第14話 ウォッカ



「-っか、おい、狗塚 郁! 」


「……っ、はい!

すいません……! 」


体を激しく揺さぶられ郁は顔を上げた。

窓を見るともうすっかり日が暮れていてビルから漏れる色とりどりの光がキラキラと窓に反射していた。

頭上で溜息が聞こえ、郁は口元の涎をゴシゴシと拭くと恐る恐る視線をうつした。

案の定呆れ顔の猿間の姿が郁の視界に映った。


「今日はあがれ。

報告書は明日早めに来てやればいいだろう」


「すいません、なんかいつの間にか寝てたみたいです。

……猿間さんはもうあがりですか? 」


「あぁ、とりあえずな。

仮眠室で少し仮眠をとるつもりだったが、佐伯が今日は宿舎に帰れって五月蠅くてな。

……飯まだならラーメン屋一緒に寄ってくか? 」


「もしかして猿間さんのおごりですか?

ありがとうございます…痛っ! 」


猿間はガッツポーズをする郁のデコを中指で弾いた。

郁はデコピンされた箇所を擦る。


「阿保。

おごるなんて一言もまだ言ってないだろうが」


「えー……」


「どうした? 郁」


郁は周りを見渡す。

机にはまだ電源が付いたパソコンと書類、栄養ドリングが置かれている。

荷物をまとめている者も何人かいるようだった。

猿間は腕を組み郁を無言で見つめている。


「……なんか、長い夢を見ていた気がするんです」


「はぁー……おいおい、だいぶ居眠りしてたみたいだな……」


「……なにか、大事なことがあった気がしたような」


郁はうんと考えるが思い出せない。

猿間はぽんと、郁の頭に手を置く。


「やっぱり疲れてんだろう。

ラーメンは今度にしとくか? 」


「いや、行きます!

行きたいです!

俺、猿間さんにお勧めしたいラーメン屋があるんですよ。

ニ郎系ラーメンなんですけど」


「おっ本当か。

じゃあ、食べに行くか」


「はい! 」


郁は荷物をまとめると、猿間と廊下に出て歩き出す。

バタバタと忙しく書類を抱えた職員とすれ違う。


「そういえばお前が佐伯班に配属されてもう一年か。

早いもんだな」


「え、そうでしたっけ……?

猿間さんから見てどうですか俺、成長してます? 」


「……まだまだだな。

とりあえず現場でスーツにゲロをぶちかますのは控えるようにな。

毎度吐かれたら溜まったもんじゃないからな……」


「ははっ……すいません」


後ろからスーツの裾をぐいっと引っ張られた。

郁は後ろを振り向くと、一人の若い女性が息を切らして立っていた。


淡いピンク色のワンピースを着ており、髪の毛はサイドに三つ編みでまとめている。

その服装をみて郁はすぐに警察関係者ではなく一般市民だとわかった。


「……どうされましたか?

もしご用件お聞かせいただければ課へ案内しますよ? 」


彼女は首を横に振ると、じっと泣きそうな顔で郁を見つめる。


「……郁くん、此処は貴方にとって在るはずだった幸せな時間だよね。

此処にずっと居たいよね……分かるよ。

でもね、此処は郁くんが居るべきところじゃないよ。

私に言ってたよね?

もう大切な人を失いたくないって……」


彼女はぎゅっと、強く握るとポタリポタリと涙を流す。


「花菜ちょっと、離れてろ……! 」


彼女の彼氏だろうか若い男性が割って入ってくると、郁の肩を揺さぶった。


「もうとっくに気づいてるんだろう?

見失うな!

これ以上お前は見失わないでくれ! 」


「……っあ」


「郁」


後ろから猿間の声がする。


「お前はまだ本当に半人前だな……。

でも、他の姿を借りたとしてもちゃんと自分自身で気付いてくれてよかった。

……もう誰かが悲しむのは嫌なんだろう?

