植芝さんは美味しい

春菊も追加で

Chapter.1 小惑星メルヘル

 桜でんぶを乗せた炭水化物がもたらす眠気は木っ端、九回裏のホームランのように吹っ飛んだ。


 光景だけならば、ありふれも翻って甚だしい。おろしたての制服をまとった転校生は、エレベーターガールのように礼儀正しい笑みを浮かべ、午後一番の教壇の前でこう名乗った。


植芝うえしば千佳ちかと申します。人類を滅ぼすためにガニメデから来ました。皆さん、よろしくお願い致します」


 スマホをこっそり取り出し、『ガニメデ』を検索してみる。木星の第三衛星。――こいつ、宇宙人か。


 勧笑。失笑。呆然。クラスメイトの反応は様々だ。あたし、志目しもく鮎子あゆこはといえば、失笑が三で、呆然が七というところだった。


 だって、木星から人類を滅ぼしに来たと自己紹介する植芝千佳――やたら綺麗に背筋を伸ばして立つ前方の少女は、どうやったって宇宙人には見えない。


 身長は高校一年の女子平均より二回りは高いし、呉服屋の折り込みチラシに着物を着て写っていても不思議じゃない程度に美人だけれど、でも、斜めから見たって逆立ちして見たって、姿かたちは人間だ。


 ……それにしても、老いるとはこういうことなのか。宇宙人の自己紹介を隣で聞いていた担任教師(定年退職の二年前)の動じなさにも驚きだった。彼は転校生を空いている席に着かせると、何事もなかったかのように授業を開始する。


 そうして、その日の五限目の漸化式の解説が始まった。



※ ※ ※



 頭のおかしい人間というのは遠巻きに眺めている分には愉快痛快だが、頭がおかしいのだから近付きたくはないものだ。


 そういうわけで植芝千佳が編入してから二週間が経つが、観察していて友達が出来た様子はない。あたしは授業内容を右耳から左耳に聞き流し、ミスドのエンゼルフレンチを落書きしながら彼女の背中を眺める。植芝さんはあたしの二つ前斜め左の席に座っていて、あたしのノートにはドーナツの落書きが既に四つ並んでいた。


 あの自己紹介は一笑いとるための悪ふざけで、単に滑り倒しただけだった。単純にそういうことだと最初は思ったのだが、あれ以降も彼女はずっと、自分は宇宙人であるという主張を続けている。


 ……のわりに、宇宙人らしい仕草はまったくしない。仲間と交信するために校庭に地上絵を描いたりしないし、飛んでいる蝶を指に留まらせてパクっと食べたりしないし、突然アメーバみたいにグニャグニャになったりしないし、突然サファイヤ色に発光したりもしない。


 ただ、あたしたちと同じように、シャーペンを走らせながら授業を受けて、たまにあくびをして、お昼休みには購買で買った梅しそソーセージパンを食べて、雨の日には廊下で転んで、放課後になったら荷物をまとめて家に帰る――そんな変哲のない学生生活を送っていた。


 ――なんだか、全然つまんない。


 落書き中だったエンゼルフレンチを描き終わった。美味しそう。今すぐ儒号を抜け出して食べに行きたい。


 でも、あたしは基本的に真面目な生徒だから、そんなことをするわけもなく、五つ目のストロベリーリングの落書きに取り掛かる。その間も視界に写る植芝さんの背中は、いつもと変わらない姿勢のいい背中だった。



※ ※ ※



 図書室で騒ぐ人間は極刑に処せ。


 そんな風に内心で憤慨しながら、あたしは教室で本を読んでいた。青空にはしばしお別れ、カタツムリは連れ添いでウキウキ、時節は忍び足のように雨の降る梅雨の頃。帰りのHRが終わった直後には結構残っていた級友たちは、一度図書室へ行き、騒音に耐えられずに戻ってくると誰もいなくなっていた。


 それにしても読書っていうのは不思議なものだ。読みたいと思ったから借りたはずなのに、いざ読み始めるとページを捲る手がやたらと重い。


 周囲があまりにも静か過ぎて集中できず、『SEIKO!Yeah!』(最近ハマっている動画サイトのチャンネル)でも聞きながら読もうとスマホを取り出した瞬間だった。


 眼前、あたしの机の前に、植芝千佳が立っているのに気付いた。


「忘れ物を取りに来たら志目さんがいて……、話しかけたらお邪魔でした?」


 よっぽどあたしが驚いた顔をしていたのか、植芝さんは眉を八の字にし、少し申し訳なさそうな表情を浮かべる。


「別に邪魔じゃないけど……」


 あたしは耳に入れかけていたイヤホンを机上に置く。「はい、それじゃあ今日も成功に向かってイェーイしていきたいと思います」という動画の中のお笑い芸人の声が、急速に遠ざかっていく。


 そういえば、いつも一方的に様子を眺めているだけで、植芝さんと会話をするのはこれが初めてになる。――あたし、志目鮎子! たった今、宇宙人とのファーストコンタクトに成功いたしました!


