第10話 図書室の亡霊

朝、たけるの手には茶封筒が握られていた。

まとめた荷物を前に、そっと開いて中身を確認すると、一万円札が三枚と、五千円札が一枚入っていた。

幸雄ゆきおは、中学生の猛を一人のアルバイトとして、しっかりと日給の手取りを用意してくれていた。

「猛くん、ご苦労様。また、近いうちに遊びにおいで」

幸雄は朝食の席で、そう言って茶封筒を渡してくれた。

猛は感極まって、自分の目がしらに涙が溜まり流れそうになるのを我慢した。

他人ひとからの親切で、泣きそうになったのは初めてだった。

働いていたのだから当然。というわけにはいかない。

神岡家には匿ってもらい、居候させてもらっていたのだから。その借りを返す名目だけでも良かった。

しかし、このように大金まで貰えたなら。

猛は、この茶封筒は宝だ。と思った。

洟を啜り上げ、荷物を手にの部屋を出て階段を降ると、庭でよっちが花に水をくれていた。

「みーちゃんさんとすずは?」と聞くと、「学校だよ」と言う。

「よっちは行かないの?」

ホースの先からは水がしょぼしょぼと地面に流れ落ちている。

よっちはホースを無造作に投げて、猛に駆け寄り抱きついた。

「ありがとうね。猛は、すごい事をしたんだよ。これはそのお礼。……お礼になるかわからないけど」

女子の、甘い匂いはどこから出てくるのだろう。猛は、よっちの力一杯のハグに心臓の高鳴りを抑えながら、そのか細い肩に両腕を回した。

「十分だよ」

猛が抱き返そうとした時、「ここまで!」と、よっちは、サッとしゃがんで猛の腕を解いた。

「え、今のはチューの流れでしょ!」

猛は叫ぶように言う。

「十分て言ったじゃん」よっちは笑う。

「……でも、本当にありがとう。私は、多分まだここに居るから。みことすずも。だから、落ち着いたら遊びに来て」

「うん」

猛は、よっちの言葉に頷くと、タクトのエンジンをかけた。

荷物を足の間に置いて、ハンドルを回した。


三日前、MDMAを笠原かさはらに渡しに行った日、病室には猛の他にもう一人の男が来ていた。笠原は、その男を猛に紹介した。

男の事は、既に猛も知っていた。中学校の元上級生だったからだ。

スポーツマンらしく長身の、品のある顔立ちをした男は、猛を凝視した。

「お前の事は知っている。図書室にいた不良。……あれだ、思い出した。図書室の亡霊、牧野猛だ。俺の、陸上部の後輩と何度かやりあっていたよな」

龍樹たつきほどじゃないけどな。言っておくけど、悪いのはあんたの後輩の方だからな。俺は、身に降る火の粉を払っただけだ」

「悪目立ちするから、的にされるんだ。猪瀬さんの弟も、お前も」

「龍樹は元陸上部だから分かるけど、俺は全くの無関係だった。それなのに絡んでくる方が、どう考えても悪だろ。何がゴーストバスターズだ、馬鹿かよ。あいつらだって幽霊部員だったんだろ。あんたの教育が悪かったせいで、俺は被害に遭ったんだ」

「お前、年上に対する態度がなってないな。笠原さんにもその態度なのか?」

「そうだけど。……あんたの事は覚えてるよ山岸圭太やまぎしけいただ。そりゃあ覚えてるさ、芦尾美那あしおみなの彼氏だった奴だからな。うちの学校じゃ、すげえ有名人だ。佐野駅で裸になっ……」

