第4話成り上がりの旦那様
婚姻の話をいただいてから初めて伸ばし始めた髪の毛はようやく襟足に届く長さにまではなった。いままで伸ばしたことがなかったから、髪を伸ばすのにはこんなに時間がかかるなんてことも知らなかった。
母や妹は貴族の女性らしく当然のように腰まで届くほどの長い髪の毛だけど、一体どれほどの期間伸ばしていたのだろう。そんなことを考えながら、黒い毛先をつまんでいじる。
……軽く毛先を引っ張るとわたしの視界に髪の毛が映る。新鮮だった。
鏡に映ったそれを見るよりも、艶やかで色も黒々として見えた。
(……悪い色ではないと思うのだけれど)
不貞の証だと両親からは嫌われ、周囲の人からは蔑まれるこの黒髪だけど、私は自分のこの髪の色は嫌いじゃなかった。
今日はわたしの婚約者、バルトル様がわたしを迎えに来る日。
わたしは引きこもっていた別邸から、久しぶりに本邸へと連れて行かれる。
本邸に長く勤めている侍女長から汚いものを見る目で見られながら、若い侍女たちに取り囲まれて本日の身支度を施された。
彼女たちもわたしが不貞の子であることを知っている。不貞を働いたのは母だけど、女主人であり一時は不貞を働いたもののその後後継を産む役目を果たした母を冷遇するわけにもいかないから、その矛先は子供のわたしに向けられるようだ。
支度の最中はずっと無言だった。
ほとんど付けたことがなかったコルセットを身につけるのが苦しくて、蛙のつぶれた声みたいな声を上げてしまった時だけクスクス笑われた。みっともない姿は晒したが、伯爵家の令嬢として恥ずかしくない立派なドレスはどうにか着られた。人前に出ることのなかったわたしはドレスを持っていなかったけれど、お母さまが今日の日のために仕方なく用意してくださったらしい。
……ただのお母さまの見栄っ張りだけれど、きちんと装飾のされた立派なドレスを初めて着たことはほんの少し嬉しかった。
「ああ、やあ、どうも」
初めて入る我が家の来賓席。さも、わたしはこの家の令嬢です、という風体で椅子に座るわたし。……いえ、不貞の子といえど、籍としてはこの家の娘ではあるから間違いではないのだけれど……。父と母と並んで座るのは、落ち着かなかった。
男はすでに屋敷には到着していたようで、支度を終えたわたしが席に着いたらすぐにこの部屋に通された。
「バルトル・ガーディアと申します。本日はありがとうございます」
彼の声に振り向き、そして目に入った彼の容姿にどきりとした。
金髪。父と同じ、ブロンドヘアー。父の存在を意識してしまって、わたしは咄嗟に身を縮こませた。けれど、挨拶だけは、ちゃんとしなくては。
「初めまして。ロレッタ・アーバンです。婚姻のお申し出、ありがとうございます」
わたしは慣れないお辞儀をする。社交の場に出たことはないけれど、礼儀作法は母から厳しく躾けられていた。
……教えてくれていたのはわたしのため、ではなくて、鬱憤ばらしのためなのだろうけど。一度も褒められたことはなくて、ひたすら叱られるために、わたしはマナーレッスンを受けていた。些細なこと、つまらないこと、取るに足らないミスでわたしは母から厳しく叱られた。
ちゃんとできているように見えているかしらと不安になりながら彼を見ると、バルトル様はにこやかに微笑まれていたから、失礼はなかったのだ、と思いたい。
「……お約束していた支度金をお持ちいたしました。婚姻の誓約書もございます。お認めいただけましたらぜひ、今ここで正式に彼女と婚姻を結びたい」
バルトル様は重そうな革のトランクを父に渡した。父はすぐ中身を検分し、ニヤリと笑う。
「確かに。父として、我が娘との婚姻を認めよう。今この時からこの娘は君のものだ」
「ありがとうございます。では、こちらを」
テキパキとされている方。そういう印象を受ける。
どうしても金色の髪が気になってあまりお顔を見れないのだけど、大声ではないのによく通るハリのある声、シャンとした背筋。わたしと挨拶を一言交わしたらすぐに父とのやりとりに移るところだとか。
利を求めた求婚なのだから、当然なのだけど、わたしにはさほど興味はないんだろう。
誓約書を受け取り、わたしもサインをする。これを貴族院に提出すればわたしたちは正式な夫婦だ。
父は早速早馬に届けさせようと使用人に指示を出した。
その間、値踏みするような目でねっとりとバルトル様を見つめる母。
チラチラと支度金のトランクをずっと気にしている父。
バルトル様の清潔感のある真白いスカーフを眺めるわたし。
ハリがある厚手の生地は、離れた距離から見ても上質な素材であることがわかる。バルトル様の髪を視界にあまり入れないようにしながら、不自然でない程度に目を逸らすと、どうしてもこの襟元ばかりを見てしまう。
「君は病弱だと聞いている」
「…………は、はい」
不意に話しかけられ、わたしはつい吃る。もしかしたら、不意に、ではないのかもしれない。彼は私を見ていたのかも。男性のお声を耳にするのはお父様以外には滅多にないから、聞き慣れない低い声が必要以上に胸をどきりとさせる。
