■29 終末装置(2)


「コーエンを医務室へ。街の住人は全てこの屋敷へ避難させよ」

「は、はいッ!」

「すでに市外へ避難した者たちの安否は」

「不明です……確かめにいくことも、できません」


 領主の館、そのエントランスは、さながら戦場のような混乱に包まれていた。

 誰も、何が起こったかわからない。わからないまま、ただひとつ、生命の危機にあることだけは本能が感じ取っていた。

 誰もが打ちひしがれて、痺れたように動けない。マティアスや、限られた勇敢な者の指示がなければ、その場に立ち尽くして、街を取り巻く黒い獣の群れを眺めていることしかできなかっただろう。


 蠢く黒い獣の群れは、それだけ濃密な死と終わりの気配に満ちていた。ヒトの理性は、死の恐怖に耐えるには、脆弱に過ぎる。


「おい、あれはなんなんだ?」

「……世界の、終わりです」


 フォルカもまた、呆然としていた。エントランスの片隅で、手当を受けている。幸い背の傷は浅く、動けないほどの怪我ではなかった。ただ……もし傷が深手であっても、今のフォルカでは痛みを感じなかったかもしれない。

 知識がある分――闇の正体を知っている分、絶望は深い。


「あの、神話の本に書かれてるってやつらか?」

「そうです」

「ならさっさと倒し方を考え――」

「無理ですッ!」


 ノーマの焦りと怒りを含んだ声は、フォルカの金切声に遮られた。悲鳴に近い。

 出迎えに来たニギンとメアリが、その声に打たれて身をすくめた。


「無理だと?」

「あれは、終わりの【神話】です。『終末抄』に記された、終末装置。司書が一人でどこうできるものでは、ありません……。先輩がいたとしても、無理です……」


 張り詰めていた糸が切れたように、フォルカはその場に座り込む。エントランスは喧騒と混乱、そして諦めに満ちていて、フォルカの様子を気にする者はいない。

 ニギンとメアリが歩み寄って来たことに気づき、ノーマが二人の頭をそっと撫でる。


「図書館が総出でかかっても、対応は賭けになる、そういう存在なんです。私、一人では……何も……できません」

「そうかい。ならどうする。大人しく喰われるか」


 ノーマの問いに、答えはない。ニギンとメアリの心配そうな視線も見ることなく、フォルカは俯く。


 ノーマは跪いて手を伸ばした。フォルカの喉元、司書の制服たるネクタイを掴み、強引に顔を上げさせる。

 眼鏡のレンズを通して、瞳を覗き込んだ。


「ふざけるなよ」

「う……ぐ」

「本を燃やすなと言ったのはお前だ。何をお行儀良く諦めてやがる。あれを見ろ」


 ノーマの声は、むしろ冷たい。

 掴んだネクタイを引き、窓の外へと顔を向けさせる。

 丘上にある屋敷からは、コナドの街並みと、市壁の向こうに蹲った巨大な闇がよく見えた。

 今から、街の全てに終わりをもたらす闇の繭だ。


「あれは、お前の責任だ」

「ノーマ!?」

「それはっ、ひどいよ……」


 固唾を飲んで見守っていた二人が、思わず声を上げる。フォルカが抗弁もできず瞼を伏せた。

 だが、ネクタイを掴む手は緩まない。


「目を逸らすな。俺とお前が選んだ結果が、あれだ。誰が悪いとかそういう話じゃねえ。この筋書きに、俺たちは関わってる。これは俺たちの舞台なんだよ」

「……私たちの、選択」

「『全員喰われました、めでたしめでたし』で終わるなら、それはそれだ。だが、幕が降りるまで、舞台は終わらねえ」


 ノーマの手、力が入りすぎて白く色を失った手が、ネクタイを離す。

 フォルカは、今度は、座り込まなかった。

 うずくまる闇を見つめる。司書の手を、メアリが取った。ニギンは真っ直ぐにフォルカを見つめている。


 二人の視線を受けて、……フォルカはそっと、メアリの手を握り返して頷いた。

 諦念は、絶望は、まだ胸のうちにわだかまっている。


「……じゃあ……どうすればいいって、言うんですか……」

「お前が知らないことを、俺が知ってるわけねえだろ」

「もう、ノーマ! それじゃ伝わらないよ」


 声を上げたのはニギンだ。頬を紅潮させて、怒っています、という表情を浮かべる。

 意外な表情に、フォルカと、ノーマも、一瞬言葉を失って少年を見た。

 フォルカへと向き直ったニギンは、赤い顔を真剣な表情へと変えて、一言ずつ噛みしめるように伝える。


「フォルカさん。あの【物語】のことを、教えてほしいんです。それで、皆で考えましょう。……そのう。……司書は、色々なことを教えてくれると、聞きました」

「――、……そう、ですね。そうだ。私は……司書です」


 少年の必死な言葉に、フォルカはゆっくりと頷き、呟いた。

 握ったままだったメアリの手を、ぎゅっと強く握り返す。逆の手で、腰に提げたルールブックを撫でた。


「レファレンスは、司書の重要な業務。知識を求める人の前で……私がくじけているわけには、いきませんね」

「……はい!」

「ようやく立ち直ったか。遅いんだよ」

「ノーマ!」

「怒鳴るなよ、ニギン。……司書が一人じゃどうにもならねえのはわかった。役者と二人なら何か手はあるか?」

「かわいい私と、頭のいいニギンもいるわ!」

「なんでも手伝うから」

「おや。口ひげが魅力的な貴族もいると思い出してもらおう」


 指示を求める人たちを一度置いてまで、マティアスが顔を出す。いたずらめいた、目を細めた表情は、今のやりとりを聞いていた証拠だ。


「胡散臭い貴族の間違いだろ」

「不敬罪でしょっぴいてもいいのだよ、ノーマくん?」

「口ひげ、今日も男前ダンディっすね」

「……ふふっ」


 他愛無いやりとりに、フォルカの唇が綻んだ。

 メアリの手を強く握り返してから離す。胸元に拳を握りしめて、深く頷いた。


「勝てるとは、言いません。でも、最後まで諦めないことを……選択から逃げないことを、誓います。……そういうことですよね、ノーマさん」

「……知らねえよ」


 尻尾をくねらせて視線を逸らすノーマの反応が照れ隠しであるのは、その場の全員に筒抜けだった。

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