山岸は話を遮って、猛を殴り飛ばした。

不意を衝かれた衝撃に猛は身体の制御が出来ず、受け身も取れないまま隣のベッド柵に背中を強打した。一瞬呼吸が止まり、額には冷や汗が滲んだ。

「てめえ。なんだ、やっぱり卑怯な野郎か。芦尾美那も男の見る目が無かったようだな」

猛が言うと、山岸の背後から「ドガッ!」と大きな音が鳴った。

笠原が面会者用の椅子を蹴り上げていた。

「猛、うるせえんだよ。山岸もいつまで乳繰り合ってんだ。建設的な話をしろ。馬鹿どもが。てめえらの事情なんかどうでもいいんだよ」

笠原は呆れたように二人を見、小さなため息を漏らした。

猛は立ちあがって、痛む背中をさすった。

「で、山岸……クンは、なんでここに居るんだ」

山岸は猛を見据え、腕を組んだ。

「お前、飯塚を探すんだろ。俺も一緒にやってやるよ」

「なんで」

「美那を死に追いやったのが奴だからだ。あのゴミ、この手でぶち殺してやる」

「へえ、そうなんだ。まぼろしの奴にやられたのは知ってたけど、飯塚だったのか」

「牧野、お前、飯塚とは会った事あるんだよな?」

「一度だけね。ただ、会話もしてないから、どんな奴かほとんど覚えてねえんだ。ちらっと顔合わせた程度で」

「なんだよそれ、あんな特徴的な奴を思い出せねえだと? やっぱお前、ちょっとおかしいの?」

山岸が言うと、笠原が割って入った。

「見たらわかる。今の奴は、族の頃とは違う風貌をしてるんだ。まあ、よく居るギャル男崩れのチンピラってところだ。なあ、猛」

「そう。その辺にいそうな、ちょっとチャラそうなやつ。わざと目立たないような風貌にしてるらしい」

そこで、猛は飯塚が崇拝するという、トオルを思い出した。トオルは、決して派手な装いをしていなかった。ボウリング場で初めて会った夜も、白シャツにスラックス姿だった。あの装いの男が、暴力団の構成員とは、誰も思わないだろう。

「ふーん。……まあ、とりあえず知ってそうな奴を手あたり次第って感じだろ。おい、牧野、幻の奴らを片っ端からシメて情報聞き出すぞ」

山岸は言いながら、かすかに笑んだ。

「山岸、猛の事は牧野って呼ぶな。下の名前で呼べ。良いか。これは命令だ。なあ、猛。お前、その方が良いんだろう?」

笠原は、やはり猛の事を良く分かっている。猛は内心で驚き、ただ頷く事しか出来なかった。

今まさに、山岸に自分の呼び方についてを指摘しようとしていたからだった。

「ああ、じゃあ猛な。俺の事は好きに呼べ」

山岸は言うと、笠原の方を向いた。

「そんじゃあ、俺らは飯塚ボコって連れてくるんで。笠原さん、後の事はお願いします」

「わかってる。山岸、一つ言っておくが、猛は見ての通りチビで喧嘩が弱え。サポートしてやってくれ」

笠原は言うと、猛を見た。「なんて顔してやがる。お前、そんなんで飯塚に勝てるのか」

二人の会話を聞いていた猛は、ハッとして、「あ、あたりめえだろ」と拍子の抜けた返事をした。

(後の事はお願いしますって、どういうことだ?)

笠原の病室を出た猛と山岸は、一度帰って、準備してから改めて集合する事にした。

その際に、山岸の携帯電話の番号を渡された。


よっちに手を振り、神岡家を後にする。

農道をタクトで走っていると、幸雄の姿が遠くに見えた。

猛は、「お世話になりました!」と、十五日分のお礼を、その叫びに込めた。


タクトを上葉うえはに返したかったが、上葉の連絡先も自宅も分からなかった。

そのため、猛は龍樹の家に寄る事にした。

スーパーいのせの駐車場にタクトを停める。

家屋の方へ歩き、庭を抜けて玄関のインターホンを鳴らすと、龍樹の祖母が玄関に姿を見せた。

「こんにちは」

「あら、前に来た子だやね。龍樹は出かけとるよ。お兄ちゃんの方じゃだめか?」

「あ、お兄さんでも、大丈夫かもです」

「ちょっと待っとれ」

龍樹の祖母は言うと、廊下の奥に下がる。

間もなくして、龍樹の兄が玄関に来た。

「おう、お前か。今日はデカいのとは一緒じゃないのか。上葉とかいう」

「すません、あの、今日は一人で」

「いや、構わねえが。んで、なんの用だ」

「あの、お兄さんや龍樹に迷惑をかけるつもりはないんですけど、その、上葉の連絡先を知っていないかと思いまして」

「は? なんでお前が知らないのに俺が知ってると思ったの?」

「あー、その」

猛は、いちど咳をする。

「上葉とは出会ってからまだ日が浅いので、その、携帯の番号も知らなくて。でも、連絡を取りたいんです。あいつ、有名人だから、もしかしたらお兄さんも知ってるんじゃないかと思って。……あ、多分、龍樹は知ってるかもしれないんですけど」

