お前達は、邪魔だ……ッ」


 再装填。スカジ。せめて苦しむ前に全て凍らせる。グラーヌス如きで全てを焼き払えた訳じゃない。剣を両手で握り、地面へと突きさす。扇状に広がる冷気は人々へと伸びてその足を掴み──その冷気は頂点まで登る。


「アイスエイジ」


 冷徹に呟いて、その剣を背に仕舞おうとして──脇腹を鈍痛が襲った。体はその鈍痛を憶えた瞬間に浮き上がる。何か硬いモノで殴り飛ばされた。手や足などではない。木製の何かだ。


「────────っ、あ、ぐ」


 油断した? 馬鹿言え、俺は限界まで集中していた。誰も生きていない事なぞ確認済みだッ。ならば何故、俺は木に体を叩きつけられている?


「……っ、オーク族……ッ!?」


 どうしてそんなモノがこの森に居る。ギガースであるなら理解出来る。あれにはゴブリンによって使役されている個体も居る。だが、オーク族は完全に独立した個体だ。こんな奴がこの森に生息しているという話は聞いた事が無い。


「…………っ、」


 俺では、勝てない。既にそう判断した。どうしてって、そりゃ、オーク族は俺みたいな初心者冒険者が相手出来る相手じゃない。熟練の冒険者が徒党を組んで、集落ごと潰すのがセオリーだ。


 背中を強く打った。息が一瞬詰まり、だ、はっぁ、と吐き出して、オーク族を見る。幸いにも一体だけ。だが、先ほども言った様に、オーク族は群れを成し集落を形成して暮らす知性を持つ魔物だ。ある意味ではヒトに最も近いとも言える。


「──────ッぅ、ク」


 痛みに呻きながら立ち上がる。どうして俺はオークの襲来に気付かなかった? 周りの気配には敏感になっていたはず。


「…………、いや、今は、良い」


 手放してしまった剣をこの手に握り直す。如何なる時も剣から手を離すなと、また師匠に怒られる。右脇腹を抑える。痛みはあるが耐えられない程じゃない。


「────にげ、」


 言おうとして辞めた。彼女にとって逃げ場はどこだ。あの小屋に閉じ込められた少女が、逃げ場なんて知ってるはずが無い。覚悟は、さっきから決まっている。何度も何度も確認するのは、俺がまだ日和っているから。まだ弱いままだから。けれど、恐れちゃいけない。前に、一歩、前に……ッ!


 剣に炎を纏わせる。かかとを上げて前傾姿勢になると、そのままオークへと駆ける。


「フ、──ンッヌ」


 剣を思いっきりオークへ突き刺す様に投げる。オークの持つこん棒目掛けて剣は一直線に飛んでいく。一閃の煌めきの後、こん棒がはじけ飛ぶ。剣もまた弾かれ、俺の手に帰ってくる。


「雷よッ」


 キュクロープス。雷槍を生成して投げ穿つ。近接は不利だ。あいつの方がリーチが長いし、一撃でも喰らえば致命傷だ。だがこん棒は取った。奴の出方に注意しながら、慎重に行けば、勝てない相手じゃない……ッ!


 投げ穿った雷槍はオークの華麗な身のこなしによって寸前の所で交わされる。その巨体でそれだけ機敏に動けるとなると、こいつには魔力器官が備わっていると見て間違いは無い。つまり、奴は魔法を扱う可能性さえあるという事。


 態勢を整えよう。あの巨体では腕でさえ振り回されれば俺にとっては致命傷になる。案外ヒトは脆いのだ。


「────────、すぅ」


 息を吸って、呼吸をきっちり整える。こんな所にどうして? なんて考えるな。ただ倒す事だけを考えろ。


 剣を絞る様に握り、構える。単純に攻撃するだけでは、あの厚い脂肪を切り裂いて致命傷を与えるのは難しい。炎剣では傷を焼いて塞いでしまう。エフェクターとしてでなく、剣士として戦う方が有利な場合もある。その事は忘れてはいない。


 大柄な相手をする時は、基本カウンターを行った方が有利に動ける。と師匠は言っていたが、こいつは例外中の例外。動きも早ければ威力も高いし範囲も大きい。なんだこいつクソ。


 こん棒は叩き落とした。多少隙が出来た、とそう思いたい。オークの巨体に握られたあのこん棒は俺の身長ほどはあった。二メートルを優に超える巨体だ。そんなのから放たれるこん棒の威力は先ほど喰らった通り。上半身と下半身がくっついているのが奇跡みたいなモノだ。


 地を駆る。俺だけでなく、オークも同時。けれどそのスピードの差は歴然だ。魔力器官があるからと言ってここまでの速度を出せるのは少々異常に感じる。


 双方全力の一撃だった。それは保証出来る。相手はただの腕。だと言うのにどうして俺の剣は受け止められている? 単純な筋肉のみで防いだと? いいや、そんな訳が無い。確かに無骨な剣だが、それでも切れ味だけは保証されているんだ。何せエフェクターの剣、魔法を刀身に纏うのだから、それだけ頑丈でなくてはならない。だが、現にこの剣は受け止められている。


