カモミールの滝 3
「また月が丸くなってきたね」
「そうですね」
一度見えなくなった月が再び姿を現して、また夜空が明るくなってきた頃。
「あ!ここに着いてから日にち数えるの忘れてたなー。こんなに嬉しいことが続いて、しかもせっかく毎晩寝てるのに」
「日にち、ですか?」
「うん。前居たところを出てから、ずっと日にちを数えてたんだよね」
「どうしてですか?」
「えー、何でだろ」
「『秘密』ですか?」
「はは、秘密でも良いけど、」
初めて会った日の夜を思い出す。
「うーん、時間を数えると何か嬉しいんだよね。数えた分の時間が、もっと大切になっていく気がする」
「ふふ、そうですか」
「だから冴仁衣さんと会ってからの日にちも数えておきたかったなー」
「…二十八日ですね」
「え、」
「二十八日です、私と絵都さんが出会ってから。華寿海さんとは二十七日ですね」
「冴仁衣さん、数えてたの!?」
「はい」
「えー!!嬉しい!!僕たち二十八日の間、一緒に居たんだね」
「そうですね」
「…絵都、キリも良いしあと二日したらここを出るか」
「えぇ…」
「これでも長く居た方だ。いつもならとっくに追い出されてる」
「そっか…。冴仁衣さん、ありがとう」
「いえ、」
「では、お話しましょうか」
「ん?」
「『秘密』と言いましたよね、どうして私がこうして毎晩花を流しているのか」
「教えてくれるの?」
「はい」
「私も絵都さんと同じです。花を流して、夜の数をかぞえているのです。夜が来るごとにひとつずつ増やしています」
「どうして、夜を数えているの?」
「私には待っている人がいます」
「…主のこと?」
「はい。私はあの人が帰ってくるのをこうして待っています。『五十年ぐらい待っている』と話した気がしますが、正確には、今日で五十三年と百十七日です。私は今日、117個の花を流しました」
「……」
「もう昔のことですが、天上へと召されて太陽の神に仕えていた私は、地上に棲家をいただけることになりました。その時にいただいたのがこの場所です。一度東の方に来てみたかったのですよ。そこで、あの人と出会いました」
「……あれ、華寿海?」
ふと華寿海の方に視線をやると、目を閉じたまま動かない。
「すみません、華寿海さんには先程から眠ってもらっています。私は外来の者ですから、この土地のルールを良く知りません。私たちの感情や選択を禁忌だと言われても、私は聞くことが出来ませんから」
「華寿海はそんなこと言わないよ」
「ええ、そうだと思います。でもこれは私たちの秘密ですから、力のある神様になど聞かせる訳にはいきません。絵都さんが特別なのです。初めて会った時、その後どんなに打ち解けようと、私はあなたにこの秘密を話すつもりは全くありませんでした。しかし今はこうして話そうとしています。どうしてでしょうね…」
「分かった。…華寿海は大丈夫なんだよね?」
「ええ、お話が終わったら必ず起こします」
「うん。それなら安心した。中断してごめん、話を続けて?」
「いえ、こちらこそすみません。私とあの人、この滝の主は里禹馬(りうま)というのですが、里禹馬はここで出会いました。私は崖の上、里禹馬は崖の下でしたが、滝を流れる水を通じて、私がこちらに帰ってくる夜ごと、言葉を交わしていたのです。冴仁衣という名も、私が元々持つ名からあの人が付けてくれました」
「そうだったんだ」
「ええ。その後、ご想像の通りかと思いますが、私たちは互いに恋に落ちました。私は里禹馬を好きになり、里禹馬は私を好きになった。そう確信しています」
「確信?」
「あの人は、一度も『好き』という言葉を私にくれませんでした。『滝を登ってから伝えたい』と言っていましたね」
「ああ、『鯉の滝登り』かな…」
「それは何ですか?」
「うーんと、確か…、鯉が滝を登ると龍になるっていう言い伝えがあるらしいんだ。違う池で会った鯉の精霊に聞いたことがあるよ」
「そうだったのですね」
そう言って、冴仁衣さんは一度ゆっくりと目を閉じた。
「その日から、あの人は滝を登り始めました。しかし、どんなに大きな身体を持っていようが、この滝の主であろうが、当然登れる訳もありません。そうして数年が経ったある日、里禹馬は私にこの滝の代理を任せて突然どこかへ行ってしまいました」
「…修行とかかな」
「帰ってこないなら、何だって変わらないのです…」
「絵都さんは落花流水という言葉を知っていますか?出会ってすぐの頃、私の花弁が滝を流れていったのを見て、里禹馬が教えてくれた言葉です」
