嬰喰使の女(えばみしのおんな)
たけりゅぬ
一、関東検非違使所(カントウケビイシドコロ)
平安初期の貞観年間(865年前後)、不死山は大噴火を繰り返し常に噴煙を上げていた。
その不死の山を西方に臨む最果ての地、武蔵の国に関東
国衙に隣する館は貴顕の住まいもかくやというほど豪壮だ。
檜皮葺きの巨大な母屋に東西の
館の主は地獄
本来の長官、
その館の一角、東の対屋は
それでもこの離れの局室の一つということになっているが、そこに居るのは上臈ではない。
格子から中を覗くと、光がうっすらと射し込む藁床の上に襤褸のようなものが載っていることに気づくだろう。
その襤褸は藁の上で全く動かないのだが、飽きずにじっと見ていると、かすかに上下に動いているのが分かる。息をしているのだった。
足音が近づいて来る。
しっかりとはしているが調子の崩れた足音だ。
それに襤褸が反応して頭をもたげ、炯炯と光る眼を格子の外の人影に注いだ。
「クサビ、地獄様がお召しだ」
クサビというのがその襤褸の名で、この関東検非違使所で
走り隷とは野盗や罪人の追捕を担うものを言う。
それならば域外の隷長屋にいるのがふさわしいが、クサビは判官様の命で去る夏からずっと水と少しの食餌を与えられこの塗籠に幽閉されているのだった。
その間、月日も分からず常にひもじさも感じていたがクサビはそれを甘受した。
この度の罪穢はそれに値すると思ったからだ。
妻戸の向こうから呼びかけた男はザワと言う衛士だった。
悪い男ではないが、ここの大概の男どもに倣ってぞんざいで無愛想だ。
ザワは入り口の錠を開けると塗籠の中に何かを差し入れた。
それは水を張った手桶、洗いざらしの装束一式と櫛で、判官様に謁見するための支度道具だった。
ザワは無言で入り口に佇立している。
クサビは垢じみたものを脱ぎ棄て裸になると、床の藁を一掴みとり手桶の水に浸して体を拭いだした。
クサビの細くしなやかで真白い背には鞭で打たれたような傷がいくつも刻まれている。
傷は顔と乳房以外体中いたるところにあって、その数たるや傷に慣れた仕置き隷さえ目を見張るほどだ。
クサビは髪を梳き終わり装束を整えると壁に掛かった
クサビは袿姿で塗籠を出る時必ず息をのむ。
この牢屋のような塗籠が今のクサビの局室だが、それでも屋根のある場所はクサビにはありがたい。
ここに来る前は雨曝しの藁草と変わらぬ扱いを受けていた。
また、判官様謁見用に宛がわれた袿は特別なものだ。
裸に襤褸のことが多かったクサビは、初任官の時錦糸の入ったこの袿を渡されたときには、体全体が打ち震えて声にならない嗚咽を漏らした。
無論、それらはクサビのものではない。
もしもこの先、下手を打てば袿は没収され局室から放逐される。もとの藁草にもどるのだ。
だから、ここに戻って来るために命も削る。心魂を月に奪われてもよい。それほど気を昂ぶらせている。
クサビは東の回廊を歩く。前を行くザワは足を引き摺っている。
以前走り隷とともに野盗を追捕したとき負った右足の傷のせいだ。
それまではクサビと組むこともあったが、今は庁内で走り隷を差配する任に就いている。
二人が母屋の大屋根を見上げる曲がりにさしかかった時、随身所からの橋廊を雉の尾のようなものが棚引いているのが見えた。
きららのような光の帯となってクサビの行く手の先へ移動している。
それを見てクサビはザワに聞こえないように舌打ちをした。
今度もあいつと一緒かと思うと虫唾が走る。
スハエ。
走り隷だが特殊な任を仰せつかるときのみ行動を同じくする男。
この度判官様からお呼びがかかったのは、ただの追捕ではないと予想していたが、あの男が呼ばれたのであれば確定といえる。
その任があいつがいてこそ収斂するのは分かっているが、クサビにとっては気に障って仕方ない男なのだった。
スハエの光彩は棚引きつつ回廊を曲がって進み、東中門の内の、真白く眩い空間に入って行った。