なら、自分に出来ることを全力でしろ」


郁はゆっくりと目を閉じると意識を集中させた。

すると、微かに夕凪が自分を呼ぶ声がどんどん大きくなってくる。




「郁起きろ!! 」


そうだ。今日は泊った宿から早めに出て、ウォッカに向かっていた。

でも向かっている最中に急に変なぬいぐるみみたいなものが目の端に写ってそこから記憶がない。


「ぐっ……」


東雲は眉間に皺をよせ苦しそうにみぞおちを押さえ、地べたに寝そべっている。

顔は擦り傷が出来ており、周りには小型のナイフが転がっていた。


「郁……!

この、起きろ!! 」


バッチーンと頬を叩かれ、郁は一気に目が覚める。


「お、起きてる!

起きてます!! 」


「……はぁ、起きてるならすぐに言え……」


夕凪はほっとした表情をすると溜息をついた。

郁はまだ少しぼっとした頭を横に振ると、顔をあげた。

するとそこには少年が胸倉を掴かまれ、地面に付いていない足をバタバタとバタつかせていた。


「……ほぅ、起きたか。

自力で起きるとは強い精神を持っているのか、はたまた単純なのか……本当に興味深いのう人間様は」


少年の胸倉を片手で掴みながら、郁の方に笑顔を向けた衣服を身に纏っていない幼女が居た。

郁は瞬きを繰り返すと、隣にいる夕凪に顔を向けた。


「……あの子はどこの子ですか? 」


「…動揺しすぎだろう。

いや、私も初めて会ったときは同じ反応したけど」


郁はもう一度幼女の方を見た。

太ももまで伸びる髪は風が吹いていないのにゆらゆらと揺れている。

昔、学生の頃に美術の教材に載っていたイタリアの画家が描いた絵をふと思い出した。


「それに比べてあるじ様はまだ夢の中とは……本当に歳だけ取って身体が大きくなっても中身はあの頃から全然変わらんのう」


「……うるさい。

もうとっくに起きてるよ」


「これは驚いた。

てっきりまだ眠っていると思ったわ。

くくっ、そんな機嫌悪そうな顔で儂を睨むなよ?