「あいつ、紫天狗してんぐだよな? お前、俺が夜魔レイスだって知ってる?」

「もちろん、それは、知ってます。……それで、あの、何とかならないですか?」

龍樹の兄は上がり框に座ると、虚空をみつめ、何かを考えているようだった。

「ジュンに連絡して、それで、鎌田につないでもらって、そこから上葉か……」

龍樹の兄は呟くと、ポケットから携帯電話を取り出した。

猛は、北沢の名前が出て、生きていたんだ。と、胸を撫でおろした。

携帯の呼び出し音が、漏れて聞こえてくる。

「……ジュン、わりい、ちょっと時間あるか」

北沢に繋がったようだ。

「ああ、たぶん、牧野ってやつ……。おう。あーそう。でさ、紫天狗の鎌田に繋いでほしいんだけど。俺、あいつの連絡先しらねえから」

龍樹の兄は、そう言うと、携帯を外して猛に寄こした。

「ジュンが話したいって。ほら、早くしろ」

携帯を受け取り、耳に当てる。

「もしもし。牧野です」

「お前、タケルか。上葉と一緒にいたよな? センパイのアパートの前で」

「そ、そうです。あの、良かったです」

「なにが」

「いや、生きていて」

「死んだと思ったか? 実際、死ぬところだったらしいけど、何とか生きてたわ」

猛は、あの日の事を聞こうと思った。

「あの、気になっていたんですけど、あの日、何があったんですか? よっちとみーちゃんさんを薬局に向かわせた後です。あと俺、回収しましたよ」

「ああ、センパイに渡してくれたか。まあ、良かったわ。あれ警察に持ってかれてたら、確実にセンパイは死んでたよ」

「野次馬の人が、破裂音を聞いたって言ってました。施錠していた部屋に、誰が押し入ったんですか」

少しの沈黙が流れる。

宅間たくまだよ。あの野郎。トオルさんの方に付きやがった」

「え!? 宅間さんが、その、北沢さんを撃ったんですか?」

「待て待て、何を勘違いしてるのか分からねえが、拳銃を撃ったのは俺だ。でも外れてよ、そんで刺されたんだよ」

「刺されたって、マジで殺人未遂じゃないですか」

「いや、おそらく脅して動きを封じようとしたんだろう。目当てはクスリだったはずだ。で、俺が拳銃を出したもんだから、焦って腹にって感じかな。宅間の野郎、ドス持ったまま震えてたぜ」

この時の北沢が使用した拳銃は、南アフリカで密造され、イラクから中国、ロシアに流れて北朝鮮から日本に密輸されたものだという。手のひら位の大きさの、トカレフ様の古い型の銃であり、密造品であったために完成度が低い粗悪な品で、暴発の可能性すらある代物だった。

「でも、どうやって鍵を」

「普通に入ってきたんだ。鍵開けて。だから、俺は芳美とみこが、帰って来たんだと思った」

「スペアキーがあったんですか」

「どうやらそのようだな。まあ、センパイは結構いろんな奴から狙われてるからな。ヤサの一つが特定されて、スペアキーが作られても不思議じゃないわな。しかし、お前、どうするの。マジで俺の代わりやらされるのかもな」

「え、そうなんですか」

「いや、俺、死んだことになってるだろ。センパイは俺が生きてるって知らねえんだよ」

「そんなことあります? 知ってるんじゃないですか」

「いや、多分知らない。あの人、結構単純だし」

「じゃあ、言わない方が良いんですか?」

「まあ、どっちでもいいけど。いずれ俺から会いに行くつもりだから。俺はセンパイから見放されたら生きていけないから。あの人がいるから仕事があって金が得られて、生活が出来てる。正直に言えば、こんな事になって、この先どうしたら良いかも分かってない。あ、そういえばお前、魔利亜を解散させたんだってな。アキから聞いたぞ」

「そこは繋がってるんですか」

「そう、鎌田とアキと俺は繋がってる。そんで情報共有してっから」

「魔利亜の解散については、どう思ってますか」

「良いんじゃねえの。実際、あいつらに族は似合わねえよ。センパイが必死で守りたかったのは、魔利亜って族じゃねえ。あいつら個人個人なんだよ。でも、センパイは他人の感情を読み取るのが極端に下手なんだ。いや、上手すぎるのか。……これはミクロとマクロの考えがあって……。まあいいや。

お前も付き合っていくうちに分かってくるだろうが、センパイには双極性障害もあって、躁鬱ってやつな。だから、魔利亜のやつらはトオルさんにセンパイを制御してもらう必要があった。センパイを一番理解してるのは、トオルさんだから。あの二人は、ガキの頃からの仲だからな」

「でも、トオルさんは、どうして魔利亜に手を出さなかったんですか?」

「それは、センパイの亡くなった嫁さんが、トオルさんの元恋人で、アキとも親しかったからだ。センパイは、トオルさんから女を取ってるんだよ。だから、幸いなことに、魔利亜にはセンパイもトオルさんも、どちらとも手を出してねえんだ。これは奇跡的な因果だと思うよ、俺は」

