Ⅵ.冥王と食事会

「無理もない…突然冥界こんなところに連れてこられたのだ…。しかも騙し討ちのような形でな。警戒して当然だろう」


「…しかしこれでは、ハデス様は寝所に入れてもらえそうにないっすねぇ」


「構わん。どうせ寝所あちらで眠るより椅子こちらで起きていることの方が多い。」


「…そんな事をしてたらいつまで経っても既成事実が作れませんよ」


「ゼウスやポセイドンじゃないんだぞ…。夫婦としての契りも交わさぬうちからそんなことできるものか。ましてや無理矢理になど…」


ヒュプノスは少し目を丸くしながらも、どこか納得した様子で主を見やる。


「ハデス様ってけっこー紳士ですよね。弟君たちと違って」


「頼むからあのふたりと同列にはしてくれるな…」


やれやれと溜め息を一つつき、ハデスはペンを置いた。ちょうど区切りがついたので、そのまま椅子から立ち上がり、軽めにぐるぐると肩を回す。続けて僅かに上体を反らせば、腰や背中のあたりからポキポキと小気味良い音が鳴った。その音を聞き、ハデスは自分が思っていたよりも長い間書類に向かっていたのだと自覚する。


ふと執務机の上を見ると、仕事の合間に飲んでいた冥界産の神酒ネクタルの酒瓶が限りなくからに近くなっているのが目に入った。


神酒は冥界でも作られているがその品質はお世辞にもいいとは言えない。不味くはないが美味くもない、まさに可もなく不可もなくといった味だ。それでもハデスを始めとした冥界神たちが仕事の合間にちょくちょく神酒を口にするのは、たとえ何もせずとも冥界の空気によってじわじわと削られていく生命エネルギーを補給するためだった。


冥界の空気に慣れた冥界神らですら仕事の合間に頻繁に飲まねばならぬほど消耗するのだ、それが地上から来たばかりのコレーならば、その消耗はより一層激しいだろう。しかも、彼女はいまだ何も口にしていないと聞く。ハデスは寝所に閉じ籠ったままのコレーの身を案じた。


「…コレー様をお食事にでも誘ったらいいんじゃないっすかね」


まるでハデスの心を読んだかのようにヒュプノスが言う。ヒュプノスは他人の感情の機微きびに敏感で、頭の回転が速く、誰に対しても物怖じしない。間違いなく冥界神きっての切れ者である。それ故にハデスも特にこのヒュプノスを重用ちょうようしているのだが、その彼に唯一の欠点があるとすれば、それは…その知能を怠惰たいだのために最大限活用するところだろう。


「…見張り番は飽きたか。ヒュプノス。」


「いえいえまさか。ただ、ハデス様自身がコレー様をお誘いしてくだされば、ハデス様は愛しいコレー様と過ごせてハッピーだし、コレー様は栄養補給ができるし、オレもおふたりの間をバカみたいに何度も往復する役から解放されて一石二鳥…いえ三鳥かと思いまして」


いけしゃあしゃあと言ってのけるヒュプノスに呆れながらも、ハデスはその提案を受け入れることにした。


「…では、そうしよう。しかし…コレーは応じてくれると思うか」


「それはハデス様の人徳次第じゃないっすかね」


*****


かくして、冥府を流れるコキュートス川のほとりに建てられた円柱造エンタシス高台こうだい-冥界に所属する神々の休憩所として地上の神殿を模して造られたもの。普段はヒュプノスやオネイロスがよく昼寝をしている-には、冥府の王とその妃になるべく連れてこられた女神のためのささやかな宴席が急遽設けられ、そこにはハデスとコレーの姿があった。


「…先日は手荒な真似をしてすまなかったな。応じてくれたことに感謝する」


「…別に。目上の方からのお誘いを断るのは無礼だと思っただけよ。おじさまのことを許したわけではないわ」


コレーはそう言うとぷいとそっぽを向いた。


「そうか…。ならばそれでよい。しかしこれらの食物もの其方そなたの為に用意させたものだ。存分に食べるといい」


ハデスはコレーの小さな反抗に特に動じることもなく、机の上に並んだ色とりどりのフルーツや料理を指してそう言った。


「……」


その言葉を受けてコレーはちらりと机上の皿を一瞥いちべつする。 途端にコレーの腹がクゥ…と微かな音を立てて鳴いた。


そういえば、冥界ココに連れてこられてから何も口にしていなかった。神は不死なので食べなくても死ぬことはないが、美味そうな食べ物を前にすれば腹は減るものだ。


「…いただきます」


コレーは実りへの感謝の言葉を口にしてから、葡萄を一粒口に入れる。皮がぜ、芳醇ほうじゅんな薫りとみずみずしい果肉の味が口の中に広がった。


「…!美味しい」


「そうか…」


葡萄を頬張るコレーの顔をハデスは優しく微笑んで見守っていた。正直なところコレーには、この優しいおじが何故こんなことをしたのかさっぱりわからない。


(「私を連れてきてどうするつもりなのかしら…。まさかお父様やお母様に何か要求するわけでもないでしょうに…。何か不満があるとしてもおじさまならきっと直接交渉するわよね…」)


実をいえばコレーは冥界に連れてこられたことを怒っているのではない。コレー自身、冥界には前々から興味があったのでこんな形とはいえ来られたことは正直嬉しかった。コレーは昔からハデスの事を誠実で優しい、信頼できる大人だと思っていたし、子供の頃は淡い想いを抱いていたこともある。そんな彼と再会し、一緒に過ごすうちに幼い頃の淡い恋心を思い出して、密かにまた慕い始めていたというのに…何の相談もなく誘拐のような真似をして連れ去ったハデスの行動に対していきどおっていた。


(「…普通に冥界に来ないかと誘ってくれたら喜んで応じたわ。こんな誘拐の真似事をしなければ連れてこられないほど、冥界やハデスおじさまに対して悪い印象しかもってないと思われていたのかしら?そんなに信用がないのかしら!私!」)


そんなふうに思ったら腹が立ち、ますます空腹になった。コレーははしたないと思われない程度に気を付けながら、目の前の食事に手を付ける。その時、テーブルの端に置かれた真紅の柘榴が目に入った。


「あら、この柘榴…とても美味しそう…」


コレーがそれに手を伸ばそうとしたその時、ハッとした様子のハデスがそれを制する。


「!それを口にしてはならん!」


おじの急な大声に驚いて、思わずコレーは手を引っ込める。そしてこう聞き返した。


「何故食べてはいけないの…?」


ハデスは一つ息をつくと、柘榴を一つ手にとって理由を述べた。


「…これは冥界産の柘榴だ。冥界でアスカラポスという庭師が栽培している。大方、タナトスかカロンあたりが紛れ込ませたのだろう…。其方は知らぬかもしれんが…冥界で作られたものを食べた者は冥界の住人となる。」


「冥界の…住人に…?それは…二度と地上には出られないということ…?」


「いや…、神であれば行き来はできるだろう。しかし所属は冥界となり、必ず戻らねばならなくなる。」


「…そう、なのね…。知らなかったわ…」


「冥界には冥界独自のルールが数多くあるからな…。私も冥界ココに来た当初は随分戸惑ったものだ…」


「でも……」


「…?」


「わざわざ教えてくれるなんて、やっぱりハデスおじさまは優しいのね…。」


コレーはそう言い、微笑んだ。その笑顔にハデスの胸は高鳴り、コレーに対する想いはより一層募った。

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