138 選手生命と予選準備
日本の夏の一大イベント。全国高校生硬式野球選手権大会の本戦。
即ち夏の甲子園の開催を間近に控えた8月1日のこと。
野球界に1つのニュースが駆け巡った。
瀬川正樹、右肘靭帯断裂。
靱帯再建手術へ。
東京プレスギガンテスユース公式からの発表なので、飛ばし記事ではない。
と言うか、俺はそもそも数日前に昇二から聞いてそれが事実だと知っていた。
……まあ、愕然とし過ぎて、公式発表までは半信半疑な部分もあったけどな。
「それにしても、靱帯再建手術……か」
「まだ18にもなってないのに、まさか選手生命にも関わるレベルの大怪我をしてしまうとは……可哀想なことです」
村山マダーレッドサフフラワーズが借りている練習場に心配そうな声が響く。
ウォーミングアップ中の新垣選手兼コーチと大法さんの会話だ。
以前程ではないにせよ、注目選手の1人として活躍を期待されていた正樹。
その大き過ぎる怪我はよくも悪くも話題性があった。
一度靱帯損傷で前線を離れ、色々な意味で取り沙汰されていたから尚更だろう。
それだけに、正樹の今後に人々の関心が集まっていた。
「野球を続けられるのか。続けられたとして、元のように投げられるのか」
「手術自体は成功したとしても、リハビリがうまくいくかは分かりませんからね」
この野球に狂った世界では医療関係も大分野球に寄っている。
レベルの高い整形外科専門医の数も前世に比べるとかなり多い。
手術そのものが失敗する懸念は小さい。
医療保険や控除も野球関連は特に手厚く、金銭的な負担も少ないはずだ。
正樹が手術を受けることに関しては、特に大きな障害はない。
問題はやはりその後。
復帰できるかどうかだろう。
勿論、リハビリテーションの体制も前世より整ってはいる。
だが、そんなこの世界においても元の状態に戻せると断言することはできず、それどころか選手生命を絶たれかねない。
それが靱帯断裂という怪我だった。
「二度目と捉えることもできますからね。東京プレスギガンテスはどうするのか」
「さすがに問答無用で放逐したりはしないだろう。術後しばらくの間は様子を見るぐらいのことはしてくれるんじゃないか?」
「まあ、それはそうでしょうね。球団のイメージってものもありますし」
ほぼ復帰できない方向で話す2人。
靱帯損傷からの靱帯断裂だけに、世間の人々も8割方似たような認識だ。
そんな彼をチームがどう扱うか。
それも注目されている。
直接的な原因は無理をした正樹自身にあるのは間違いない。
しかし、チームの責任というものも当然ながらゼロではない。
指導者には安全配慮義務というものがある。
怪我や事故に繋がるような状況に陥らないように、練習内容にせよ、選手のモチベーションにせよ、うまくコントロールしなければならないのだ。
とは言え、人の心まで完全に制御することは難しい。
さすがに隠れて無茶な練習をされたらどうしようもないのも事実ではある。
だが、それを考慮に入れても、神童と呼ばれた逸材に2度目の怪我をさせたチームは世間からは厳しい目を向けられるだろう。
個人事業主であるプロ野球選手ならともかくとして。
正樹は未成年のアマチュア選手だからな。
たとえ誰がどう見ても復帰が厳しい状態だったとしても。
早々に見切りをつけて切り捨てる、では下手をするとチームどころか球団全体のイメージにまで影響を及ぼしかねない。
だから恐らく。
高校3年生の11月、ドラフト会議辺りにリミットが設定されると俺は思う。
そこまでは所属するだけさせて復帰の目途が立たなかったら、プロ契約はできません、さようなら。どこか指名してくれるチームがあるといいですね。
そんな感じになるんじゃないだろうか。
非情と言えば非情だが、そこまで待ってくれるだけ有情と言えなくもない。
いずれにしても、今のままの正樹ではこの未来が濃厚だ。