「いったい、何読んでたんです?」


 こちらを覗き込んでくる植芝さんに、あたしは文庫本の背表紙を見せてやる。


「ロバート・シェクリイ。『人間の手がまだ触れない』っていう短編小説集」


「へぇ。面白いです?」


「あー、どうだろう。まだ読み始めたところだから、わかんないや」


「なるほど。……SFがお好きで?」


「たまたま気まぐれで手に取っただけだよ。SFで読んでるのは、有川浩と谷川流くらい」


「……そうですか」


 対話終了。気まずい沈黙。あたしも基本、特に仲良くのない人との会話は得意じゃない。


 植芝さんの顔にはっきりと「話しかけて迷惑だったかな」と恐縮の色が浮かぶ。


 彼女のことを奇異に思ってはいるけれど、落胆させるのは済まなく感じた。だから、何とか場を取りなそうと言葉を探す。口を衝いて出てきたのは、こんな台詞だった。


「ねえ、植芝さんってさ、めっちゃビームとか放てるの?」


「ビーム?」


 怪訝な顔をする植芝さん。


「ほら、転校初日に人類を滅ぼすって言ってたじゃん。だからビーム薙ぎ払って、地球を破壊するのかなって」


 何、この会話?


 でも、人類を滅ぼすとかおかしなことを最初に言ったのは植芝さんなのだ。もし、あたしを変な子みたい受け取るのならば、それは止めてほしい。


「そんな恐ろしいことしませんよ」


 植芝さんが笑った。初めて見る表情。公園で遊ぶ我が子を見守るような、そんな柔和な笑顔だった。


「それじゃあ、地球むっちゃ冷やしちゃうとか? むっちゃ自転をグルグルって早くしちゃうとか? 球体だったのを立方体にしちゃうとか?」


 首を横に振る植芝さん。


「私にそんな大きなことは出来ません。ガニメデのリィチ族が持っている不思議な能力はこれくらいです」


 六月の初めだけれど、準備が間に合わなかったのか、植芝さんはまだ長袖を着ている。左手のブラウスの袖を肘まで捲ると、予防接種を受けるときのように、あたしに向かって差し出した。


「志目さんをこの星の、滅びの第一号に選びます」


「え?」


「私の身体、食べてください」


 普通だったら、到底受け入れられない提案だ。でも差し出された植芝さんの左腕は、ホクロ一つなく擦り傷一つなく、白くモッチリとしていて綺麗だった。


 だから不思議とどういうわけか、食べてみることに抵抗はなかった。


 あたしは椅子に座ったまま、彼女の腕に両手を添える。鼻を近付けて嗅いでみるけれど、匂いは普通、食欲を誘う香りが漂ったりはしない。


「汚いよ? 本当に食べてもいいの?」


 見上げると、目を細めて微笑する植芝さんの姿が映る。どうぞ召し上がれという、そんな顔。


 あたしは舌を出し、まずそっと、舌尖を掌の付け根に触れさせる。ちょっと力を入れて押し付けると、植芝さんの皮膚は心地のいい弾力を返してくる。思い切って舌全体をペタとくっ付け、肘の内側までズズと走らせる。


 味覚に変換されて、植芝さんの身体の情報があたしに伝わった。


 濃厚な味がした。濃度が高くて粘度の高い、甘くて至福のミルクの味。温かなデニッシュの上で溶けていく、生贄のソフトクリームを容赦なく頬張る時みたいな、サディスティックと甘味接種の欲望が同時に満たされる感じに似ていた。


「美味しいよ! これ美味しい、植芝さん!」


「ふふ、喜んでもらえて良かったです」


「うん! 植芝さんの腕って想定外に美味しい!」


 彼女の左腕の皮膚の上に、ナメクジが銀河を這ったよう、あたしの唾液がラメのように煌めいて筋を描く。着飾ることに興味がない子に化粧を施すような楽しさが、その光景の中にはあった。


「ねえ、植芝さんって、どうして食べると美味しいの?」


 彼女と二人きりでいる教室という空間は、なんだか今が現実だという感覚を喪失させる。真上の蛍光灯が一度だけ、点滅して瞬いた。


「さっきから言ってるじゃないですか」


 植芝さんは笑顔を保ったまま言った。その笑いの中には少しだけ、妖しい艶やかさが感じ取れた。


「私は、人類を滅ぼすために美味しいんです」

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