「トオルさんと笠原が、二人して魔利亜を守っていた。でも、それは行き過ぎた保護で、魔利亜のメンバーは疲弊して解散を望んだってことか」

「まあ、そんなところだ」

「北沢さん、俺なんかに色々話してますけど、大丈夫なんですか」

「まあ……多分、お前は俺の後釜になるよ。上葉もその候補の一人だと思うけど。俺はしばらくムショだからな」

「え、少年院ですか?」

「おそらくな。銃ぶっ放してるし。クスリの事は黙秘するけど」

「でも、さっき笠原に会いに行くって……」

「いずれって言っただろ。何年食らうかしらんけどな。数か月かも」

「じゃあ、夜魔はどうなるんですか」

「誰かが継ぐだろ。いや、どうだろうな。紫天狗に吸収合併されるんじゃないか? トオルさん次第だな。いずれにしても俺は、夜魔の裏切り者だ」

「そうですか。……最後に、もう一つ聞いていいですか」

「なんだ」

「北沢さんと、上葉はどういう関係なんですか?」

「……ああ、俺は、上葉をセンパイに紹介しようと思ってたんだよ。んで、トオルさんの所に一旦、潜り込ませたんだ。まあ、要するにスパイをさせたんだ。俺と上葉だけで話を進めていた事があってな」

「二人で進めていた話?」

「どうせ上葉から話すだろうから、お前には話してやるけど、他言無用だぞ。いいか」

猛は、携帯を持ったまま返事もせずに頷いた。

「トオルさんと、センパイのシノギを全部奪ってやろうとしてた」

「……え? そんなの、無理ですよ。バックに木島組がいるのは知ってますよね? それにトオルさんは現構成員ですよ?」

「そんなの知ってるに決まってるだろ。でも、それをやってみたくなったんだよ。俺と上葉は。だから、センパイとトオルさんを、栃木南部から追放してだな。その手立てと可能性を色々と模索していたんだ」

「北沢さんとそんな話を……上葉ってのは、どんな奴なんですか。正直俺の知ってる上葉とは別人なんですけど」

「それをお前が俺に聞くの?」

「俺、北沢さんと違って、まだ上葉とは日が浅いんで」

「じゃあ、直接聞けよ」

北沢がそう言うと、電話の音が小さくなって、奥の方でぼそぼそと何かを話す声が聞こえてくる。

「よう、猛。久しぶりじゃねえか。どこにいたんだよ」

「上葉! 北沢さんと一緒なのか」

「ただ見舞いに来てるだけだ。なんだか大袈裟だな。鎌田さんに用だって? 何かあったのか」

「え、いや、違う。鎌田さんから上葉に繋いでもらおうとしてたんだ」

「なんだよそれ、回りくどいな」

「仕方ないだろ、俺、お前の連絡先も家も知らないんだから。龍樹の兄貴に頼んでよ」

「知ってるよ、まあ、連絡先を渡してなかったのは失敗だったな。それで、俺に何の用だ」

「タクト、返そうと思って」

「ああ、お前が消えてから、ばーちゃんがバイクなくて困ってたぞ。早く返しに来い」

「だから、家が分からねえんだって」

「焦るなよ。うちの住所送るから、後で来い。聞きたいこともあるから」

「わかった。あ、でも、いや、実は、やらなきゃならない事があって。バイクが必要になるかも……」

「はあ? お前、また何か首突っ込んでんの? 考えてから行動しろよ」

「考えてからじゃ遅いんだよ、動きながら考えないと」

「何それっぽい事言ってんだ。良いから、まずは俺の家に来いよ。俺も今から帰るから」

「わかった」

「じゃあ、切るぞ」

「あ、北沢さんに、後で行きますって伝えといて」

通話が少し遠くなり、笑い声が聞こえてくる。

「来なくていいってさ」

上葉の言葉を最後に、通話は切れた。

(後日、猛は北沢の見舞いに病院を訪れたが、発砲事件の容疑者である北沢との面会は当然ながら叶わなかった。この事から、上葉は正式な面会の手続きを踏まずに病室に会いに行っていた事が分かった。猛と北沢が次に顔を合わせたのは、この日から約四年後である)