「────────────ッ」


 押し切れない。このままだと弾かれるッ。姿勢を一気に低くし、バランスを崩した様に体を倒す。左手を地面に突き、その反動と勢いを利用して剣を振り上げる。


「────────ッ、は」


 躱された? 上手すぎる。決して侮った訳じゃない。けれど、けれど……ッ。完全にすかされた体が無防備になる。


「…………、ッ!」


 振り上げた腕を無理やり戻す。反動に逆らったその行動によって痛みが伴う。同時に届く衝撃。ギリッギリで防いだがなんだこの威力。こん棒使ってた方がまだマシじゃねぇかッ。


 再び吹っ飛んだ体は、剣を地面に突き立てて、急停止する。打撃は剣で受けた。だが、それでも体がジンジンと痛む。ダメージはこちらばかりが受けている。このままではじり貧だが、しかし打つ手が。


 オーク族を敵にするのは始めてだ。俺は行ってもオヴィレスタフォーレまで。本来この森にオーク族は出現しないのだから今回が初手合わせとなる訳だ。力量、技量、それらを合わせた総量。俺は何も知らないんだ。そんな相手に猪突猛進が如く突撃した所で返り討ちだ。動きを見て、どんな事をしてくるのか見極める。ヒト相手ならば太刀筋を見るだとかそういうので判断できる場合もあるけど、こいつはオーク族、ヒトとは違うんだ。慎重かつ大胆にやらねば。


 時間は掛けていられない。日が暮れる前に決着を付けなくちゃいけない。


 態勢をもう一度立て直す。敵を良く見て睨み威圧しろ。剣先に闘志を籠めろ。俺はお前を殺すのだ、と思い報せろ。


「────────────は、ぁ……」


 息を大きく吐く。オークがこちらに向かって距離を詰めて来る。それで良い。機を待て。筋肉が堅くて斬れないのならば、もっと柔い所を狙え。


 オークの振り上げた拳がその合図となった。機敏な癖に動きが大きいから良く見れば分かりやすい。地を蹴って、彼奴の懐に入り込み、振り下ろされた拳の少し先に剣を合わせる様に振り上げる。


「──────────────ッ」


「■■■■■■■■■■■■ォォァオァァオッァオアァオオッァァァーーーーッ!!」


 叫び声。拳の少し先、つまり手首に入った剣は綺麗に二本の拳を切断したのだ。それは名状しがたき声だった。巨体から発せられる絶叫はそれだけで衝撃となる。思わず耳を塞ぐ。しかしそれが隙になった訳でもなかった。


 のたうち回るオークに剣を突き立てるのは難しい。巻き込まれれば俺だって致命傷だ。攻撃の意思は無いにせよ、馬鹿力過ぎる。齢十二の小さい体じゃ、それさえ耐えれない。鍛錬は行っていないが、それでも、成長は年齢に沿うのだ。


「────これだけじゃ、ダメか」


 しきりにのたうち回るオーク族の切断された腕の先に、魔法陣が宿る。


「やっぱ、そうだよな。使えるよな……ッ!」


 グリシャの元へ走る。魔法が使えるとなれば、その効果、その範囲は底知れない。彼女を守りながら戦うには俺は実力不足だ。グリシャを抱きかかえる様にして全力で地面を蹴って距離を取る。


 放たれたのは衝撃派だった。グラウンドクェイクとでも呼ぶべきそれは距離を取っていなければ、彼女は転んで怪我をしていただろう。いや、そこまで大した技じゃないのはそうなのだが、しかし地面を揺らすだけの衝撃を生身で受けたらと思うと、ゾッとする。


「────────────っ、あぁ、クソ」


 倒すしかない。どうしたってあいつから逃げ切れるイメージが湧かない。


「ごめんよ」


 グリシャを下ろす。彼女は怯えた顔で俺を見つめる。


「大丈夫。必ず勝つから。キミはそこの木の裏で目を瞑って隠れていて」


 彼女はすぐに頷いて、木の裏へととてとてと走っていく。


「…………あぁ、勝つさ。だって、ミーシャに会いたいんだから」


 剣をぎゅっと握る。手首を切り落とした程度では停止しない。ヒトであれば痛がって何も出来なくなると思うし戦意喪失すると思うが、オーク族は違うらしい。


「いや、オーク族と呼ぶのも失礼だな。オークロード、何故単一個体でこんな所に居るのかは知らないが────この先の為に、死んでもらう……ッ」


 地を蹴る。オークロードは既に拳から魔法に切り替えている。クェイクの予兆は解った。あの程度なら飛び跳ねれば躱せられるッ! こちらに翳された魔法陣、急速に回転するそれは火の玉を生成して、放たれる。斬る。こっちに飛ばされてはグリシャに被害が及ぶかもしれない。彼女を怖がらせてはいけない……ッ!


「……ッラ、ァア────ァッ!」


 剣を火球にぶつける。魔法には核がある。その殆どは中心。本来ならば、魔法を解除する事は不可能だが、そこをぶった切れば、魔法は消えるッ!


