第2話

 その様変わりは、数年前からだから、久し振りに村に入ったこの一行が、大きく驚くには至らなかった。

 一時期は、人が住んでいた家々も廃れ、田畑も荒れ放題になり、背丈のある草が完全に道を閉ざしていて程、廃村となっていたそこは、前に村があった時と同じくらいに生き返っていた。

 子供が走り回り、男衆も女衆もせっせと働くさまは、前よりも生き生きしているくらいだ。

 元々、この国の主の覚えのめでたい家臣が、その才を認められてこの村を任されたそうだ。

 百姓寄りの身分だったその家臣は、村の長に収まり田畑を増やして国への貢を育て、時に近くの山で獣を狩って、村の衆に振舞って労っている。

「これでも元は、武士の端くれでありまして。時々血が騒ぐのですよ。それこそ一昔前は、江戸の山での殺生は、禁じられておりましたので、これ幸いとこの命を受けたのでございます」

 お蔭で、江戸に向かう行列に加わらなくてもよくなったと村長は、縮んだ背を丸めたまま、軽快に笑った。

「山というのは、すぐ傍の山か?」

 穏やかな笑顔のまま聞いていた、優しい顔立ちの男が尋ねた。

 武家の旅装束の一行の中で、妙に馴染みやすい顔立ちと空気を纏う男だ。

 全員が大男の一行の中では、目線が合いやすい背丈の、細身のその男は、自慢ともとれる長の長話を、穏やかな笑顔のまま聞き入り、その流れで尋ねたようだ。

 だから長も気楽に答える。

「あの山は、獣が殆どおりません。山菜は豊富なので、時々女衆が入っておりますが。それよりも先にある山に狩りに行っております」

「ああ、鹿しか通れぬ獣道がある山、だな」

「おう、よくご存じで。今では少しだけ開けた道も作れましたが、初めは入るのも難儀しました」

 道を挟んだ向かいの山は、狼や野犬が住み着いていて、それこそ長の狩りの腕の見せ所だった。

「今は、追い払う程の数もいないようで、何とも張り合いがないと申しましょうか」

「ぜいたくな悩みだ。狼や野犬は、群れられると厄介だ。数が減ったのは幸いだぞ」

「はい。重々承知しておりますとも。しかし、張りがないとどうも、年を取るのが早く感じましてな。人間とは、どうしてこうも、思いに流されてしまうものなのでしょうなあ」

 嘆く長に笑顔のまま頷き、男は少しだけ躊躇って尋ねた。

「あの山は、何やら曰くがあったと聞いているのだが、障りはないのか?」

 慎重な物言いに首を傾げつつ、長は笑顔で頷いた。

「障りがあるのならば、山に入る事より先に、村を起こす際に何かが起こっておりましょう。どこぞのお偉いお坊様が、しっかりと清めて下さったのです」

「……そうか」

 そんな話をした後、男は一行の中に戻って行った。

 その日一晩の宿をその長のお宅でお世話になり、翌朝すぐにその村を後にした。

「まあ、良かった。雅が、あの村と再び付き合いをするかどうかは別として、まっとうな村になった」

 目的の村に向かう道すがら、優男のエンに村長の話を聞いたオキが、軽く息を吐いた。

 同じような体つきと黒髪の、人好きの軽い顔立ちの男だ。

 濃い草色の瞳で空を仰いでから、前を歩く小さな背中を一瞥した。

 傘を被ったその背中は、後ろの男達の話を聞いていないかに見えたが、そうでもないようだ。

 目だけを空に向け、何やら考えていたらしい。

 それを、隣に並んで歩いていたゼツが見つめていた。

 岩のように大きな男だ。

 固いが整った顔立ちの男は、少しだけ首を傾げて閉じていた目を開けて、逆隣りに並ぶロンを見た。

 薄い瞳と目を合わせた男も、多少劣るものの大きな男だった。

 色黒のその男も、小さな人物の仕草に気付き、そっとその顔を覗きこんだ。

 顔立ちは二人とも整っているが、その大きな体と白黒の色合いのせいで、この国の女子たちの中には恐ろしいと見えるらしいが、覗きこまれた人物は、無感情に見返した。

 色白の肌に完全に整った顔立ちの、若者だった。

 この国では男女どちらの場合でも大きい類に入るのだが、この一行の他の者たちがことのほか大きく、どうしても小さく見えてしまう。

