IV. 水死
空は曇っており、海はぼやけた青色をしていた。遠い水面を走る船のエンジンの音が響いている。
二人は海岸を歩いていた。どちらも水着を持っていなかったので、冷たい波打ち際に裸足の足跡をつけるだけだったが。
ざらざらした砂に混ざって、色々なものが打ち上がっていた。流木、フジツボのついた貝殻、研磨された陶器、錆びついた金属片、そしてプラスチック。男は内心、女が何かをわざと踏んづけて、また肉体を傷つけようとするのではないか、と心配している。女は何度か屈みこんで丸くなった石やガラスの欠片を拾ったが、すぐに海に投げ捨てた。
二人はどちらからともなく手を繋いでいた。特に意味はないと、お互いに思っていた。
女は空を見上げ、言った。
「そろそろ戻った方が良いかしら」
男はこのままずっと歩き続けたい気持ちでいたが、同意する。
「そうしましょう」
だが、二人が靴を履き終わらないうちに雨が降ってきた。
どちらも傘を持っていなかったので、二人はあっという間にびしょ濡れになった。
「とんだ目に遭いましたね」
「そうかしら」
女は子どものように楽しげに見えた。髪の毛や服を濡らす女の姿は今までで一番、人間味があった。
女のサンダルは濡れた石畳で滑って歩きづらそうだったので、男は手を差し出した。女はそれに掴まった。男は否応なく、濡れた服越しに女の体温を感じた。それに気づいた女の目には微かに揶揄うような色があった。男は女の言葉を思い出す──愛というのは、結局は肉体的なもの──が、男はやはり肉体的と心は隔たれてなどいない、と考える。
今に至るまで、二人は決定的な仕草や言葉を避けていた。男は猫のように慎重に、女は蝶のように軽やかに。二人の関係はある種の幻想で、現実離れしたものだった。
だが──男は、感情の上に張られた薄い膜が破れかけているのを感じた。
二人は身支度を整えるため、お互いの部屋に戻った。
二人はいつも通り夕食をとっていた。
男は何かをはっきりさせなければならないという衝動に駆られ、ワインを一口飲んでから口を開いた。
「私は……」
「なに?」
「この時間が終わることを恐れ始めています」
「それなら、終わらせるようなことはしないで」
女はやんわりと男の行動を止めようとしている、それが男には分かったが、無視した。いずれにせよ、この時間は永遠には続かない。
「あなたが言うように、すべては変わっていく」
女はグラスの縁を指で撫でた。ガラスが割れ、自分の指を傷つけることを想像しつつ、女は言った。
「では抗って。世界が崩れないように」
「崩れることが決まっているような言い方ですね」
「変化とは何かを破壊することよ」
「私たちは変化に抗えません。生きている限り」
今度は女がワインを口に含んだ。
それから女は言った。
「あなたは正しい……」
男は、女が自分とは別のことを考えている、と感じた。男は、物事をもっとはっきりさせなければならない、と思った。
「私は、私たちのこの関係が終わることを恐れてはいますが……変化とは、何かが失われることだけではありません。同時に、また別の何かが始まるのです」
「でも、それにも終わる……ずっと終わりが積み重なっていく……」
男は思わず女の手を握った。
「あなたはなぜ、終わることばかり考えるのですか」
女は男の手を見つめていた。女は指を絡めようか、振り払おうか考えている。
「さあ……始まりよりも確かだから、かしら……ああ、あなたの言う通りだわ」
「何がです」
女は独り言のように言った。
「ずっとここにいることはできないわ……」
男がなにか言いかけた時、女の携帯が鳴った。午後八時。女は男の手から逃れて電話に出て、テラスに向かった。男は女について行き、携帯を持つ女の手に耳を当て、異国の言葉を聴く。
男は何度か「愛」という単語を聞き取ったように思うが、定かではない。
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