「花が散って水に流れていくこと?確かにこの場所にぴったり」
「そうです。去ってゆく春の景色だそうです。でも絵都さんには関係ありませんね」
「うん。昔教えてもらったんだけど、『去ってゆく春』がよく分からなくて」
「ふふ、そうですよね。では、もう一つ意味をお教えします。この言葉には、『気持ちが通じ合って互いを思いあっている』という意味もあるのです」
「すごい、本当にぴったりだね」
「里禹馬がこの言葉を教えてくれた時は、まだ互いに恋心はありませんでした。ただ花弁が滝を流れていった光景を見て、私に教えてくれたのだと思います。『気持ちが通じ合う』という意味も、ついでのように話していました。しかし、いつの間にかそちらの意味の方が私たちに合うようになったのです。不思議ですよね、呪い(まじない)のような言葉だと思います」
「あの人が教えてくれた言葉だったから、私もこうして毎晩花を流していたのですけどね」
「だったら里禹馬さんにも伝わってたんじゃ…」
「そうでしょうね。でも、あの人は『水の流れに身を任せたい花と、花を浮かべたい水の流れ』があるんだと言っていました」
「『水の流れに身を任せたい花』?」
「ふふ、難しいですよね。私が、外からやって来た者だからでしょうか」
「……」
「毎晩、花を流すたびに、好きだった落花流水という言葉が憎らしくなっていきます」
「それでも、流すことをやめられないのです。私はもうその言葉に縛られてしまったので、やめることが出来ないのですよ。流すのをやめてしまうというのは、私の中ではあの人を愛していないことと同義です」
「……」
「そういう訳で、私は毎晩カモミールの花を滝に流しています。夜を数えているのはただの当て付けですね。『こんなに待っていたのですよ』と言ってやりたいだけです」
「そうだったんだね…」
「ふふ、そんな顔をなさらないでください。あれは私の一部なので、朝になれば私の元へ帰ってくるのですよ。昼ごろに花弁が池に浮かんでいるのを見たことがないでしょう?」
「確かに…」
「ふふ、他に聞きたいことはありますか?」
「……失礼だったらごめん」
「はい」
「やっぱり、明日からも花を流し続けるの?」
「ええ、勿論です」
「そう…、分かった」
「…勝手だと思うのは私だけでしょうかね」
「…ううん、」
思わず冴仁衣さんの手を握った。僕の手から光が漏れ出ていく。
「すみません、長々と話してしまいましたね」
その後、冴仁衣さんに華寿海を起こしてもらい、洞穴に戻って布団に潜った。冴仁衣さんがカモミールをいくつか摘んで渡してくれたが、全く眠れなかった。
「眠れないのか?」
「…うん」
「あの話聞いたからか」
「そうだと思う。…ん?華寿海聞いてたの!?」
「ああ、身体だけ眠らされていたからな。意識は眠っていなかった」
「ええ!言ってよ」
「聞かれたくなかったみたいだからな」
「ああ、確かにそうだった」
「冴仁衣さんと、里禹馬さん、ここの主のことは禁忌になるの?」
「ならないんじゃないか?」
「はっきりしないんだね」
「ここの、滝についてのことは土地神が決めるし、冴仁衣は仕えている神が決めるんじゃないか?」
「へぇ」
「滝の主というのも、居た方が良いものではあるが、居なくても構わないしな。代理を立てるというのも聞いたことがない」
「そうなの!?じゃあ帰ってくるつもりはあったのかな…」
「…それは知らないが。とにかく、主というものは力を得て長生きしているだけで、普通の魚だ」
「そうなんだ…。だから龍になりたかったのかもしれないね」
「どういうことだ?」
「冴仁衣さんは精霊だけど、里禹馬さんはそういう存在じゃないでしょ?少しでも近づきたかったんじゃないかな。龍って神獣だよね?」
「神獣だ。…そういう考え方もあるんだな」
「ん?ああ、そう考えたのかもしれないなってだけ」
「僕は近づく必要は無いんじゃないかと思うけど、…難しいね」
「ああ」
「もう寝ろ」
「分かった」
それでも眠れなかった。
手から逃げていった黄緑色の光。
流れ続ける滝の音。
隣で眠る華寿海。
ふたりの感情と選択。
流す花、流れる水。
流す水、流れる花。
急流の中でそれを区別する。
そんなことが出来るだろうか。
濡れた花弁、自由な水の落下。
声は花を伝って、
花は水を伝って、
水は流れを伝って。
落花流水、
去っていく春の景色。
春を去らなければ、春を待つこともなかったのに。
春を去らなければ
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