事故と陰謀 5

 夕方に目を覚ましたクラリスは、すぐそばにアレクシスがいるのを見つけて目を丸くした。


「アレクシス様、どうし――痛っ」

「クラリス、動くな。怪我をしているんだから」


 起き上がろうとしたクラリスが全身に走る痛みに顔をしかめると、アレクシスが慌てて手を伸ばしてくる。クラリスを支えながら背中にクッションを入れてくれた。


「ありがとうございます。あの、わたし……」


 クラリスはそこで、買い物を終えて店を出たところで暴走車にはねられそうになったことを思い出した。


「そうだ、エレンは⁉」


 暴走車はクラリスの目前に迫っていた。

 エレンがクラリスを突き飛ばさなければ、馬にはねられるか馬車に轢かれるかして、最悪クラリスは命を落としていたかもしれない。


 突き飛ばされたクラリスは頭を打ったからか意識が朦朧としてしまって、少し離れていたところに停めていた馬車からブラントーム家の御者が駆けつけてきて、そのまま伯爵家へ運ばれたことしか覚えていなかった。

 一緒にエレンもブラントーム伯爵家へ連れ帰られたはずだが、クラリスはそのまますぐに部屋に運ばれて医者が呼ばれ、そして侍医頭も駆けつけてきて、鎮静剤が打たれてそのまま眠りについてしまった。エレンの無事がわからない。


「エレンも命には別条はない。ただ、骨折して、しばらくは絶対安静だけど……」

「わ、わたし、エレンに会いに……」


 クラリスを守ろうとしたせいでエレンの方が重傷を負ってしまった。

 真っ青になるクラリスに、アレクシスがゆっくりと首を振る。


「エレンは今は眠っているから。クラリスも頭を打っているんだ、しばらくは安静にしないとダメだよ。無理に動こうとしないでくれ。君が事故に遭ったと聞いて、どれだけ肝が冷えたか……」

「ごめんなさい」

「いや、謝らなくてもいい。だけど、護衛が一緒だったはずだよ。護衛はどこに?」

「ご……護衛は、馬車に残してきて……。お店の近くに馬車を停めたし、その、ちょっとお買い物するだけだったし……あまり大きなお店じゃないので、護衛を連れていたらお店の迷惑になるかなと」

「クラリス」


 アレクシスの声にあきれと非難の色が混じってクラリスは悄然と俯いた。


「ごめんなさい……」


 しおしおと縮こまると、アレクシスがそっとクラリスの包帯に触れながら困った顔をする。


「まあ、馬車の暴走だから、護衛が側にいてもどこまで役に立ったかはわからないけど。それでも、護衛は側から離したらダメだよ。僅か一瞬でも、だ。いいね?」

「はい……」

「わかったならいい。おそらく義父上が護衛を叱責しただろうから、あとで俺からも事情を説明しておくよ。それより、喉は渇いていない? 先生から痛み止めが処方されているから、水が飲めそうなら一緒に飲んでおいた方がいいよ。完全に薬が切れたら痛みだすだろうからね」


 アレクシスが水差しからコップに水を注いで、薬包とともに差し出す。

 クラリスが水と薬を飲んでいる間に、アレクシスはメイドを呼んでハーブティーを入れてくるように頼んでくれた。アレクシスによると、今回処方されている痛み止めは紅茶と一緒に飲むと効果が弱まるそうだ。


「クラリス!」

「起きたのか⁉」


 メイドから聞いたのか、ハーブティーが運ばれてくる前に両親が部屋に飛び込んでくる。

 両親が部屋に飛び込んでくるとほぼ同時に、騎士服に身を包んだ一人の男が部屋から小さく顔を出した。


「アレクシス様」

「ごめん、クラリス。少し外すよ」


 彼はアレクシスの客人のようだ。

 アレクシスが部屋から出ていくと、両親が心配そうにクラリスの顔を覗き込みながら、口々に意識ははっきりしているのかとか痛みはあるのかとか聞いてくる。


「大丈夫です。それよりエレンは……」

「ああ、まだ寝ているが、先生から絶対安静と聞いている。しばらく仕事は休みにして休養させればいい。実家に帰るかここで休養するかは彼女に選ばせよう」


 クラリスのために怪我をしたので、休んでいる間の給料ももちろん支払うと父親が請け負ってくれる。医療費も伯爵家持ちで、見舞金も出してくれるらしい。エレンはあまり裕福でない男爵家の出身なので、お金の心配をして休んでくれないかもと不安だったが、父が手厚く対応してくれると約束してくれたので大丈夫だろう。


「実家に帰ると、小さな弟妹達がいて休めないでしょうから、うちで治療に専念させた方がいいかもしれませんね」


 エレンの家は子だくさんで、エレンの下に四人の弟妹がいる。下の二人は男女の双子で、まだ四歳だ。遊びたい盛りで我慢がきかない年齢なので、なかなか帰らない姉が帰ってきたら大喜びではしゃいでしまうだろう。きっとエレンはゆっくりできない。


「なるほど、そうかもしれないな。ではエレンに家で休むように言っておこう」

「お願いします」

「エレンの代わりの侍女はこちらで手配するつもりだが、どうする? 結婚後、もう一人侍女を増やすつもりだっただろう? 少し早いが雇ってしまってはどうだ」

「そうですね、そうしましょうか」


 エレンが復帰するころにはアレクシスと結婚式を迎えるだろう。それならば臨時雇いで入れるより、もともと雇う予定だったのを早めればいい。


(でもそうなると……ニケではなくなるのかしら?)