「終わった?」

龍樹の兄が、腕組みをしながら、暇そうに煙草をふかしていた。

「す、すみません。長電話で」

「お前さ、携帯、持ってねえの?」

「俺、親にちょっと問題あって、マジで金がないんすよ」

「親ねえ。それは、まだどうにもならねえよな。中学生じゃ」

龍樹の兄はそう言うと、うーん。と言ってから、

「じゃあ、俺の番号も渡しておくから、龍樹への連絡は俺にしろ。まあ、固定電話でも良いんだけど。龍樹も携帯はあと三か月我慢らしいからな。金貯めてんだよあいつ」

「すみません。ありがとうございます」

「でもな、龍樹を変な事に巻き込むんじゃねえぞ。俺も最近は、族の方はほどほどにしてんだ。あいつはまだ子供だから。とは言っても歳は二つしか変わらないんだけどな」


龍樹の家を後にした猛は、上葉の家を目指した。

佐野市、西側の地区を北上していくと、果物農家が多く点在する地域に出る。

上葉の自宅は、その地域の外れにいた。

「でっか」

思わず口から漏れた。

後から聞いた話によると、上葉の自宅は明治時代に貴族階級にあった人物の別邸で、それを曾祖父が買い取ったとの事だった。

息を飲む。まず、邸宅自体は、ずっと先に見えるのだ。

猛の目の前に聳えたつのは、西洋の黒い豪奢な鉄門だった。

白い壁が切れた所から門柱が伸びて、黒い鉄門はその間に挟まるようにしてある。そして、また壁が途切れた先には敷地をぐるっとめぐるように鉄の柵がある。

門柱の先端には、ライトがあり、夜になれば門前を照らすのだろう。

そのライトの脇に、カメラが設置されている。

そのカメラを見つけると、人の気配が無いのに誰かに見られているような気がして、胸騒ぎを覚えた。

門扉の脇にはインターホンがあり、押して返答を待った。

門が開いたとして、それから公園の遊歩道のような石畳を、先に見える邸宅まで歩く必要がある。五十メートルはあるだろうと思われた。

猛は門の先を覗き込むようにして邸宅の玄関を見た。

「おう、開いてるから入ってこい」

上葉の声がインターホンから聞こえた。

猛は泥棒の様に、きょろきょろと周囲を確認してから鉄門を押し開けた。

鉄の擦れ合う音がわずかにして、身体を滑り込ませるようにして足を踏み入れる。

そして、振り返って、静かに門を閉めた。

邸宅までの道が、とても長く感じられる。

石畳の両脇にはツツジのような低木が等間隔で植わっており、蒼々とした葉を茂らせていた。また、邸宅前には花壇があって、赤や黄色がほとんどだが、少しの白がアクセントになって綺麗に咲誇っている。

猛はコツコツと歩道に音を鳴らせて邸宅へ向かった。

邸宅の前に来て、表札を確認した。

普通、表札は門の辺りにあるものではないのか。と猛は思った。

どでかい板チョコレートを二枚縦に並べたような扉の片方が開いて、扉に負けないくらいデカい上葉がジャージ姿で現れた。

「おう、とりあえず一回あがれよ」

「あのさ、バイク、門の前に停めたんだけど」

「ああ、庭に入れてもらうからオッケーだ」

上葉は言うと、背を向けて中に入っていく。猛は豪邸の玄関、いや、エントランスに気後れして、上葉の三メートルほど後ろからついて行く。

「靴ってどこに脱いだらいいんだ?」

「靴のままでいい。ついてこい」

「まじか」

たしかに、靴のままで良いと言われてみれば、一般家庭の玄関と言うよりもホテルのロビーみたいに見えた。

「佐野に、こんなデカい家があったんだな。知らなかった」

「うちの家族はな、こんなデカい家に住んでるのに人を呼ばねえんだ。意味がわからねえよ。広いだけで不便極まりない。夏はましだけど、冬はクソ寒いんだ」

上葉の部屋に向かう途中で、身なりの良い老人が廊下の脇に佇んで会釈をしてきた。

上葉は何の気にも留める様子もなく、どしどしと廊下を歩いていく。

「お、おい。あの爺さんは?」

「昔からうちにいる執事みたいな人だ。俺の祖父の友人だそうだ」

「執事って。初めて見たわ」

「今は親父の仕事を補佐してくれてるらしい」

「栃木にいて良い人じゃないだろ。もっとこう、白金とか田園調布とか、そういう所にいる人なんじゃねえの?」

ただの豪邸のイメージで猛は言った。

「知らんわそんなん。俺には関係ない」

「あっ、そうなの」

猛は不思議に思った。上葉は、どうして暴走族などやってるのだろう。

どうして北沢と危険な事をしようとしているのだろう。

何の不自由も無いのに。

この疑問は、猛を苛つかせた。何でも出来る環境じゃないか。

それに上葉は体格も強さも、名声も友人も家族も、既に持っている。

これ以上、何が欲しいのだろうか。

猛は一つの考えに辿り着く。

まさか、飽きたのだろうか。

これからの人生を先まで予測出来てしまって、差し出されたレールから外れて生きたいと思ったのだろうか。

そのような我儘は、猛には到底考えられない。

そして、猛は立ち止まった。

「上葉、お前は何がしたいんだ? あらゆるものを持っているのに。何が目的で族をやってるんだ」

上葉は猛の言葉に振り向く。

「何って、そりゃあ、お前と変わらないと思うぞ。逆に聞くが、お前は何を求めて族をやるつもりだ?」

猛は、笠原の言葉を借りた。いや、頭に浮かんだのだ。

「俺は、平穏を勝ち取りたいんだ。誰にも馬鹿にされない、邪魔にされない。信頼できる仲間達と過ごせる、そういう平穏な場所を求めているんだ。……そう、きっとそうだと思う」

上葉は、猛の言葉を黙って聞いたあとで踵を返した。

「そうか。お前は、それでいいじゃないか。そして俺も、お前と同じように平穏が欲しいとでも言っておこう。お前と衝突するのは、どうしてか少しだけ怖い」

怖い?

