それぞれの想い


 今にして思えば、本当に生意気な子供だったと自分でも思う。


 香織が食材を取りに行ってから、ソファの上で俺はふと過去に思いを馳せていた。正直、俺はあまり過去を思い出すことが得意ではないのだが、香織との出会については時々思い出すことがある。


「なにしてるの?」


 公園の隅でうずくまる香織を見つけて俺は初めて彼女に声をかけた。当時はまだお互い六歳で、幼稚園を卒業する少し前だったと思う。

 その頃の俺にとって香織は同じ幼稚園の子&隣の家に住んでる女の子というだけだった。しかし、元々俺の両親が積極的にご近所付き合いをするような人間じゃなかったので、ちゃんとした交流を持ったのはこの時が初めてだった。

 よく知らない女の子に話しかけるとか、今の俺にはできそうもない。

 すごいよお前は。

 記憶の中の自分を褒めてやる。


「おばあちゃんがね、ずっとお勉強しなさいって言ってくるの。昨日もおとといも、その前の日だって!」


 アリの行列でも眺めているのかと思ったが、どうやら違うらしい。

 みずみずしい声で言い放ち、香織は鼻をすすった。


「ふーん。……で、いまはなにしてるの?」


 バカかこいつは!

 我ながら情けないと本気で思う。

 勉強を強要させられて、逃げてきたに決まってる。

 でも、それを読めないのが子供のいいところでもあるのかも、と少し正当化してみる。


「にげてきたの。お勉強がイヤになったから」


 案の定な答え。

 まあ、昔のことなので俺が答えを知ってるのは当然なんだけど。


「じゃあ、いっしょにあそぶ?」


 手に持っていたサッカーボールを突き出して、俺から香織へ遊びのお誘い。

 香織は六歳にして既に、周りとは別格のオーラを放っていた。今と変わらないさらさらの黒髪が放つのは、もちろん美少女のオーラである。

 可愛いから話しかけたわけじゃない。

 ホントだよ?

 ただ幼稚園でも注目はしてたから、公園で見かけたときは話しかけない選択肢が俺には無かった。


「あそんでも……いいの?」


 不安そうな大きな瞳で俺を見上げた後、きょろきょろ辺りを見回した。監視の目があるか不安だったのだろう。


「いいんじゃない? てかダメなの?」


 俺の言葉に香織は人が変わったかのように目をキラキラ輝かせて、「あそびたい!」と大きな声で返事した。

 そのときの笑顔がとっても可愛かったもんだから、俺は心臓をこれでもかと高鳴らせた。


 ボールを蹴って交互にパスを回す。

 たったそれだけのことなのに、香織は信じられないくらい下手だった。

 ボールと喧嘩でもしているんだろうか? なんて幼心に俺が思う程度には、香織は明後日の方向にボールを蹴飛ばしたり、逆に止まってるボールに避けられてからぶったりしている。


 けど、そんな香織とのパス回しを俺は全力で楽しんでいた。

 スマホやゲーム機が普及してから子供は公園で遊ばなくなったという日本の現状を体現しているかのような公園で、俺はずっと一人で遊んでいたからだ。


「あれ、上手になってきた」


 五分もしないうちに香織はからぶらなくなっていた。それどころか俺の足元に正確なパスを出してくる。

 こうなったらもう楽しくてたまらない。

 時間も忘れて俺たちは遊び、空がオレンジに染まる頃になって香織は芝生の上に寝転がった。勉強ばかりさせられてきたと言うだけあって息を切らしていたが、その表情は出会った時とは比べ物にならないほど晴れやかな笑顔だった。