これでも良いタイミングで出てきたと褒めてもらいたいところじゃ。

のう、主様よ」


ユヅルは乱暴に自分の髪をぐしゃぐしゃと触ると、ゆっくりと立ち上がった。


「そうだな、今回は褒めてあげるよ。

流石にあの悪夢を見るのはもう勘弁してもらいたいからな。

……冷静を保ていられなくなる」


一瞬空気が冷えたのを郁だけではなく夕凪も感じとったような表情をした。


「さて、奇襲はしてくるだろうなとは思ったけどまさかこんな子供一人ねぇ。

マリアこのまま拘束できるか? 」


「まぁ、魔力を喰うには少々時間を要するが、大丈夫じゃろう。

しっかし久しぶりじゃのう。

前とは違う身なりのようじゃが、すぐ判ったぞ怠惰の悪魔ニア殿」


「はっ、やっぱりそっち側にいたのかお前。

しかもその姿でいるとか、本当に趣味悪いんだね。

お前のことだからこっち側に来ると思ってたのにあの魔女にでも弱み握られてるの? 」


ニアは挑発するようにマリアではなくユヅルに向かって言っているように見えた。


「くくっ、さっきからそっち側とかこっち側とか……

儂は正直腹が満たせるなら他がどうなろうが別にどうでも良いわ。

儂の腹を満たせるのがこいつだけだからこっち側に居るだけさ」


「イヴじゃないけどつくづくイライラするぁ~……本当大っ嫌い」


東雲は郁の手を借りると起きあがる。

東雲のみぞおちあたりには土汚れがあり、小さいサイズの足型がくっきりと残っていた。


「すいません、郁さん。

肩貸していただいて……」


「大丈夫? 」


「大丈夫です。

思いっきり蹴られたせいなのかまだ痛みが退きませんが……」


「郁が気絶してる間大変だったんだ。

急に眠気が襲ってきて私は膝をついただけで持ち堪えたんだが少しの間動けなくて、そしたら急に東雲がナイフを取り出してユヅルに襲い掛かって……」


倒れ込むユヅルの背後にナイフを突き立てようとした東雲の目の前に魔法陣が現れ、そのままみぞおちをマリアに蹴られた。

しかしすぐに起き上がりマリアにも攻撃を仕掛けた。

マリアはすぐに東雲を操っている怠惰の悪魔であるニアの気配を察知し、ニアを捕まえたことにより東雲は正気に戻ったようだった。


「は~な~せ~よ~っ!!! 」


ニアは自身の胸倉を掴むマリアの手を掴み、引き離そうとするがぴくりとも動かず、苦戦しているようだった。

背丈が小さいにも関わらず、軽々と片手で少年一人を持ち上げているマリアに郁は驚きを隠せないでいた。

だからこれ以上何も起こらないだろうとどこかで思っていたのかもしれない。

と。

郁は気づいていたはずだった。

しかし勝手に彼女はここには居ないはずだろう。と思っていた。

だから状態に気づいたときには遅かった。


「……ユヅルさん、こんなに霧さっきまで出てましたっけ? 」


郁は咄嗟にユヅルにそう伝えた。

郁達の周りには霧が充満しており、霧はどんどん濃くなっていく。

すると前方から火花が散る光の矢がマリアに速度を上げ飛んできた。

咄嗟に避けるが、バランスを崩した一瞬でニアを奪われる。

ニアを抱えていたのは猿間だった。

猿間は軽々と木の枝に飛び乗ると、空に現れた扉のドアノブに手を伸ばした。


「……待ってた。

元々君を捕まえるつもりだったからよかったよ」


ユヅルはそう言うと、人差し指を藍に向ける。

蔦が行き良いよく藍に向かっていくが藍もカードを取り出すと蔦を焼き落とす。

続けてユヅルは水の渦を作り出し炎を消すと、水の渦は藍を包み込む。

すでに頭上に現れていた扉の先には猿間とニアの姿があり、扉が閉まろうとしていた。

ニアは必死に藍の方に手を伸ばすが猿間はニアを抑えつけて、それを制止する。


「嫌だ! 離せよ! 藍お姉ちゃんっ!! 」


「……駄目だ。

ニアくんを失うわけにはいかないと世釋に言われてるから」


「~っ!!

なんでよりにもよってあんな奴に……っ!!

くそっ!! 」


ギギギっと扉が閉まると、スッと姿を消した。

霧が段々晴れていく。

水は爆発すると藍ははぁはぁと息を荒く吐いている。


「やれやれ、逃がしてしまったのう。

流石にもう魔力を使い過ぎとるから少し休めば良いのではないか?

