10 消

 事件はすでに解決の様相を呈していた。

 理由はどうあれ、現れた怪物が〈言葉〉ならば、それを消去する方法があったからだ。

 それは、わたしがいないうちに……

 まさか?

「つまり計算機上で消去すればいいんですよ」

 と、誰かがいった。聞き憶えのある声音(こわね)をしている。

「……つまり、彼らは人間の脳を介して増殖するんですよ。思考を物理的実在に転換させて。とすれば、たとえば人工知能に彼らを認識させ、そのままディスプレイ上に彼らを追い込むことだって可能でしょう。そこまでいけば、もう解決したも同然ですね。DELキー操作で彼らのすべてを消去できます」

 宮武昌也のその〈言葉〉を聞いていたのは時制・過去のわたしだったのか、時制・未来のわたしだったのか、それとも単に病院のベッドの中のわたしだったのか?

「あ、うぅん……」

 わたしが呻き、寝返りを打った。

 すると、すぐさま――

「お、気がついたようだな、森平くん」

 宮武ボスが元気よくいい、心配そうにわたしを見つめた。

「ええ、どうにか……」

 思い出したように急に襲ってきた鈍い頭の痛みを感じながら、わたしは答えた。

 辺りを見まわす。

 ベッド。病院。壊れた壁。両隣に寝ている何人かの人。……その中にはわたしの恋人もいるはずだったけれど、記憶が遠くて、

 ここは?

「きみたちがあの言語怪物に襲われた病院だよ。もっとも、いま近くにあの怪物はいないが……」

 わたしの表情を読み取って、宮武ボスが答えた。

 けれども――

(何かが違う)

 わたしは感じた。

(でも何だろう?)

「ボスはいつ日本に帰って、いえ、あれからいったい何日経ったんです」

「だいたい三日というところだな」

 ボスが答えた。

「じゃ、あのすべては本当に起こって……」

 そういいかけた瞬間、身体中の穴という穴から記憶がゾワゾワと吹きだしてきた。ぞっとする。

 けれども――

「麻薬による幻覚作用みたいなものだと思えばいいだろう」

 わたしの感じたその感覚に、ボスの〈言葉〉が強引に割り込んできた。

「科学的にまったく説明がつかない現象というわけじゃない」

 ボスの長広舌がはじまった。怯えるわたしを諭すように……

「麻薬の作用は当然かもしれないな。なにしろ敵さんは脳に憑くのだから…… それが薬物と違うのは、敵さんの正体が〈言葉〉という抽象存在だということだけだ。そうだな、たとえば『病は気から』といういい方があるだろう。常識的に考えればいい。医者の仕事には元気づけや励ましも含まれる。往々にして、よい医者に当たった患者は療りが速い。ま、軽い病気だけに通用するのかもしれんがね。……〈言葉〉が人間に作用して、病気を治す。表面だけを見ていればそうだ。だが、そのとき言葉が乗っているのは脳だろう。脳という身体のOS。だから〈言葉〉の触発によって機能するのは、やはりというか、当然というか、所詮身体のシステムなんだよ」

 宮武ボスの表情を目で追いかけながら、わたしが瞬きする。

(やっぱり、どこかおかしい)

 わたしは思った。

(でも、いったい何がだろう?)

「……もっとも、わからないことはいくらでもある。言語怪物の巨大化や実在化の過程だよ。いくつかの仮定がないわけじゃないがね。量子科学。不確定性関係。踊る素粒子。無からの創造。空間にはエネルギーが隠れている。真空1㏄の推定質量は二〇〇〇〇〇〇〇〇〇トンにもなる。E=mc^2から換算すれば一八〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇ジュールだ。たった一・四㏄の真空エネルギーで地球上の海水全部を蒸発・気化させてもまだ余る。海水の平均温度を二〇℃とすると、日本海をあと二回ほど沸かせるかな。ま、それはさておくとして、それくらい莫大なエネルギーが空間そのものに隠されているんだよ。彼ら、言語怪物はもともとは非在すなわち虚数iの領域に存在したのだろう。そして量子科学も根本はiだ。とすると、彼らがその莫大なエネルギーを操る術を本能的に心得ていたと仮定しても、必ずしも無茶とはいいきれまい。純粋エネルギーからの物質の創造。ま、そんな理論は後知恵にすぎんがね。ぼくは実験科学者だから、現実に現れた現象の方を優先する。怪物は実在するんだよ。御伽話じゃない。彼らは実在するんだ!」

 そこまでを一気にいいきって、宮武ボスはわたしを見つめた。優しく、愛おしむように三秒ほどじっとわたしを見つめ、それから急に思い出したように、

「そうだ! アルゴリズムの回答も出てたんだったな」

 ひとり首肯きながら(まるで、わたしへの思いを断ち切るかのように)大声でいった。

「アルゴリズム?」

 わたしが小さくボスに答える。

「アルゴリズムって、あの北羅瀬天文台に仕掛けたノイズ解析プログラムのことですか?」

 それに答えて、

「先進波だったよ、たぶんね」

 宮武ボスが答えた。

「きみには説明の要もあるまいが…… ディラックの負エネルギー量子以来の物理の対概念だな。通常の電波とは正反対に時間を遡行して伝播する電磁波。それが天文台の観測電波に紛れ込んだノイズの正体だった。現時点で自衛隊と各国の防衛隊が攻撃作戦を実行している言語怪物はそれに乗って地球にやってきたのだろう。テレビ電波に乗った歌手の歌声のようにね。もっとも確信はないが…… だが、ぼくたちの電気・電子回路は確かにそれを感じて、帰属した。電気回路の正しい理論はiを含む。人間がその理論を使うときには、iを含めた計算の後に虚数部分を切り離す。もちろんiは計算結果に影響を与える。ぼくたち人間の感知できるのがオブザーバブルすなわち実数値だけだというのは、なんとももどかしいね。本物の〈実在〉とは、ちょうど複素数a+biのようにiを引きずっているというのに…… だが、ぼくたちにはそれが感じられない。現実の被害を別にすれば、あの怪物たちは天啓なのかもしれないな。ぼくたちが半分の〈実在〉だってことを知らしめるために自然が放った。なんともはや、ぼくたちだってiをひきずって生きているはずなのに、わずかもそれが感じられない。いや、待てよ。もしかすると、かつて賢者と呼ばれた人々はそれを理解していたのいたのかもしれないな。神秘的な電気・電子回路に似た脳を持って〈先進波〉を感じ、〈予知夢〉を見、お告げを伝える。いや、脳は、誰の脳だって電気回路そのものじゃないか! 機能自体はいまだにブラック・ボックスとしても、だ。とすれば、その機能が発現されないのはDNAにあらかじめ仕掛けられた罠? そして、図らずもそれに触れることのできた機能障害のある脳を持った賢者は、それを仕掛けた何者か、あるいはDNA自身の生き残り戦術のために、大衆あるいは権力者によって殺されて……」

 宮武ボスの長広舌は、もはやわたしという存在を離れて、どこまでも疑心暗鬼に陥っていくようだった。

 けれども、そのときわたしの頭に閃いたものは?

〈先進波〉が〈予知夢〉ですって!

 すると、ここ数年来わたしを悩まし続けてきたあの情景は、すべて未来の〈事実〉だった、ということなのだろうか?

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