香織とお風呂 パート1


 お風呂のボイラーが壊れた結果、シャワーも湯船も冷水しか出なくなった。気温も高くなってきたため水風呂で済ませることも考えたが、健康的にも熱いお湯に浸かることは大切だろうと判断し、俺は仕方なく脱衣所に戻って服を着直した。

 近所に銭湯はなく、修理屋さんも即日には動けない。また、キッチンでお湯を沸かすのも時間がかかりすぎるので、どうやらお風呂に入りたいなら幼馴染の力を借りるしかないらしい。


 着替えのパジャマと合鍵を持って、隣家のドアノブを回しに行く。

 すっかり鳴らすこともなくなったインターホンを横目に、俺は香織の家に足を踏み入れた。


「お邪魔しまーす」


 玄関横の物置スペースに置かれた花瓶と生花は香織のお母さんが趣味で置いているものだ。今は寝ているかもしれないので声は小さめにしておき、電気のついている場所から香織を探す。

 普段は香織が俺の家に来ることの方が多いが、俺だって何度もこの家には来たことがある。俺の家とはまた違う落ち着いた匂い。


 香織の部屋を開ける。

 整理された家具の配置。クマのぬいぐるみが鎮座する綺麗なベッド、これから勉強する予定であろう教材の出された机、勉強関連ばかりの本棚と、空気清浄機。他はクローゼットなどの洋服入れという感じで、遊びの道具は俺が前にプレゼントしたクマのぬいぐるみくらいしか見当たらない。


「ほんと、すごいな香織は」


 さっきまで俺と勉強していたというのに、家に帰ってからも自習の時間を設けているのだろう。開いたノートの上にはペンが置いてある。

 しかし、香織の姿はなかった。


「……もしかして、お風呂か」


 だとしたらお湯を抜かれると困る。

 きっと香織もお母さんもまたお湯を入れていいよって言ってくれるだろうけど、流石にそれは気が引ける。浴槽いっぱいのお湯は子供の想像より値が張るのでね。


「香織〜?」


 というわけでお風呂場。脱衣所のドアを声かけてから開ける。

 鏡、洗面台、洗濯機などなど水場で必要になりそうなものが揃ったそこは、案の定明かりが付いていた。洗濯物を入れるカゴに香織が今日着ていた服が見えて、思わず目を逸らす。


 シャワーの音。


 半透明な板ガラスのドアは水滴を纏っていて、その奥に見える景色はドット絵の方がまだ解像度が高い。


「お母さん?」


 脱衣所のドアを開けた音だけ聞こえたのか、香織が反響する声をあげてシャワーが止まった。


「ごめん、勝手に入っちゃった」


「え、斗真? ……うそ、どうしよう」


 曇ったガラスの奥で、肌色が慌てふためいている様子。

 中学の頃なんかは諸事情あってよく一緒に入った、というか入れてもらった記憶があるのだが、高校二年生ともなればお互いそれなりに羞恥心は成長している。

 用件だけ伝えて早く去ろう。


「俺の家のお風呂が壊れたみたいでさ、修理の人が来るまで何日かお風呂貸してもらえると助かる」


「そ、そうだったんだ。うん、それはもちろん、全然いいよ」


「助かる。じゃあお湯は抜かないでおいてもらえると。俺は外出てる」


「えっ、ちょっと待って!」


 バァン!

 凄まじい勢いで開かれたお風呂場のドア。

 それがカカカ、と音を立てて、今度は控えめに閉じていく。残された隙間から、もくもくと湯気がこちら側へやってくる。二秒ほど間を空けて、髪を濡らした香織が顔を覗かせた。


 水も滴るなんとやら。

 普通に直視していいか迷ってしまう美しさだが、視線は吸い込まれて動かない。


「せ、せっかくだしさ。斗真さえ良ければなんだけど、その、……い、一緒に入らない?」


「……入らない」


 確かに俺は香織の裸を見たことがあるし、一緒にお風呂だって何度も入ったことがある。興奮して大惨事なんてことを絶対に起こさない自信もある。

 でも、それは全部中学までの話。最後に香織と一緒にお風呂に入ったのも中学の話である。


「時短になるよ?」


「俺が速攻で入るからいい」


 香織の身体が成長しているのは、普段見てる服の上からでも明らかなのだ。

 おまけに最近の香織は、なんというか、自惚れを覚悟して言うなら俺を興奮させに来ているような言動が多い気がする。正直、かなり心が揺らされる。


「背中とか、流すよ」


「もう自分でできる」


 香織は俺にとって、本当に大切な家族も同然。

 彼女無しでは今日まで生きて来られたかもわからないくらい、俺の心をずっと近くで支え続けてくれている。俺が家族を失ったあの日からは特に近くで笑顔を絶やさず居てくれる。


『お姉ちゃんになってあげる』


 その言葉を聞いた瞬間、俺の心は救われた。

 香織は家族だ。

 ドキドキしないし、興奮もしちゃいけない。


「ならこれは、私のわがまま。ねえ斗真、一緒に入ろうよ。……イヤ?」


 大切な家族だからこそ……断り続けるのも辛かった。


 ドキドキ、興奮?


 そういうのは全部、香織を本物の家族だと思いたい俺がどうにかすればいい。それを理由に香織を悲しませるのも何か決定的に違うだろう。


「……嫌なわけないじゃん。分かった。一緒に入ろう。でももし俺が変なことしそうになったら殴ってでも止めてくれよ」


「へっ……変なことも、私は、別に」


「じゃあ入らない」


「わ、分かった! その時は止めるから!」


 ハァーと俺は大きくため息をついた。その後で香織にタオルを一枚渡す。


「高校生だから、流石にな」


「……そう、だね。じゃあ私、中で待ってるから」


「ああ」


 ドアが閉まり、ちゃぷんちゃぷんと水の音。


 大丈夫だぞ及川斗真。

 ただ昔と同じように、普通に入ればいいだけだ。


 服を脱いで腰にタオルを巻き、やたら丁寧に持って帰る衣類を折りたたむ。


(もし香織が俺に恋愛感情を抱いていたら……俺は)


 ふとそんな疑問が頭をよぎるが、お風呂場のドアを開けると同時に霧散する。


「いらっしゃい」


 湯に浸かった香織が頬を赤くして言ってきた。

 なんかそれだとお風呂が香織の家みたいだけど、他に言い方がないのも確かか。


 久しぶりに入った香織の家のお風呂は昔と変わらない様子だった。薄黄色で正方形のタイルが貼られた壁と、床は白の小さな丸模様。


 石鹸一式とイスを借りて、俺は頭からシャワーのお湯を浴び始めた。

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