そこがこれからクサビが伺候する判官様の居所の
クサビたちが光彩を追いかけるかたちで東中門をくぐろうとすると、クサビだけ衛士の長槍に止められた。
ザワが少し先で立ち止まりこちらを振り返る。
ザワの肩越しに見えたのは、光彩が御前を横切り
衛士の男が槍の柄でクサビの頭を小突く。
髪上げを忘れていると指摘したのだ。貴人に謁見するには女は髪を上げなければならない。
クサビは腰紐を引きちぎって、走り隷にしては長い黒髪を纏めると頭の上で器用に束ねた。
衛士はほつれた前髪を槍の先で触れながら苦笑いするとクサビを中に通した。
この衛士の名はエツナ。ここでは感じのいい部類の男だ。
ザワは、クサビを御前に連れてゆき
「走り隷、クサビを連れ参りました」
と奏した。
日の光が差し込まぬ奥は沈黙が支配している。
階の両脇に長槍を持った衛士が佇立しているが、そこを昇る者を峻別する以外は、常時何の反応もない。
ザワは、
「しばし待て」
と言うなりクサビの目前に蹲踞して動かなくなった。
こうして御前に伺候するのはいく日ぶりか。
この前は炎天の下で御前を穢したのだった。思い出すに恥がましいが、ここに戻れたのは一方ならぬ喜びである。
御前から天を振り仰げば、ただただ美しい檜皮葺の上に判官様の威勢を示すがごとく高々と青い空があった。
クサビが応召して二度目の秋だった。
いつになく長い刻を御前で待っている。
そのこと自体はクサビは苦痛でないが、苛立たしいのは南廂の間にスハエがいることだった。
以前、何かに怯えた走り隷が間違って御前の階を昇り南廂に一歩足を踏み入れようとしところが、階の衛士に槍で串刺しにされた。
本来は
そこにスハエがいる。判官様の覚えめでたいとはいえ、あいつとて下郎に変わりないのだ。
スハエは胡坐をかき、鼻くそをほじっては、それをこっちに向かって弾き飛ばしている。
届くわけはないが所作のいちいちが腹立たしい。
めったに表情を変えぬザワでさえそれを見上げて顔をしかめている。
「判官様まいらせらるー」
スハエが奥に向かって這いつくばる。伺候する者ども全員がそれに倣う。
南廂のさらに奥、御簾の向こうの
他を圧する勢いとあふれ出る
その異形は僻地にあっても都をねめつける。
関東検非違使所は設置されて間もない役所だ。
まだ三年を経ていない。
しかしその内実が
嬰嶽とは、不死山の噴火で飛び散った、大地の精である
土魄は初め種子のように人の身中になりを潜めているが、何かの契機で人の心魂を核に結晶化して物の怪となる。
その姿は土魄に反応した心魂によって異なり定かではないが概ね小山の様態をなす。
ゆえに山の嬰児と書いて嬰嶽。
放置すれば不死山のごとき悪嶽となって大災疫をもたらすだろう。
嬰喰使はその所在を見出し
「クサビと言うか? そこの糞は」
判官様の言であるはずがない。
判官様の
「まさに」
「糞がクサビとは、言い得てよのう、スハエよ」
「仰せのとおりでございます」
「あやつの嬰喰の匂いといい、形といい糞そのもの」
「御意にございまする」
スハエは自分に話しかけ自分に返事をしている。
御前にいる者たちは皆、その滑稽さに笑いをこらえているが、スハエ一人そのことに気付いていない。
「スハエよ、この糞と共に、嬰嶽を狩ってまいれ」
「かしこまりましてござります」
「下がれ」
スハエの自演が終わらぬうちに御簾の中の気配が母屋の奥に消えた。
それに気づいたスハエは平伏のまま南廂の簀子まで下がると、勾欄に片足を乗せて、見下したようにクサビに向かって言った。
「そこの糞。明日の明け、
スハエは返事を待ったがクサビは応じない。
スハエはそれを見て鼻を鳴らすと、勾欄をひと蹴りして東中門の向こうに飛び去った。
その背に虹色の光彩を引きずりながら。
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