小娘」


「……魔力が尽きようが関係ない」


藍はそう言うと、目の前に立つユヅルを睨む。

マリアは藍の前にしゃがむと、愉しそうなモノを見るみたいに目を細めながら笑った。


「頑固じゃのう……くくっ。

それじゃあ、小娘の魔力すべて見て見たいのぅ」


「マリア」


マリアは藍に伸ばした手を引っ込めると、立ち上がりユヅルに場所を譲る仕草をした。

藍はカードを取り出すが、手はすでに震えており次の瞬間力を失ったように倒れ込んだ。

ユヅルは藍を抱きかかえると、小さく何かを唱えた。


「これで当分の間は起きない。

じゃあ、ウォッカに行こうか」


「……ああ」


夕凪は少し戸惑ったような顔をしたが、こくりと頷いた。





ウォッカは時間ときが止まっているという雰囲気が漂っていた。

雑草も生えておらず、川が流れていたのだろうか。

もう動いてない水車がぽつんと在った。


「あれじゃないかな。

この子が言ってた家って」


指さす方に視線を向けると、一つの小さな家が現れた。

扉を開き中に入ると、食器棚や机や椅子が置いてあり、誰かが前に住んでいたということがすぐに分かった。


「本棚らしいものは見当たらないね」


郁は部屋を見渡すが、それらしいものはない。

ユヅルは壁を触りながら歩くと、一か所の場所に立ち止まる。


「夕凪、ここに空間があるみたいだよ」


近付くと確かに一か所だけ壁に隙間が出来ている。

夕凪はそこに触れると少しの力でクロス部分が捲れ、幅17センチくらいの穴があった。

そこにはあのとき施設にあったものよりも小ぶりな本が一冊入っていた。


「これが探していた本だといいけれど……」


ユヅルはそう言うと夕凪は本を手に取り、ページをめくる。


「多分これだと思う。

だけどこっちは手書きなのか所々字が潰れてる……」


郁も覗き込んでみたのか夕凪の言う通りしっかり見ないと読めないところがある。

殴り書きなのか字が汚い。


「……ユヅルさん。

操られてたとはいえ、刃物を向けてしまいすいませんでした」


東雲はユヅルに頭を下げる。

ユヅルは少し間をおいてから口を開いた。


「いや、平気。

むしろマリアのせいでそこら中痛めてるみたいでごめんね」


「いえ、大丈夫です」


「そう、良かった。

……それにしてもどうもあちらは相当僕に恨みでもあるのか。

それともこいつ(マリア)のせいなのか」


「さてな、だが前者じゃろうな。

ニア殿は儂の存在を確認出来ていなかったからこそ隙を掴んで捕えられた。

まぁ、結果逃がしたけどのう」


ケラケラと笑う幼女を横目にユヅルは深い溜息をついた。


「あの、ユヅルさん。

えっと言いにくいですけど目のやり場に困るというか……一応女性というか」


郁はユヅルに近付くと、こっそりと耳打ちする。

ユヅルはあーっと言うと、マリアの方視線を向けた。


「……そうだ忘れてた。

なぁマリア服を着てくれないか? 」


「ん?

あー承知したよ主様。

何も身に着けていない方が軽くて楽なんだがな。

しかしこっちの世界のルールというものだからのぅ仕方がない」


マリアはくるんと一回転すると、可愛らしい青いドレス姿になった。


「どうじゃ? めんこいじゃろう? 」


マリアはドヤ顔をした後、郁にウインクする。

郁は反射的にパチパチと拍手をした。


「……ない」


夕凪は眉を下げながらつぶやいた。

東雲は夕凪に渡された本を受け取ると、ぺらぺらとめくる。


「俺があの施設で見たものと同じ内容ですよ。

……夕凪さんは何を探してるんですか?

いえ、何を知りたいと思ってるんですか……? 」


夕凪はぐっと唇と噛む。

郁もずっと聞けずにいた。

どうしてそこまでして夕凪は何を調べたいのか。


「……私の知らない事実があるのかもしれないと思ったから。

棺桶から目覚めたってラヴィさんに言われたけど実際私っていう存在に疑問があるの。

目覚める前の記憶がないのよ。

……ラヴィさんを疑ってるわけじゃない。

けど、世釋が兄だってこともラヴィさんから聞いただけで自分自身だと自覚がない。だから何かのヒントになるかもしれないと思って何でも良いから知りたいと思ったの」


「……なるほど。

正直俺も分からない点は多々あります。

俺が施設で見た方が複製でこっちが本物ではないんでしょうか。

何というかこちらの方が筆圧がある。

でも誰が何故複製を作ったんでしょうか……? 」



「……私がユヅルに聞きたかったのはこの本の存在を前から知ってたんじゃないかってことなんだ。

疑ってごめん……」


ユヅルは溜息をつくと、ぽりぽりと頭を掻く。


「僕が此処にいたのは今の郁くんくらいの歳の頃だよ。

その後はこの家からは自分の意思で出ていった。

こっちに来てからよく夕凪と目が合うなと思ってたけどそういうことだったんだね」


「……でもユヅルの様子を見てて疑っていた自分が馬鹿らしく思えてきた。

自分の目で見たユヅルは私の昔から知っているユヅルだし色々考えても仕方ないってな。

……あとごめん、皆を私の自己満足に巻き込んでしまって」


夕凪は郁達の方に向きなおすと、頭を下げた。


「まぁ、僕も口数少ないから誤解とかが生まれるのは分かる。

だから気にすることないよ夕凪」


ユヅルは夕凪に近付くと、夕凪の頭を撫でる。

夕凪は顔を少し上げると、こくりと頷いた。






帰ってきたニアはずっと一言も発さず、大好きなお菓子が目の前にあっても手をつけない。

シキは一口大の大きさにフォークでシフォンケーキを切り分けると、ニアの方へ向けた。


「ほーら、ニアくん大好きなケーキだよ?

