第18話 悪党の日常

 よれたスーツを敢えてハンガーには掛けずにリビングのソファに放おった、神経質な白石は普段シワひとつ無いスーツにシャツを着用しているが、スカウトの時だけは安物のスーツと何の素材で出来ているのか全くわからない革靴、腕にはガチャガチャで出て来そうな陳腐な腕時計をしていた。


「パパー」


 寝室で寝ていた好美このみが、しゃがんだ白石の首根っこに絡みついてくる、今年で三歳になる実娘のあまりの可愛さに気を失いそうだった。


「このみちゃん、パパの事待っててくれたの?」

「うん」


 悪党にだって家族はいる、当たり前のように結婚して子供がいる方が多数派だ。


「もー、あとちょっとで寝る所だったのに」


 妻の佳子よしこがやれやれ、といった仕草で寝室から出てきた、シルクのパジャマにカーディガンを肩から羽織っている。


 好美は寝付きが悪いらしく、妻は寝かし付けるのに毎日苦労しているようだ。普段帰りが遅い白石は娘の寝顔しか拝見する事が出来ない、今日は赤羽から直帰したので何時もよりかなり早い帰宅だ、お陰で好美と話す事が出来た。


「好美、もう寝るわよ」

「やだ、パパと遊ぶ」


 ソファに座った白石の太ももに乗っかって動こうとしない好美を妻が叱ろうとする前に制した。


「まあまあ、たまには少しくらい良いだろ」

「もぅ」


 頬っぺたを膨らませながら怒る妻は、贔屓目に見ても美しかった、そのままキッチンに入ると白石の晩酌の準備に取り掛かる。


 プロ級に料理が上手い妻は、掃除、洗濯、子育てを何の文句も言わずにこなす、同僚の中には風呂掃除やゴミ捨ては旦那の仕事だの、家事は折半だの宣うゴミのような嫁がいるらしいが白石には考えられなかった。


 男は毎日、外で家族を養うために全力で戦っている、戦い疲れて帰宅した戦士に家事をやらせる――。一体何を考えているのだろうか。


 そんな不遇な待遇を受けているにも関わらず、へらへらと嫁は怖いから、などと口にしているヤワな男をみると根性を叩き直したくなる。


 ダイニングテーブルに座ると、キンキンに冷やされたグラスと冷たい瓶ビールが出てくる。

 流石分かっている、ビールとグラスが冷えているのは当然だ、しかし瓶まで用意できる妻は中々いないだろう、処理に困るし、何より重い。


 極端な話、冷やしてしまえば瓶だろうが缶だろう分からないかも知れない。しかし瓶の方が美味しいに違いない、旦那に少しでも美味しいビールを飲ませてあげたい、と思う彼女の心意気が味を何倍にもするのだ。


「好美もジュース飲むー」


 白石の隣にチョコンと座った娘は足をぶらぶらさせながら上目遣いで懇願してくる、かわいい、こんな可愛い子にお願いされて断れる人間なんているのだろうか。


「好美はだめよ、おねしょするから」

「しないー、してないー」


 本当だよ、した事ないよ、と白石に訴えかけてくる。この年にしてすでに女なのだろう、恥じらいがあるようだ。


 冷奴に揚げ浸しのナス、ひじきにほうれん草のお浸し、中年の白石の体の事も考えられたツマミが次々に並ぶ、どれも完璧な味付けだ。


「ご飯食どうする、良いお肉あるけど」


 カウンターキッチンから妻が訪ねてきた、もう少し飲んだらお願いするよ、と頼むと駄々をこねる好美を寝室に無理やり連れて行った。


 名残惜しいがあまり自分勝手な事は言えない、子育ては妻に全て任せてある。


『三万円だしますよ』


 クククッ、白石は佐藤のセリフを思い出すと声を出して笑った、とんだお人好し、いや、あれは単なる見栄っ張りだな。


 あの手の人間は懐柔しやすい、情に訴えかければ直ぐに協力するだろう、自分の為より人の為、自己犠牲の精神は悪党達の餌にしかならない。


 しかし――。


 途中で現れた、佐藤の知り合い、確かタケシと呼ばれていた、あの男は油断ならない。あれは人間を鼻から疑ってかかるタイプ、言わば我々の側の人間の雰囲気を漂わせていた。


「意外に直ぐに寝たわ」


 寝室から戻ってきた妻が横に座ると、ビールを酌してくれる。


「佳子も飲んだらどうだ」

「じゃあ、いただこうかしら」


 キッチンからグラスを持ってくると手酌でビールを注いで白石と乾杯した。


「今日は営業だったのね?」


 ソファに放ったスーツに目をやってから、妻が話しかけてきた、新規営業の時は安いスーツ、商談の時は高級スーツと妻は理解している、もっとも商談とは闇競艇の事だが本当の仕事など妻は知らない。


 闇競艇の時に高価なスーツを着用するのは当然だろう、一億以上の金を賭ける人間が安い格好をしている筈がない。新規営業の時に見窄らしい身なりにするのは『ヘルメス』はあくまでも慈善団体、選手を護る為に存在する非営利団体なのだ、儲かっているような振る舞いはNGだ。


 もっとも、本当に選手から徴収した資金だけで運営していたら、資金はすぐに底をつくだろう。そういった意味では嘘は無いと言えた。


「ああ、何とか契約出来たよ」


 白石は家賃とは別に生活費として毎月、百万円を妻に渡していた、一般的な家庭からすれば破格の金額だろう。しかし、妻が美しさを保つ為、娘が最高峰の教育を受ける為には仕方がない。


 闇競艇で使用する資金は当然、組織から提供されたものだ。当たり前だが勝った金が白石に転がり込む訳では無い、どの道、闇競艇で稼いだ金などそのまま表に出す訳にはいかない。


 資金洗浄マネーロンダリングされた後に組織の人間に振り分けられているのだ、現在幹部の直ぐ下にいる白石の年収が一億なので、上の連中はその数倍と見込んでいる。


「そうなんだ、さすがコウちゃん」


 娘がいない時、妻は白石をあだ名で呼ぶ、行燈あんとんとした世界に身を埋めている人間としては家で家族と過ごしている時だけがまともな思考を蘇らせる。


「そろそろ、二人目が欲しくないか」


 暗に夜の営みを提案すると、照れ笑いを浮かべながら妻は頷いた。


「じゃあ、シャワー浴びてくるよ」


 すぐにでも妻に飛び掛かりたい欲求を我慢して浴室に向かった。


「コウちゃん、ご飯はー」

「後で食べるー」


 背中で返事を返すと「もー」と妻の嬉しそうな声が耳に届いた。


 悪党にだって家族はいる――。


 家族を護る為なら何だってするだろう、ある意味では一般の人間よりもその想いは強いかも知れない、それはきっと自分が行なっている悪事を認めているからに他ならない。

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