「今、怖いって言ったのか?」

「うるせえ」

上葉は歩みを止めず、それからは口を閉ざした。


上葉の部屋に入る。猛の自宅がすっぽり入るのではないか。と思われた。

洋風の間に、似つかわしくない学習机やベッドが置いてある。

上葉は見上げながら、戸のすぐ脇のつまみをゆっくりと回す。

天井から下がっている小さなシャンデリアの調光をしているようだった。

「蛍光灯の方が明るいんだけどな」

言いながら、シャンデリアの暖かげなオレンジの光が徐々に明るくなっていく。

「すっごいなあ。シャンデリアってやつだろ、あれ」

「何もすごくねえよ」

上葉はベッドに腰掛ける。猛は身体が沈みこむほど柔らかな、二人掛けのソファに座った。思わず笑みがこぼれた。

「猛、俺からも質問がある。良いか?」

「ああ、良いよ」

上葉はベッド脇に手を伸ばし、棚からタバコとライターを取り出す。

「吸うか?」

「いや、いらない」

慣れた手つきでタバコに火を点け、上葉は一吸いし、煙を吐いた。

「お前、今どんな状態なんだ」

「明日から、山岸圭太っていう、うちの中学の卒業生と飯塚を探す。そのために、幻の奴らを片っ端から尋問する」

「尋問?」

「上葉は、山岸の事を知ってるか?」

「いや」

猛は、笠原を襲撃し病院送りにした犯人が飯塚である事。

加えて芦尾美那と山岸圭太の過去の事件を上葉に話した。

「そんな事があったもんだから、山岸は飯塚をめちゃくちゃ怨んでいて、笠原と面識もあったから、それで一緒に探すことになった」

「その事件は俺も聞いたことがある。その当事者か。まさかあの飯塚が主犯とはな」

上葉は小さなため息を漏らす。

「上葉は、どう思う? 俺と山岸の二人で、飯塚を探し出して抵抗できないくらいにボコボコにして、笠原の前に連れて行けると思うか?」

「まず、山岸ってやつは強いのか? 幻の奴らが一人で行動しているなんて、ほとんど無いだろう。お前たち二人で、仮に相手が二人だとしても、勝てる見込みはあるのか?」

上葉の言葉は最もだった。

幻のメンバーが一人で行動しているとは考えにくい。そして、同じ頭数だった場合、何人も尋問するためには、勝てるかどうかも分からない喧嘩を何度もしなければならない。そのような事態になったら、まず身が持たないし、更に最悪なのが相手の数が二人以上だった場合だ。これはほとんど勝ち目がない。

猛は、あの自信満々だった山岸の表情を思い浮かべて苦笑した。

「言われてみれば。どんなに上手くいっても、確実は無いように思う」

「じゃあ、もっと確実に飯塚を捕らえるやり方を考えた方が良い」

上葉に言われると、猛は「うーん」と考え込んでしまった。

そうして考えているうちに、上葉が喋りだした。

「それで、お前は、飯塚を連れて行ったあと、どうなるんだ? どうして笠原のパシリなんかしてるんだ?」

飯塚の身柄と引き換えに猛が得るものは、笠原のケツモチだ。

それがあれば、自分の思う色んな事が出来るようになるかもしれない。淡い希望かもしれないが、猛にとって、笠原のケツモチは魅力的だった。

(仲間、という言葉が猛の頭の中で反響していた)

猛は笠原が嫌いだった。しかしその一方で、笠原の手腕や人を見抜く能力には頭があがらないと思っていた。

それは神岡家にいた頃に、魔利亜の三人から笠原という人物の底知れない力の話を聞いていたからだった。

現に猛は、魔利亜のメンバーと会う前には、笠原が吹聴しコントロールしていた魔利亜という暴走族像を、本当の事だと信じ込んでいたのだ。

猛の世代で、魔利亜の悪行は、ほとんどの学生が知っていた。それを笠原が創り上げたという事実が、猛の笠原に対する評価を押し上げていたのだった。

「上葉は、笠原と会った事が無いんだよな?」

「無い。一度、北沢さんに紹介するって言われたけど、その前にトオルさんの所に送られたから」

「あいつは、やばいよ」

「どう、やばい?」

上葉は真剣なまなざしで猛の話を待っている。

「……何て言うか、ちょっと、妙な能力を持っているような気がするんだ」

「能力? 超能力?」

「いや、そんなんじゃなくてさ、普通じゃないんだ」

猛は言ってから思った。(目の前にいる上葉も普通じゃないけれど)

