将軍の子と信玄の娘①
幼名を
生母は北条家遺臣の娘で、お
だが秀忠には、
秀忠からみて江与は六歳上、お静は五歳下にあたる。江与が自分より十一も若い娘に夫が手をつけたと知れば、どんな災いになるともしれない。十中八九、母子ともども隠滅するにちがいなかった。
苦悩したすえ秀忠は、うしないたくない一心から御流産の御指図をくだした。
一度目のときはお静も御指図どおりとした。が、二度目は思うところがあったのだろう。秀忠の指図に反し出産した。
しかも生まれてきたのは、なんと男子。つまり幸松は栄えある将軍の子、ご落胤である。
青天の霹靂とはまさにこのこと。ふってわいたお家の一大事にひっくりかえったのは、秀忠の側近である譜代の重臣たちであった。
御子の処遇について密議は紛糾した。
よりによって時機がわるすぎる。いまだ大坂には
駿府の大御所は健在だが、江与がつげ口でもしたらまた秀忠が叱責され、側近どもはいったいなにをやっているのかという話にもなる。だから江与の耳に入ることだけは何としても避けたい。
また先々の火種とならぬよう配慮もいった。ご落胤をかつぐ者がでてお家騒動となったらこまるが、ぞんざいに放置して路頭に迷わせようものなら、露見したとき徳川の権威にかかわる。
とにもかくにも、しかるべき預けさきを見つけねばならなかった。
そこで重臣の一人が、ふと名案を思いついた。
「……
「おお、なるほど。その手があったか。だがお引きうけくださるだろうか」
「見性院様はお口数がすくなく淑やかにあられるが、これまであまたのご苦労をなされたお方。遺臣たちへのこまやかなご配慮はもっぱらの評判である。そこを突いて情にうったえれば、きっとご承諾いただけるものと存ずる」
「ならば善はいそげだ」
すでに齢六十なかばを過ぎた見性院という女性もまた、戦国の世にあって数奇な運命をたどった人だった。
甲斐武田家一門
哀れにも三十七で夫に先だたれ、四十二のときに病で十六歳の息子をうしない、毎朝仏壇のまえで手をあわせる未亡人でもあった。
重臣たちからおどろくべき秘密と申し出を聞かされたとき、見性院は目をみはって動揺し、高齢ゆえに子の面倒をみるのは無理だとやんわり遠慮をした。
がしかし、そこは粘り腰が真骨頂の徳川家臣団。素直に引きさがってはくれなかった。断られてからが談判のはじまりとばかりに、そろって膝をにじりよせ、あつくるしい雁首でずいと迫った。
おもわず見性院はのけぞって距離をたもつ。
「せっかく泰平の世に生まれたお命、どうして見捨てることができましょうか」
あわれな身のうえの子が気にならなくはない。そういわれるとこまる。
「栄えある将軍の御子をあずけられるのは、徳川とおなじ清和源氏の名門、甲斐武田家をおいて他にござりますまい。われらはさように思いきわめ、本日参ったしだい」
「御家にとっても悪い話とはならないはずです。たとえば御子の警護に武田家の浪人をやとわれてはいかがか。もちろんご養育にかかるもろもろのお手当ては、武士の面目にかけてお約束いたしましょう」
さすがは徳川譜代の家臣たち。見性院は心のなかでうなる。痛いところを絡めてくるし、押しがつよかった。
たしかにここで徳川に恩を売っておくことは、武田の者にとって悪い話ではない。
いまは武田ゆかりの者が挨拶にたずねてきてくれても、なにも持たせてやれないのが心苦しい。できることなら困窮する浪人たちのくらしむきを支え、あらたな仕官先を紹介してやりたい。つねづねそう思ってきた。
「やはり御家以外に考えられませぬ。これで徳川と武田のきずながより一層ふかまり、両家はますます安泰となりましょう」
機をみるに敏。突破口がかすかに開いたとみた重臣たちが、つぎつぎと条件を上乗せしてたたみかける。
恫喝めいた泣きおとしに押された見性院は、とうとう断りきれなくなって首を縦にふってしまった。
一応の体裁がととのった、これで秀忠の面目もたもたれた。胸をなでおろしたのは重臣たちであったが、賢しい彼らにも想像がおよばなかったのは、さきに見性院がことわろうとした真の理由である。
じつのところ、厄介だから避けようとしたわけでもない。
自分でもよくわからなかったのだ。ながい歳月をかけてやっとあきらめたはずの、女としての、母としての慈愛が、まだ己のなかにあるのかないのか。
息子の勝千代のことが脳裏をよぎる。
「一人の男子を育てるというのはたいへんな仕事。ましてや将軍のお子となれば、なおさら。勝千代だってよく夜なきをしたし、発熱でもしようものならみなで大さわぎ。私のようにいたらぬ女では、お健やかにお育てできるかどうか。なにより、不慮のわかれがこわい――」
しかしそれは、見性院の杞憂にすぎなかった。
幸松がやってきた日のこと。
あかく血潮のにじんだ、楓の葉のように小さな手におそるおそるふれたとき、生命力にあふれたやわらかな熱が老いた細身にしみわたり、胸奥に封じこめてあった行き場のない心が、ぱっと一気に解き放たれたのである。
ひさしぶりに見性院は、一抹の憂いもなく心から笑い、軽やかな気持ちになれた。
あとはお静がはじめての子育てになれていないともすぐに覚った。
まわりに父の名をあかすこともできず、ひとり隠れて子をなした。一歩目をおしえてくれる人もなく手さぐりで孤軍奮闘してきたのだろう。女としてなんとあわれな運命であろうか。
寄る辺のないその境遇が、かつて己のたどった道とかさなり、母子ともども抱きしめてやりたい気持ちになった。
あせって幸松を泣きやませようとするお静に、見性院がしみじみ諭した。
「よいのです。なにもおそれることはありません。大声で泣く子は、もののふの大将として有望なあかしなのですよ。大将の一声は兵の心を鼓舞し、戦の勝敗をも左右するもの。だから無理におさえつけず、むしろよろこばなければなりません」
お静がきょとんとして、つぎの瞬間には肩をふるわせぽろぽろと涙をこぼした。
「これからは私たちを家族と思いなさい。どうか己を責めず、もっと心を楽になさい。一度きりしかない子との時をたいせつにするのです。そうでなければ幸松がかわいそう。そう思いませんか」
「はい……おっしゃるとおりです。だいじなことを見失っておりました。ありがとうございます」
見性院はやわらかく微笑して、幸松をそっとだきかかえると、子守唄をくちずさんだ。
それはいつか母が教えてくれた、上方風のなつかしい謡。
ついさっきまで思いだせずにいたのに、いまはおぼえているのだから不思議だった。
すぐに泣きやんだ幸松が、光たゆたう黒々とした瞳で、じっとみつめかえしてくる。
腕のなかでみずみずしい命の熱を感じ、おさない勝千代の面影がかさなった。
「なにかを求めるまっすぐな目。きっとこの子はよい武将となるでしょう。そんな気がします――」
ながいあいだ肩のうえにのしかかってきた重い空気が、いつしか嘘のように晴れている。
それからというもの見性院は、幸松のことを我が子のごとくいとおしみ、たいせつに育てた。
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