月白のエスキヰス
都倉漣夏
第1話 高村寿太郎
差し出したハンカチは叩き落とされた。
「この絵はお前なんかにやらない」
――どうして?
「父さんが認めなかった絵なんて価値はない」
――でも、ぼくはその絵が欲しいんだ。
とても欲しかったんだ。
***
公園内は蕎麦出汁や焦がし醤油、甘いタレの香りに包まれていた。
桜の見頃は過ぎていたが、それでも最後の土曜日とあって屋台の店主たちは朝から仕込みに忙しそうにしている。
祭りの後の気だるさを含んだ朝に似つかわしくない必死さで黒のインバネスコートを着た青年、
駅を示す看板を見つけて曲がり角を右に折れると、サーベルの両端を持った警察官が行く手を塞いでいた。寿太郎はあたふたと石橋に引き返し、欄干の影に大きな身体を潜めて様子を伺う。
「朝っぱらからなんでこんなに警官がうじゃうじゃいるんだ!?」
振り向くと橋の反対側から人波を縫うように警官の制帽がひょこひょこと近づいてくるのが見えた。
「もう追いついて来た!」
「いたぞ、あそこだ! 待ちなさいそこの派手な頭の異国人!」
――派手って、地毛だっての!
警官の大声でその場にいた花見客が一斉に寿太郎の方を見る。こうなっては人混みに紛れるのは難しい。今は目立つ赤い髪を隠すための帽子も持っていないため、寿太郎は仕方なく駅とは反対の遊歩道へと飛び出した。
人混みを掻き分けて走ると直ぐに「どこに目ぇ付けてんだバカヤロウ」「走るなこのスットコドッコイ」と罵声が飛んできた。
極めつけには、けばけばしい洋装の男にぶち当たり、まるで毒虫のように見られた挙げ句、白いハンカチーフで追い払われた。
池の外周を巡る遊歩道には騒ぎを聞きつけた野次馬たちが集まり始めていた。黒マントを翻して走る異国人と警官の捕物帖だ。まるで珍しい出し物のように囃し立てる声までも聞こえてくる。
――捕まったら親父になんて言われるか。小言どころじゃすまないぞ。
人混みの中、荒々しい足音が聞こえてきた。振り返るといつの間にか髭の警官にもう一人若い警官が加わっている。
「うわっ、増えた!」
視線を前に戻した寿太郎はますます足に力を入れて走る。遊歩道を歩く花見客たちは疾走する青年に気づいて大慌てで道を開けた。だが、その人影だけはまったく動く気配はなかった。
人影は近づくにつれて
「そこの人、どいてくれ!」
ようやく気づいたらしい青年はその明るい榛色の瞳を見返してきた。
寿太郎は当然、青年の方が避けるとばかり思っていた。勢いが付いている寿太郎と違って相手は一二歩下がるだけだからだ。しかし、青年の動きは寿太郎の予想とは違った。
青年は手に提げていた大きな風呂敷包みをしっかりと胸に抱え直すと、その場で寿太郎に背中を向けたのだ。
「なんで!?」
避けるにしても既に距離が詰まり過ぎていた。ぶつかる直前、肩を丸めて頭から地面に飛び込んだが、それだけでは勢いを殺せず二度三度転がって背中から青年にぶち当たった。
しばらく呻いていた寿太郎だったが背に当たる柔らかい感触に気付いて急いで身を起こした。何度も地面に打ち付けた肩や腰が悲鳴を上げている。
痛みに顔を顰めながら背後を手で探ってみる。指が触れ振り返ると先ほどの着物の青年がくの字になって倒れていた。
「おいあんた、大丈夫か!」
肩を揺すると青年は呻いて仰向けに転がった。どうやら生きてはいるようだ。
青年は片頬を軽く引き攣らせ、長い睫に縁取られた瞼をゆっくりと開けた。ぱちぱちと何度か瞬きをした後、榛色の目が焦点を結ぶ。長い髪に縁取られた顔は白い。やけに整った顔の男だった。
寿太郎は身体を起こすのを手伝おうとしたが、青年はおっとりとした動作で右手を挙げた。
「大丈夫です。君の方こそ怪我はないですか?」
青年は申し訳なさそうな顔をしながら寿太郎の肩や腕を叩いて砂埃を落としながら言った。
寿太郎はその場で肩と首を回して見せ、傷一つない両手の平を向けた。昔から頑丈だけが取り柄で、むしろぶつかられた青年の方が心配なくらいだ。
「こっちこそ避けられなくて悪かった。荷物は大丈夫だった?」
周囲を見回すが荷物は見あたらず、どこかへ飛んでいってしまったのかと焦っていると青年が寿太郎の膝元を指差した。
寿太郎が座っていたのは、まさに青年の荷物の上だった。
「うわっ、気づかなかった。ごめん!」
荷物は四方が少し立ち上がってはいるものの全体的に平べったく、敷き込んでいたことに気付かない程薄い。慌てて風呂敷包みの上から退こうとしたその時、突然寿太郎の目の前に制服の太い腕が伸びてきた。
「うわっ!」
腕は寿太郎のコートの襟元をむずと掴むと、時計回りに身体を引きずり起こした。
掴み上げられながらも足元の荷物に目をやった寿太郎は、引っ張られる力を利用して体ごと警官を荷物から押し退けた。
唐突に妙な動きをした寿太郎に若い警官が激高する。
「貴様っ、抵抗するか!」
寿太郎は襟首を締め上げる若い警官を睨み付けた。いい加減苦しくなってきた寿太郎が警官の頭の上に拳を振り上げた時、背後から小さいがはっきりとした声が響いた。
「反撃してはだめです」
昔から頭に血がのぼると見境いを無くしてしまう寿太郎だったが、その声だけは頭の中にするりと滑り込んできた。
なぜ、彼の言うことを聞こうと思ったのか自分でも分からない。
寿太郎は腕を下ろし、固く握り締めていた拳をゆっくりと開いた。
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