第6話
「ごめんなさい」
固そうな扉の向こうから、もう何度繰り返されたかわからない台詞が聞こえた。
その声は今朝とは違い、いやに落ち着き払っていて、深い海の底にいるような漠然とした不安に襲われる。
僕は白井さんの実家であるマンションの部屋の前にいた。白井さんは玄関までは来てくれたが、それは彼女が謝りたいからであってドアが開く気配はない。
「もういいって。白井さんは何も悪くない。僕もあんな噂気にしてないし」
「ううん、私が悪いの。軽率だった」
色の無い声が聞こえる。耳で拒絶を感じる。
「ラーメン食べただけだろ」
「違うの。もっと前から間違えてた」
さっきから何を言ってもこの調子だった。目の前にある扉のように彼女の心は固く閉ざされている。
「失敗した。私は誰かに近づいちゃいけなかったのに。私の近くにいる人が周りからどう思われるか、わかってたのに」
口調は乱れない。ノイズもない。無機質な声だ。
なのにどうしてか彼女が泣いているように聞こえた。
「私が楽しいと周りがどうなるかなんて、わかってたのに」
ああ、と僕は気付く。白井さんは強いわけじゃない。
彼女は不幸でありたいのだ。
自分が不幸せなぶんだけ他人は幸せになるものだと信じ切ってしまっている。
それなら彼女の行き過ぎた優しさにも説明がつく。きっとたくさんの歪んだ幸せを見てきたのだろう。
雑用を押し付ける人は楽ができて嬉しそうだったろう。陰口を叩く人はエンタメを撒き散らして楽しそうだったろう。
他人の不幸は蜜の味と言うなら。
彼女はその蜜を運ぶ蜂になろうとしているのだ。
「……わかった。そこまで言うならもう僕に近づかなくていい」
僕は扉越しの彼女に声をかける。これが最後の会話になるかもしれない。それなら言いたいことは全部言っておこうと思った。
学校中が噂する『真っ黒髪の白井さん』。彼女が自ら進んでそうあろうとするなら、僕もそれを邪魔するつもりはない。
「これから僕と話さなくていいし、目も合わせなくていい。僕と関わったことを『失敗』って言ったのも許してやる」
けれどあの日、彼女は僕に歩み寄った。
たった一歩でも近づいてくれたぶんだけ、僕には彼女のことがよく見えてしまった。
だから願わずにはいられなかった。
「その代わり、これだけは絶対叶えてほしい」
僕は扉の向こう側へ切実に望む。あのとき照れくさくなってすり替えた二つ目の願いごとを今度は正しく口にする。
いつも静かにそこにいて、願いごとを言えばなんでも叶えてくれるクラスメイト。
他人の都合ばかり考えて、自分の苦労を一切省みない、人一倍優しい女の子。
真っ黒髪の白井さん。
僕は、君に僕になってほしいんじゃない。
「君に幸せになってほしいんだ、白井さん」
気付いてほしい。こういう形もあるんだって。
君が楽しそうだったとき、僕は結構嬉しかったんだからさ。
──こん、と。
何かがドアの内側にぶつかった音がした。固い扉が少しだけ揺れたようにも見えた。
それからしばらくして、返ってきたのはただ一言。
「わかった」と小さく震えた言葉だった。
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