 ガ、ドンッ! と小規模な爆発。けれどそれくらいで俺の身体は止まらない。止まる事を知らない。距離を詰める。魔法に切り替えたんだろ? ならばこちらが近接に持ち込めば勝機はある。ヒトであれば近接にも対応してくるだろうが、ロードといえども相手はオーク族。そうそう切り替える事なぞ出来るはずもない。それに、近接を行うにもこん棒も無ければ拳も無いんだ。


 行ける……ッ!


 柔らかい部分を狙い斬れば御せれる。命を賭して前へ走れ。剣を振り上げ、首を狙えッ!


「──ォ、ァッ、ァァァァァァアアアーーーッ!!」


 絶叫、それはどちらのだったか。いや、きっと両方だ。けれどそんな事気にする余裕は無い。飛び上がり振り下ろした剣はオークロードの首を捉え────ぼとり、と粘着質の液体と、重い物が同時に地面に落ちる様な音と共に、切り離された。


 停止した。同時に激痛が襲う。先の爆風、こん棒によるダメージ、それら両方かなり蓄積していたらしい。興奮してその痛みを忘れていただけに過ぎない。


「グ、……ぅ」


 痛みに呻き膝を着く。オークロードが動く事はもう無いだろう。その安心が、そうさせた。結果は上々、初の相手にしては良くやったと思う。ダメージもバカにならないのも事実だが、それよりも勝利した喜びが大きい。初の大獲物だ。そりゃ達成感だってあるさ。


「…………、暫く、動けそうには、無い……か」


 骨は行っていないが、強烈な打撲だ。最低でも四日程は動けないかもしれない。


「…………………………………………」


 気付くと、グリシャが隣に立っていた。


「あ、あぁ、安心して、俺は、大丈夫、だから」


 彼女はそっと俺の隣にしゃがむと、手を翳す。その手の先に魔法陣が生成されていく。


 俺は、彼女が何故聖女様なのか知らない。何故彼女が聖女様と呼ばれる様になってしまったのか、何故彼女がこんな所に閉じ込められていたのか。畏怖の対象であったからか? それとも大切に扱われていたからか? 恐らく両方。


「治癒魔法……?」


 じゃあどうして彼女は自分の喉を治さない。まさか他人のみを治す事が出来るとか? いや、そんなのは聞いたことが無い。彼女は確かに治癒魔法を使える。けれどそれを自分に使おうとしていない。それが当たり前なんだと言う様に。教えられていないんだ。自分に使えるという事さえ知らないんだ。


 狂ってやがる。自分の傷はそっちのけで他のヒトの傷を癒す。彼女の治癒魔法の効果は凄まじい。なんせ無詠唱だ。喉が潰されているのにそうやって魔法が使えているし、そもそも杖さえも持っていない。更には一秒で痛みが消えた。それだけで教会の魔導士達よりも優れたモノであると分かる。


 まさしく聖女様。回復魔法にのみ特化した魔法使い。そんなヒトが居る事を知らなかったし、まだ子供でここまでの治癒魔法が使えるというのも異常だと思う。それこそ、麗愛に語られた僧侶と呼ばれるヒト程にも思う。


「……ありがとう」


 優しくお礼を言って、立ち上がる。痛みは完全に無くなっている。それどころか幾度の野営による疲れも無くなっている様に思う。まるで健康的な生活を送って来たかのように体が軽い。


 キミはこれだけの力を持っていて、それで尚、どうして自分に使おうと思わないのだろう。そう訊こうと口を開いて、結局辞めた。彼女はどう答えたらいいか困るだろうし、そもそも喉が潰れているのだから答えられない。


 自分の喉に触れる。喉を潰されるというのはどれほどの痛みなのだろうか。


「助かったよ」


 本当に自分には使えないのかもしれない。そういう制約があるからこそ、彼女はこれだけの魔法を使えるのだと、そう納得しようとして、けれど彼女の痛々しい姿を見て、無視しろというのも、俺には難しい。


 どうすべきか。と再考する。周りは死体の山……という程ではないが悲惨な事になっている。集落に居たヒト達は追いかけてきたその全てのヒトを凍らせ砕いた。オークは首と胴体が離れ、二度と動きだす事は無い。オーク族の肉は美味いと聞いた事があるが、流石に食べる気にも慣れないし、どうしたモノか。この大量の死体を放っておいても血の匂いで別の魔物がやってきてしまう。


「まあ、良いか」


 しかし彼女について知らない事が多すぎる。聖女様というのがどのような性質なのかは、まあ分かったような気がする。。治癒魔法が異常なまでの発達を遂げた女性。所謂ピュアヒーラー。


「俺は今からキミを攫う…………あ、えと、連れて行く」


 難しい話は分からないんだった。彼女が在る意味が知りたい。あれらの言動から聖女様というのは伝承から来るモノだろう。だったら何故その様な存在があの集落にのみ存在するのか。何故集落内のみ生まれるのか。まさか本当にたまたまだなんて事は言うまい。


 が、残念ながらそれを調べる時間も無い。血に飢えた魔物どもが集まってくる頃だ。


「ここを離れる。目的地はこの先もっと北。ファブナーリンドと言う、俺が生まれた国だ」

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