ハッとして、つい目線を上にあげると、金髪にやはり萎縮してしまう。金の髪は見ないように、見ないようにとその代わりに蒼い瞳をじっと見るようにした。
「家を離れることになるのは平気かい?」
「はい、ええと……病気も、もう良くなりましたので。ご心配には及びません」
「ええ、長い間、過保護にしてたんですがね……。もう、大丈夫でしょうとお医者様からも太鼓判をいただいていますから」
そもそも病弱な娘ということ自体が偽りだ。心配をする彼の言葉にさっそくわたしの胸がちくりと痛む。
わたしの言葉に合わせて、お父様が笑いながら「ご心配なく」と続ける。その時、背中を軽く押されてビクッとしてしまった。
「ああ、なに、子作りの心配もいりませんから。まあ体力がないところはあるかもしれませんが」
……辱めるような父の言葉。だけれど、バルトル様が貴族の妻に求めているのは、そういうことだろうから、ご心配される点ではあるだろう。
バルトル様は一代限りの男爵位。この爵位が子孫に継ぐことを認められるには、魔力を持った子供がいなければいけない。そのために、バルトル様は貴族の娘を求めた。
……わたしの本当の片親が、魔力を持たない平民とも知らないで。わたしが、なんの力も発揮できない出来損ないの魔力しかないとは知らないで。
きっとわたしは魔力を持たない子しか産めない。
父は、早く子を産んでしまえ、と言っていた。そうしたら真実を知ったあとも離縁しづらくなるからと。
『野良犬の子だけあって、男好きのする身体にはなったじゃないか。成り上がりの平民男なんて元々腰振るしか能がないんだ、孕むまで毎日床に誘ってさっさと子供を産んでしまえ。子ができずとも身体を気に入ってもらえれば離縁されることもないだろう』
(……)
父の下品な笑みを思い出してしまって、わたしはつい唇を喰む。
父はバルトル様の出世が気に食わないらしい。だから、わたしと結婚させて彼のこれからを邪魔しようとしている。
バルトル様は父の言葉には特に何も応えなかった。ニコリ、と口元に携えた微笑みも微動だにせず。
何を考えていらっしゃるのかしら。
考えても、わからない。
◆
家を出る支度はバルトル様がいらっしゃる数日前には終えていた。
「荷物はこれだけ?」
わたしの荷物を載せてもらう荷台は、全ての荷物を積んでもだいぶスペースが余ってしまっていた。
家にずっと篭りきりだったからあまり服も持っていないし、本はよく読んでいたけれど、重たいし嵩張るから置いていくつもりだった。
「そっか……」
バルトル様はわたしが暮らしていた離れの方を目を窄めて眺めているようだった。
「向こうに着いてから、必要なものが出てきたらなんでも言ってくれ」
そして、ニコリと微笑まれる。多分……微笑んでいる。あまりお顔が見れないから、よくわからないけど。
馬車の中へ乗り込み、対面で彼と座る。
もう書類上では夫婦となり、これから共に同じ屋根の下で暮らす相手だというのに、わたしは未だにバルトル様の高級そうなスカーフばかりを見つめていた。
「白い肌に、黒い髪が美しいね」
「えっ……」
馬車を走らせて、しばらく経ってのこと。
突然バルトル様が口を開いた。
「さっき、日向にいる君を見てそう思った。君の黒い髪に光が当たって、天使の輪のようだった」
「……あ、ありがとうございます」
なぜ、急にそんなことを言い出したのだろう。もう妻となったのだから、口説く必要などもないのに。
天使の輪、だなんて浮ついたことを。絵画の中の天使は、みんな柔らかなブロンドヘアーだ。わたしみたいな黒髪の天使なんていないのに。
(……でも、わたしの髪を褒めてくださった人は初めてだわ……)
このお方にとっては、きっと大した意味のない社交辞令。迎え入れた妻へのサービストーク。だけれど、わたしは、そんなことを言ってもらったことは初めてだった。
だから、嬉しくて、つい胸が高鳴ってしまった。そして、つい彼の顔を真正面から見てしまったのだ。
バルトル様は、本当にお顔の整った方だった。
蒼瞳は大きく煌めいていて、鼻筋が通っていて、有り体に言えば美男子だ。
さきほど、日向に当たったわたしの髪を褒めてくださったけれど、彼こそ、本当にきれいだ。車窓の隙間から差し込む光に照らされて、キラキラと金の髪が輝いていた。
この時初めて彼と目が合って、彼に見惚れて呆然としていたわたしがハッと息を呑む間にバルトル様はにこりとお笑いになった。歯並びの良い白い歯が見えた。
こんなに爽やかに笑う人を、わたしは初めて見た。
(平民のお生まれということだけれど、本当にそうなのかしら)
物腰は穏やかで、優しいという印象を受ける。父から伝え聞く平民の姿とは、まるで違う。きっと、父の語りは平民を軽視する父の認知の歪みがあるのだろうとは思っていたけれど、でも、それにしても彼はしなやかでスマートな男性だ。
(むしろ、王子様みたい)
本の中で描かれるような王子様。彼の容姿や振る舞いからはそんな印象を受けた。
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