「北沢さんと上葉が、笠原とトオルさんのシノギを奪うなんて言ってたけど、俺はトオルさんの方は分からないけど、笠原からは無理なんじゃないかと思った。お前も普通じゃないし、喧嘩では笠原に勝てるかもしれないけど、あいつ、喧嘩がどうこうよりも、別の何かがあるんだよ。それはまだ俺にも分からないんだけど、なんだか変な説得力とか、求心力とか。そんなのがあるような気がするんだ。顔の広さも、お前よりあるだろうし、多方から恐れられているのも何となくわかるんだ」

上葉は黙って何かを考えるように視線を宙に彷徨わせた。

「上葉。これだけは信じてほしんだけど、俺はビビってるというよりも、知りたくなったんだ。笠原ってやつを。だから、少し関わってみたくもあるんだよ」

猛が言うと、上葉は視線を猛に戻した。

「……北沢さんも、同じような事を言ってた。どうも厄介なのは木島組の構成員であるトオルさんよりも、今ではただのチンピラになった笠原の方らしかった。実際、北沢さんは笠原という人間に傾倒しているように見える。今のお前のようにな」

上葉にそう言われると、確かにそうなのかもしれないと思った。好きでもない、ましてや嫌いな男の事を知りたくなる。そのような事があるだろうか。

猛は朧気に、カリスマという字面を思い浮かべた。

「そして、俺は、お前にも笠原のそれがあるような気がする」

「どういう事?」

「俺とお前が会った、ボウリング場での集会の夜を思い出してみろ。あの時、宅間さんはお前を選んだんだ。俺でもなく龍樹でもなく。そしてお前は、魔利亜を解散までさせている。いくら北沢さんの代わりにクスリを渡したからと言って、普通そんな事にはならない。クスリと魔利亜を天秤にかけた時、笠原とトオルさんにとっては、どう考えても魔利亜の方が重いだろ。魔利亜の解散は、トオルさんの存在を完全に無視した笠原の独断だ。それが、おかしいんだよ。リスクが高すぎる。それでも、お前は実際に一つの族を解散させたんだ。笠原もお前に傾倒してんだよ。多分、お前の可能性に」

「難しいな。笠原が俺の可能性に傾倒している?」

上葉はタバコの煙を勢いよく吐いた。

「北沢さんが言ってたよ。『上葉、お前はシンボルになれるが、トップには立てない。トップに立つのはセンパイみたいなやつだ』って。その意味がやっと分かったように思う。俺は笠原に会った事は無いが、お前と似てるんだろうな。念のために言っておくが、外見じゃないからな」

「わかってるよ」

猛と上葉は、二人してしばらくの間黙っていた。それぞれが各々に考え込んでいた。そして、上葉が口火を切った。

「猛、俺、笠原に会ってみたくなった。だから、俺も飯塚を一緒に探そうと思う。宅間さんがトオルさん側に付いたのは知ってる。トオルさんは、宅間さんや飯塚を手駒として、この地の暴走族を使ってこれまでと同じように、そしてこれまで以上に金を稼ぐつもりでいる。そのためには笠原が邪魔になった。だから潰しにかかってるんだ。でも、蓮東での襲撃で飯塚は、笠原の身柄を攫ったにもかかわらず生きて返したんだ。飯塚が笠原を殺すまでの事が出来ないにしても、その現場にトオルさんが関与しなかったのは、生きて返すつもりがあったからだろう。この選択が甘かったと言う事を思い知らせてやろう。