「…………村山マダーレッドサフフラワーズで指名して貰えるように、今からお願いしておくか。たとえ下位でも」
あーちゃんと準備運動をしながら聞き耳を立てていた俺は口の中で呟いた。
その言葉は耳には届いたのか、あーちゃんはこちらを見て首を傾げた。
「使いものになるの?」
彼女は素朴な疑問という感じで淡々と問いかけてくる。
そんな淡泊な反応に、俺は思わず苦笑してしまった。
「ちょっと辛辣過ぎないか?」
「ここにいない人の話。取り繕っても仕方がない」
「まあ、それはそうだけどさ」
一応、正樹も幼馴染なんだけどな……。
もしかすると、小学校の最後ら辺で正樹が俺に突っかかってきたのをあーちゃんは未だに根に持っているのかもしれない。
それはそうと。
「村山マダーレッドサフフラワーズが指名できる状況ってことはつまり復帰に失敗したってこと。さすがにそこから再起できるとはとても思えない」
あーちゃんの意見はもっともだ。
正樹は【生得スキル】【衰え知らず】のおかげで、どれだけ大きな怪我をしてもステータスそのものが低下することはない。
にもかかわらず、東京プレスギガンテスが契約を諦める状況。
それは肘の痛みや違和感、怪我へのトラウマ、イップスなどで十分に能力を発揮できなくなってしまったということに他ならない。
それでも一応、理屈の上ではステータス上の能力を引き出すことはできる。
しかし、それは体への影響を丸ごと無視した上でのこと。
【生得スキル】【怪我しない】なしでやるのは余りにもリスキー過ぎる。
再建した靱帯、あるいは別の箇所を痛めてしまう可能性が高い。
そこまで状態が悪くなった右肘をどうにかすることは【マニュアル操作】を以ってしても不可能な話だ。
それで傷病をどうにかできるなら、父さんの脳卒中をとっくに治してるからな。
「……まあ、それでも精神的な要因でさえなければ、何とかできる手はあるよ」
正樹が5歳ぐらい若ければ、恐らく他の指導者達も検討しただろう手だ。
力技だが、【衰え知らず】のおかげで確実性は高い。
「しゅー君がそう言うなら問題ない。わたしも一緒にお父さんにお願いする」
「あー、でも、まずは正樹の意思を確かめてからだな」
「……蜘蛛の糸を逃す手はないと思うけど」
俺もそうは思うけどな。
いずれにしても正樹にその気がなければ何も始まらない。
どうあろうと、彼自身の努力は必要不可欠なのだから。
「皆さん。かつての神童の行く末が気になる気持ちは分かりますが、都市対抗野球の予選はもう間もなくです。それこそ怪我のないように集中していきましょう」
そんなことを話していると、尾高監督が全体に向けて注意を促した。
それを受け、俺達以外の正樹の話をしていた選手達も表情を引き締める。
この世界では夏の甲子園とほぼ同時期に開催される都市対抗野球の予選。
それに備えて、チームは正に最終調整を行っているところ。
ここで怪我をしてしまっては、今までの努力が全て水の泡になってしまう。
折角【経験ポイント】取得量に補正がかかる俺とあーちゃんが常に練習に参加しているおかげで、チーム全体が見違えるようにレベルアップしているのだ。
怪我で試合に出られないとなったら、後悔は計り知れないものになるだろう。
よく言われることだが、練習は本番のように。
緊張感を持って臨まなければならない。
「今日は守備連携を中心に行います。ラストスパート、頑張っていきましょう」
「「「「「はいっ!」」」」」「「「うっす!」」」
正樹のセーフティネットになるためにも、まずは計画通りにこのチームを最短ルートで1部リーグに昇格させる必要がある。
だから、正樹のことは一旦忘れよう。
最初の関門。都市対抗野球の予選は目の前だ。
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