 クラリスとアレクシスの結婚後に雇う侍女はニケという十六歳の少女だった。エレンをクラリスの侍女頭としてその下につけるため、同じくらいの身分の男爵家から選んだ。それ以上の身分だと、エレンが気を使ってしまうだろうからだ。


(ニケは確か……春前まで別の伯爵家で働いていて、そこの主人が横暴で嫌になって辞めたのよね。そのあとうちの求人に応募してくれたから、今はまだ前のお邸で働いているころよ)


 そばかす顔の、笑顔の可愛らしい気が利く女の子だった。できればニケがよかったが、別の伯爵家で働いているところを引き抜いてくるわけにはいかない。


「問題なさそうなら、こちらで求人を出しておくが。面接はクラリスとアレクシスがするといい」

「わかりました。じゃあ、お父様、よろしくお願いします」

「ああ。侍女の採用が決まるまではメイドに頼んでおこう。希望はあるか?」

「それなら、フィナが年回りも近くていいかもしれません。エレンとも仲がいいですから」

「それならフィナに頼んでおこう」


 フィナでなくとも、うちの使用人は貴族平民関係なくみんな仲がいいから誰でも大丈夫だろうが、エレンが気を使わず頼みごとができる人間の方がいいだろう。エレンは年長者に特に気を使う傾向にあるため、年上だと遠慮してものを頼めないのだ。フィナはエレンの一つ下で、休憩中によくおしゃべりもしているから、彼女なら気を使わず頼みごとができるだろう。

 侍女の採用と、しばらくエレンの代わりにフィナをクラリスの側につけることで話がまとまって、両親と他愛ない話をしていると、アレクシスが戻って来た。


(何かあったのかしら?)


 アレクシスの表情が少し強張っている。

 アレクシスが来ると、両親が気を利かせて部屋から出て行った。

 二人きりになると、アレクシスがベッドの縁に腰を掛けて、そっとクラリスを抱きしめる。


「アレクシス様、どうかしたんですか?」

「ああ……いや、何でもないよ……」


 アレクシスの歯切れの悪い返答から考えるに、彼は何かに迷っているようだった。


(気になるけど……言いたくなさそうだから、無理に聞き出すのも悪いわよね?)


 アレクシスも王太子の側近と言う立場であるから、婚約者と言えど何でもクラリスに教えることはできないのだ。クラリスもそれをよくわかっているから、彼が言おうとしないときは訊ねないようにしている。

 怪我に触れないように注意しつつ、アレクシスがクラリスの頭を撫でる。


「クラリス……、君のことは俺が絶対に守るから」


 それはまるで決意表明だった。


(突然どうしたの?)


 アレクシスの腕の中でクラリスはぱちぱちと目をしばたたく。

 けれど、アレクシスはそれ以上何も言わない。


(わたしの身の回りにやけに警戒しているみたいだし……もしかして、わたし、誰かに狙われているの?)


 グラシアンを交えて三人で話したときは「結婚前の花嫁」が狙われる事件があると言っていたが、もしかしたら――


(でも、わたしが殺されたのは、結婚して一年後のことだし……)


 今の時点で、アレクシスとウィージェニーは何の関係もないはずだ。だから、ウィージェニーの嫉妬がクラリスに向けられることもない――いや。


(待って、ウィージェニー王女はいつからアレクシス様のことが好きだったの?)


 アレクシスが既婚者でありながら関係を持ったということは、少なくともウィージェニーはアレクシスに好意を抱いていたはず。

 その好意は、いったいいつから持っていたのだろうか。


(胸がざわざわする……)


 ふと、花をめでる会の設営のときのことを思い出す。

 アレクシスに手伝うように命じたウィージェニーの表情はどうだっただろうか。


(ああ、見たくなくて顔を背けちゃったから、よく覚えていないわ)


 何故あの時ウィージェニーの表情をじっくり確かめておかなかったのだろう。

 クラリスが記憶している未来とは少し違うことが起きているのだ、ウィージェニーがもっと早くにクラリスを消そうとする可能性だってある。

 ウィージェニーの気持ちがアレクシスに向いているなら、二人の関係が決定的になってからクラリスを抹殺するのではなく、それより早くに行動に移す可能性だってあるはずだ。


(落ち着いて、わたし……)


 記憶の通りに進まない。それはどうしようもなく不安でもあるが、逆にチャンスかもしれない。アレクシスがクラリスの近辺を警戒しているということは、無防備だった未来のクラリスと違い、守られているということだ。


(このまま、わたしも死なずに、ずっとアレクシス様といられるかもしれない)


 もしそうでなくとも、守ろうとするくらいにアレクシスはクラリスを大切にしてくれている。愛してくれているという証拠だ。

 未来が変わるなら嬉しいけれど、変わらなくても、アレクシスに大切にされているという今があればそれでいいような気もした。

 たぶん、同じ未来を迎えても、今度は彼を恨まないでいられるかもしれない。信じていられるかもしれない。


 クラリスはアレクシスの腕の中で、そっと目を閉じた。


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