食べんの? 」


「……いらない」


「あら、珍しい。

じゃあ、食べちゃおう~もぐもぐ、わぁ美味しい」


シキは自身の口にシフォンケーキを含むと、わざとらしくリアクションした。


「はぁ、美味しい紅茶もこれじゃあ不味く感じますわ。

ニア、貴方が油断しなければよかったのよ。

でもいいじゃない?

藍はお荷物だったもの」


「……はぁ?

調子に乗るなよイヴ……ずっと悪夢見させてあげようか? 」


「あら、口は達者なのね?

流石お子ちゃまだわ」


ニアは立ち上がると、獏のぬいぐるみを引き寄せる。

イヴも小刻みに人差し指でテーブルを叩く。


「……イヴ、ニアそろそろいい加減にしてくれる?

続けるようならどうなるか分かってるよね? 」


世釋は口角は上がっているが目が笑ってない。

空気がずんっと重くなる。

ニアも静かに椅子に座り直す。

イヴは震えながら世釋を見つめる。


「……申し訳ございません世釋様」


「……戻ってきたら謝ってよ、僕じゃなくて藍お姉ちゃんにさ……!! 」


ニアはじっとイヴを睨みつける。

イヴは苦い顔をすると「……分かったわよ」と呟いた。


「藍は当分はここの場所は吐かないと思うから大丈夫だよ。

あの子は意外に口が堅いと信じているからね。

攻めてきたとしても僕にとっては好都合だ。

きっとラヴィ・アンダーグレイも来るだろうからね?

そう思うだろ。

僕の愛しのエリーゼ」


世釋はエンマの膝に座る少女に視線を向けた。

少女はむしゃむしゃと無表情でケーキを頬張っている。

肌は真っ白で艶やかで美しくふわりと緩く巻かれた金色の髪はとても柔らかい。

片目だけ翡翠色の瞳が月の光に反射してキラキラ光る。


「まだ喋ってくれないよね。

早く君のもう片方の瞳と心臓を取り戻すね。

待っていてエリーゼ」


世釋は少女の頬に手を触れると、悲しそうにほほ笑んだ。




ー・ー・ー・ー・ー



××は木陰の下に座り、本の紙にペンを走らせていた。

時々手を止め、思い出したようにまた書き始めた。


「君は表現が独特な文章を書くね」


「っ!? 」


突然そう声をかけられ、××は持っていたペンを落とした。

彼女は落ちたペンを拾いあげると、××に差し出した。


「あぁ、驚かしてしまって、すまなかったね。

いつも何を書いているのだろうか気になっていたんだ。

それに君、すぐ私から逃げるだろう」


××は口ごもると、彼女はクスクスと笑った。


「どうだい?

この際、じっくり私を観察してみるのは。

今、此処には君と私しかいない」


彼女は××に顔を近づけると、目を覗き込む。


「ーっ!! 」


××は顔を背けると、立ち上がり歩いて行ってしまった。


「あんなに慌てなくてもいいのにな。

君もそう思わないかい? 」 


彼女は振り向くと、後ろからこちらに向かってきた人物にそう言った。


「……あまり彼をからかってあげないでください。

先日も貴女を見かけるだけで激しく胸のあたりが苦しみだし、動悸が激しいなんて相談されたんですよ」


「それで君は彼に何と答えたんだい? 」


彼女は首を傾げると、そう言われた人物は少し考える仕草をする。

そして思い出したかのように、「あぁ」と言った。


「私ではそれを解決することは難しいと言いました。

実際、私は彼が貴女に抱く気持ちが女性に好意ではなく、

なんと言いますか……そうですね、崇拝している人物への憧憬が交じった感情といいますか……」


「……私は別に崇拝される存在ではないんだけどな。

今度からは君が居る時に話す様にするよ。

その方が彼も安心するだろうからね。

あぁ、そうだ。

これは彼が立ち去るときに落としたモノだよ。

君が彼に返しておいてくれ」


彼女はそう言うと、一枚の紙を渡した。


そこには、聖母マリアの肖像画が描かれていた。


「私は聖母マリアとは真逆の存在だろう。

本来彼の信仰の対象は彼女だ。

彼にこれを返す際はもう落とすべきではないと、そう伝えてくれ」


「……ええ、そうですね」


彼女からそれを受け取ると、その人物はふっと笑った。

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