 そんな香織の隣に俺も寝転がる。

 繰り返すが、こんなこと今では絶対無理である。


「今日はとっても楽しかった! ありがとう!」


「おれもたのしかった。またあそぼうよ」


「またあそんでくれるの!? やったー!」


 喜ぶ香織が俺の腕に抱きつく。

 俺は顔を反対側に向けて、考えていたことを言う。


「勉強をがんばってるの、おれはすごいと思う。かけざんとかもできるの?」


「できるよ」


「2×3は?」


「6」


「7×8は?」


「56」


「……すげぇ。かっこいい!」


 この頃の俺には彼女の答えが正解かどうかも分からなかったが、すぐに答えが返ってくるだけで心からすごいと思った。

 今の俺からしたらきっと、エジソンに数学とはなんぞやと説明されているようなもの。

 理解できなくても凄いのは分かる。


「かっこいい? はじめて言われたよ、そんなこと」


「マジで? めちゃくちゃかっこいいよ!」


「そうかな?」


「ぜったいそう!」


 いつの間にか香織の方を向いていた俺は、彼女とぴったり目が合った。無駄に空気を読もうとする街灯がパッと光って俺たちを照らす。まだ空は十分明るいというのに。


「あぁ……っと、じゃあおれ、そろそろ帰るから」


「わ、わたしも」


 しかし、向かう先は同じ。

 なにせ家が隣にあるんだから。

 恥ずかしさに当てられた俺は口を開けなかったけど、幸い香織が話しかけてくることもなかった。少しだけ距離を空けて俺の後ろをついてくる。

 家の前に着くと、香織の方では母親が外に出て待っていた。途端、香織が唇を噛んだので、俺は嫌な予感がしてわざと大きな声で言った。


「きょうはあそんでくれてありがとう! 一人だったらたぶんつまんなかったと思うから、めちゃめちゃ助かった!」


 あくまでも誘ったのは俺だぞと主張する。

 実際に俺から誘ったのは事実なので、香織は少し首を傾げただけで「わたしもたのしかった」と笑ってくれた。

 家に帰った俺は靴を脱ぎ捨て、香織のことを両親に語り聞かせたものだ。二人とも笑顔で俺の話に耳を傾けてくれていた。


 それが俺たちの出会い。

 目を閉じ思い出しながら、俺は自然と笑っていた。







 思えば、斗真との関係が進展しなくなるかもしれないことくらい予想できたはずだった。


「…………」


 私たちが中学校に進学してすぐの頃、斗真の両親は事故で他界・・・・・・・・・・・した。大型トラックの運転手による酒気帯び運転が原因らしいと私はお母さんから聞かされた。

 大型トラックと普通自動車の衝突。

 ああ、考えただけでも最悪な気分になる。

 だってそんなの普通自動車が潰されるって子供でも理解できる。運動エネルギーも運動量も、圧倒的に違いすぎるのだから。


 もう具体的に何日かなんて覚えていないけど、両親を亡くしてから斗真はしばらく学校に行かなくなった。当然だ。私だって絶対に同じことをしただろう。斗真にとって唯一の家族だった親を失くすという傷心は、到底中学生に耐えられるものじゃなかったと思う。


 実際、これは少し良くない表現になってしまうけど、彼の心はずっと生きていないようだった。

 虚な目をして部屋の明かりすらつけず、何日間も枯れない涙を流し続けていた。

 動くのはトイレと水のためだけ。

 ご飯はろくに食べていないようだった。


 合鍵があるので斗真の家にはいつでも入れる。

 しかし、それすら怖くなってしまうくらいには彼の精気は吸われ尽くしていて、家には悪魔が住み着いていたようだった。


 それでも私は毎日彼の元に行った。

 共感も慰めもできない小娘だったけど、どうしても私が側に居てあげたかった。時には学校を休んでさえ。


「一口だけでいいから、食べて」


 そう言ってパンを食べさせた。


「身体は私が洗ってあげるから、お願い」


 そう言ってお風呂に入らせた。

 斗真の傷心を理解できるだなんて口が裂けても言えなかったけれど、元気の欠片もない斗真の姿を見ているだけではきっと私の心も保たなかっただろう。

 もっと何かしてあげたい。

 そう思っても、できることなんてご飯とお風呂の手伝いくらいで、既に「完璧」だともてはやされていた当時の私は自分の無力さを痛感した。


 いつも笑って、勉強に疲れた私と遊んでくれていた斗真。厳しい祖母から逃げ出したかった私が彼にどれだけ救われていたことか。


 またあの笑顔が見たい。ただそれだけなのに、それが絶望的に難しかった。


 斗真は家族に飢えていた。

 母親に会いたい、父親に会いたい、心が通じ合う家族に会いたい。その頃の彼は口を開けば祈るようにそう呟いていた。


「なら……私が」


 我慢の限界。

 卑怯以外のなにものでもないが、私は泣きながら彼を抱きしめた。


「私が斗真の家族になるから! お母さんやお父さんみたいには無理だけど、斗真の妹……ううん、お姉ちゃんに、私がなってあげるから!」


 他にどんな選択肢があっただろう。

 今でも私はこれしか言葉が出てこない。


「だから笑って? 今までみたいに笑ってさ、私といっぱい遊んでよ。斗真の元気な姿をお母さんたちにも見せてあげようよ」



 お姉ちゃんになる。家族になる。

 その言葉の意味を、高校二年生になって私はようやく思い知っていた。


 だが、しかし。

 私は下を向くつもりもなければ、諦めて振り返るつもりもない。家族になるという選択を後悔だってしていない。


 幼馴染のお姉ちゃん。

 そんなよく分からない立場でも、私のやることはただ一つだ。


 斗真をドキドキさせて、照れさせる。


 大好きな男の子に恋愛感情を抱いてもらう、ただそれだけである。


「よしっ!」


 自宅の冷蔵庫をパタンと閉めて、夜ご飯の材料を入れた袋を手に私は隣家へ移動した。

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