まず、俺はトオルさんから潰そうと思う。だから、俺に出来る事は、笠原に手を貸して、トオル派閥の力をごっそりと削ぐことだ。俺はこの事を北沢さんに報告する。

俺は、お前との対立は避けたいが、トオルさんを潰したあと、俺と北沢さんは笠原を狙う。それは理解しておけ。

お前がどこまでこの件に。……笠原との関係を続けるのかは分からないが、いずれ俺と北沢さんは木島組とも対立することになるだろう。

お前にはそのくらいの覚悟があるか? 将来、俺達と殺し合いが出来るか?」

上葉の眼光は鋭く、その眼からは北沢との友情以上の、深いつながりを感じた。

「上葉、言ったはずだぞ、俺は平穏が欲しいんだ。トオル派閥を潰して平穏が訪れたあと、笠原の首が必要なら俺はいつでも切れる。あいつの事は嫌いだから」

「好きか嫌いかじゃないんだ。猛、お前にはまだ迷いがある。仲間を求めるなら、相応のリスクを取れ。でないと一生、本当の仲間など出来ないぞ」

「じゃあ、どうすれば良いと思う」

上葉は、ベッドから立ち上がり、猛の前に立った。

「族を作れ。いや、明日から俺とお前は族を作る。山岸ってやつは臨時メンバーとしておこう。笠原には俺たちの族のケツモチになってもらう」

「族を作る。それにはメリットがあるんだよな?」

「当たり前だ。集団を作るってのは、人の拠り所を作るって事だ。暴走族なんてのは表向きの姿で良い。その先に、俺たちはそれぞれの理想郷を思い描けばいいんだ」

「人がいなけりゃ、話しも先に進まないか」

「そういう事だ」


上葉と山岸、猛の三人で明日の飯塚狩りをする事になり、猛は一度自宅に戻って準備をする事にした。

上葉の自宅から猛の自宅までは歩いて三十分の距離だったが、交通量の多い街中を突っ切る必要があり、通常よりも時間がかかる事が予想された。

そのため、猛は上葉に自転車を借りて自宅に向かった。

早く自分のバイクが欲しい。猛は切実に思った。


街中を自転車で走っていると、道路の両脇には様々な飲食店が軒を連ねている。

佐野市は、特にラーメン店が有名でありラーメン店だけで二百軒ほどあるとされている。その他にも寿司のチェーン店や、焼き肉店。ファミリーレストランだけ取ってもガスト、サイゼリア、デニーズ、夢庵、ココス、ビッグボーイ、バーミヤン、ジョイフルと、有名どころはほとんど揃っている。

その間に個人経営の飲食店があり、例えばラーメン店はチェーン店は無く、地元に根付いた老舗が多かった。

猛は幼い頃、その老舗の一つ、「佐野ラーメンみなもと」によく連れて行ってもらった。父親の同級生の実家であったからだ。

その源の前を通り過ぎ、隣のココスの前を走り抜けようとした時、道路に面したボックス席に、知った顔の笑顔が見られた。

幼い子供が対面におり、子供の隣には三十代くらいの女性がやはり笑顔で座っていた。

知った顔は、猛の父だった。

猛は自転車の速度を緩めずに、自宅へ向かった。

年季の入った戸を蹴破る勢いで開けて、六畳三間の奥の部屋に向かう。

大事な物を入れている収納ケースを引き、中から父に貰った時計を取り左手首につけた。

その後、隣の部屋に行き、母が前にへそくりをしていた箪笥を確認した。底の奥から百貨店の袋が出てきて、その中に何枚もの家族写真と一万円札が四枚入っていた。

猛は二万円抜き取り、袋を元の場所に戻した。

母はいつ帰ってきているのか分からないので、書置きを残しても無駄だろうと思った。次に会えた時に、返そうと思った。

自宅を出る時、小さな玄関に父親の仕事をしている写真が飾ってあった。

それは埃を被っていて、猛にはモノクロに見えた。



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【新年のご挨拶】

皆さま、あけましておめでとうございます。主です。

去年、この物語を書き始め、すでに一年が経ってしまいました。

わずかではありますが、読んでくれている方がいて嬉しく思っております。

猛達の物語は、まだこれからです。

予定としましては、五十話付近で完結させようと思っております。

一話一話、時間がかかってしまい、更新が進まない事、お詫びいたします。

よりリアルに、「こんな事があったんだよ」という気持ちで書いております。

暴走族の物語なのですが、私の経験を基にしておりますので、数ある既存の暴走族作品とは少し路線がずれているかと思います。

その辺りを楽しんで頂ければと思っています。

しかしながら、二十年以上前の出来事を思い出しながらフィクションの物語に落とし込むのは、なかなかに楽しい作業であります。

そう言えば、今年の大晦日は、初日の出暴走のバイクの音が聞こえませんでした。

時代は刻刻と移り変わって、今では暴走族の存在自体がレトロです。

二十年前でさえ衰退の一途を辿っておりましたが、今では「不良」も分かりにくくなっていますよね。ヤクザも暴対法で首が回らなくなって、半グレのような輩が増えました。思い返してみれば、この物語の笠原や北沢のモデルになっている人物は、あの時代の半グレだったように思います。

昨今、闇バイトやタタキのニュースを良く聞きますが、皆さまも巻き込まれないよう、十分に留意されたく思います。

良い新年となりますよう、皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。


年末ジャンボミニを三十三枚買ったのですが、三百円当たりました。

私はその当たり券をラミネート加工して、しおりにしました。

ナイスなアイディアだと思ったのですが、十歳の姪っ子と九歳の娘に「お金がもったいない」と、冷めた視線を向けられました。

正月だってのに。お年玉あげたのに。少しくらい良くないですか。

私は今年の一年間、そのしおりを使って読書を楽しもうと思います。

ささやかな反抗です。

それでは、失礼いたします。(はーと)

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