第3話 ミルクホール

 調書は何処から来たに始まり、やれ旅券を出せ、所属省庁の長の名を言えだのと事細かに及んだ。

 だが、どの質問にも寿太郎じゅたろうはろくな答えを返さなかった。

 調書を取るためベンチに座った髭の警官は、曖昧に濁してばかりいる寿太郎に鉛筆でとんとんと帳面を叩いた。


「高村さん、でしたっけ。こんなに答えられないのでしたら、やはり署に誰か来てもらうしか――」


 寿太郎は半歩後じさって縋るように青年の方を見る。髭の警官の隣に座って黙ってやりとりを眺めていた青年は大きく息を吐いた。


 青年は荷物を抱え直すと、寿太郎に向かって右手を差し出し和蘭陀おらんだ語で話し出した。

 目を丸くした寿太郎は警官たちが何か言う前に“de Nederlanden”と早口で返した。


 すると青年は「出身は和蘭陀オランダだそうですよ」と隣に座る髭の警官に橋渡しをする。


 髭の警官は帳面を膝を叩いて感嘆の声を上げた。

「素晴らしい。先生は和蘭陀語もお出来になるのですな。では、このあたりの事柄も尋ねてもらえますかな?」


 青年は差し出された手帳に目を通してから、再び和蘭陀語で寿太郎に話しかけた。


 一瞬、寿太郎は訝しげな顔をしたが、その後はすらすらと答えた。幾つかの受け答えの後、髭の警官は立ち上がって青年の手を取って勢いよく振った。


「助かりました。先ほどのお荷物の件ですが、破損などはある程度でしたら署……いえ本官が弁償いたしますので、この件は何卒ご内密に」


 自腹での弁償も厭わないとは、よほど異国がらみは都合が悪いのだろう。


 まごつく警官たちとは裏腹に寿太郎の表情は明るさを取り戻した。青年が身を挺して守るほど大事にしていた荷物だ。弁償額も相当なはず。肩代わりしてくれるのならこれほど有り難いことはない。


 ベンチから立ち上がった青年は荷物を抱え直すと首を振った。

「勿論、この件について口外いたしません。大した荷物ではありませんのでお気遣いなく」


 途端に寿太郎の頭に全額弁償の四文字がのし掛かる。寿太郎が人生最大の危機に絶望していると、青年が辺りを見回して言った。

「花見の警備にしては今日はやけに厳重ですね」


 それは寿太郎も思っていたことだった。夜でもないのに警察官の人数が多すぎる。


 髭の警官はポケットからハンカチを取り出して額を拭うと声を低めて言った。

「昨晩に入水がありましてな。花見客もおりますし野次馬対策に警備を増やしておるのですよ」


 知らない言葉に寿太郎が首を捻っていると、青年が耳打ちをしてきた。

「入水……つまり身投げです」

「大変な恋だったんだろうな。真実を知るは乙女ダーメンだけ。ガチョウが裸足で歩く理由は誰も知らず物事には必ず理由がある、だな」


 寿太郎が目を瞑って胸元で小さく十字を切って言うと、警官は首を傾げた。

「いや、壮年の男性ですよ。ここ数年は戦後景気の反動で不況続きですからな。世知辛いですなあ」


 入水と聞いて勝手に甘いロマンスを描いていた寿太郎は思いっきり渋い顔をした。


 背後で吹き出した青年を寿太郎がむっとして覗き込むと、青年は決まり悪そうに咳払いをした。


「そうだ先生。今から時間ってある? お礼といっちゃなんだけど、俺も喉が渇いたし喫茶店にでも行こう」




 助けてくれた礼に青年を公園近くのミルクホールへと誘ったものの、オーダーをしたきり会話らしきものもなく長い沈黙が続いていた。


 これ以上の沈黙は耐えられないと寿太郎が音をあげそうになった時、給仕が淹れ立ての珈琲と茶菓子を置いていった。

 張り詰めた空気がほんの少し緩んだところで寿太郎は恐る恐る口を開いた。


「あの、弁償の事なんだけど……」

 まるで会話をすること自体が意外だったかのように青年は一瞬目を丸くして後、「ええ」とだけ言った。肯定なのか相づちなのか分からず寿太郎は青年の言葉を待った。


「壊れるような物でもないですから弁償は不要です」


 ――そうは言われてもなあ。

 それっきり青年は会話を続けようとしなかったので、寿太郎は話題を変えた。


「そういえば学校の先生だって言ってたけど」

「一昨日までですけれどね」


 あっさり白状した青年に寿太郎は飲もうとしていた珈琲をあやうく吹き出しかけた。警察相手に身分詐称はまずいのではないだろうか。


「辞表は出しましたが、休み明けまで受理はされませんし名刺は有効です」


 青年は真剣な表情で砂糖をきっちり三杯分計ってカップに入れ、次いでミルクもたっぷりと入れた。

 もはや珈琲色ではなくなったそれを一口含んで頷くと、瓶の蓋をぱちりと閉めた。


「君は日本語が分からない訳でもないのに、どうして素直に答えなかったのですか」

 散々翻訳に付き合わされた青年は非難めいた口調で寿太郎に尋ねた。


「俺、十歳まで日本で育ったんだよ。その後は親父に習って……ま、それはいいじゃん。しかし、あんな適当な会話でよくバレなかったよな」


 雑な誤魔化し方だったが青年はそれ以上の追求はしてこなかった。単に興味がないだけだろうが有り難かった。


「君がちゃんと合わせてくれたからです。でなければ今頃は二人ともお縄でした」

 青年は両手首を前で合わせて言った。


 あの時、寿太郎が珍妙な顔をしていたのは青年の話した内容に面食らっていたからだった。青年は日本名所図会をオランダ語で話していただけだったのだ。


 柔らかな物腰ともっともらしい内容が功を奏したのか、警官たちは青年の翻訳を疑いもしなかった。


 ――彼は和蘭陀オランダバーグ地方の領主の命で文化視察に来日したと言っています。


 青年の意図を察した寿太郎は、船旅の思い出話をいかにも重々しい調子のオランダ語で話した。


「蘭学は昔ほど重宝されなくなりましたけれど、それでもまだ十分効果はあります。これにご大層な肩書きが組み合わされば、まさに鬼に金棒です」

「それがオダイミョウサマとかいう地位なのか?」

「大名は地位ではなく身分です。欧州のような領主制は日本にはありません。ですが、それなりにお年がいった人には強烈に効きます」


 寿太郎は青年の機転に深く感謝した。もし彼がいなければどうなっていたか。


 寿太郎は来日前に同僚から散々脅されていたのだ。道を歩けば斬り殺される野蛮で恐ろしい場所だと。


 寿太郎は日本人である父を見て育ち、実情とかけ離れていると知っていたが、大半の欧州人は東の果ての小国の実情など知ったことではなく、面白可笑しく喋っているだけだ。


 信乃の白皙の顔を眺めながら、寿太郎の頬が自然と緩んだ。


 ――やっぱり、実際に来てみないと分からないものだな。

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