 だから、見下ろすように覗きこまれた目は、少しだけ剣を帯びていた。

「何だ?」

「何を考えているの? まさかまだ、あの村に心残りがあるの?」

「そうじゃないし、別に、何も考えてない」

 無感情に答えられ、ロンは大きく頷いた。

「雅ちゃんが、気になってるのね?」

「……」

「そうよね。狐の獣にしては、馴染みやすい子だったもの。その馴染みやすさが災いして、どんな害に巻き込まれても、不思議じゃないものね」

 白々しく空を仰ぎながら言う男の背を、エンが眉を寄せて見つめる。

 その目に剣が帯びているのに気づいたが、隣のオキは黙っていた。

 そんな後ろの二人に気付いている筈なのに、ゼツが無表情に口を開いた。

「戒も一緒に帰ったんですから、大丈夫でしょう。あの子は意外に、人付き合いが好きな様ですから。それに、うちにいた数年で、色々と教えになった事でしょう。きっと、変な事に巻き込まれる前に、回避していますよ」

「……」

 オキが、顔を顰めて考え込んだ。

 小さく唸る男を目だけで振り返り、ロンが笑顔を浮かべた。

「そうね。回避できる程の力があればの、話だけど」

 今度こそ大きく唸った男は、小さな背中に声をかけた。

「セイ。少しだけ、離れる」

 セイと呼ばれた若者は、目を見開いて振り返った。

「……ついでに、雅の様子も、見て来る」

「それなら……」

 目を見開いたまま、セイは返した。

「エンも、一緒に持って行ってくれ」

「え? 何で……」

「分かった。置いて来る」

「いや、ちょっと待て。置いて来るとは、どう言う意味だっ?」

 意表を突かれたエンは、意外に強い力で引かれ、オキと共に傍の山の中へと消える。

 それに手を振って見送りながら、同じように手を振っているセイを見下ろし、ロンが笑顔で尋ねた。

「何? こんな下世話な事で、セイちゃんが思い煩ってたの?」

「ゲセワ? 雅さんが欲しがってたから、さっさと差し出して、事なきを得ようとしただけだけど」

「……口うるさいのが、一人減るから、ですね?」

 無表情に頷いたゼツの真顔な声に、セイがきっぱりと頷くのを見て、ロンは顔を引き攣らせた。

「ち、ちょっと。まさかとは思うけど、その口うるさいのの一人に、あたしが入ってたりしないわよね?」

 大小の色白の二人が、目を見張って男を見た。

「え? 入っていると思いますけど、その自覚が、全くないんですか?」

「ちょ……ゼツちゃん?」

「あんたの方は、隙を見て気絶させて、おかみさんの所に持って行けばいいから、楽だと分かったから、急ぐこともない」

 セイには、何でもないように答えられてしまったが、それが本当に何でもないことのように出来ると分かっているから、余計に恐ろしい。

 心底震え上がったロンは、泣き落としにかかった。

「酷すぎるわっ。これが、小さい頃から、手塩にかけて育てて来た子の仕打ちだなんてっ」

 ぐっと詰まったのは、見た目と裏腹に気弱な方のゼツで、セイの方は変わらず答えた。

「手塩にかけられたからこそ、あんたらの行く末を、考えてるんだよ。他の奴らだって、暮らしの糧にできる術があるんだから、こんな後ろ黒い事を続けることはない。とくにあんたは、手塩にかけてくれた分、幸せになって欲しいんだ」

「……」

 逆に、無感情につづられる言葉に、ロンの方が詰まってしまった。

 嘘ではない、涙が滲みそうになる。

 そんな男の様子に構わず、セイは一人言う。

「まあエンも、すぐに離れるようにする気は、なかったんだけど。ここで増えるよりは、一人減らす方が、楽になるから」

 涙が引っ込んだ。

「? どう言う事?」

 深く訊く男に、若者は躊躇いながら答えた。

「……雅さん、山には一旦戻るだけのつもりなんだよ」

 おやと目を見張るロンは、セイの続く言葉を察した。

「減らすつもりなのに、増やすことになるのは、御免だ」

「つまり、エンちゃんと離れたくなくてって事? だから、熨斗つけて送り出したのね」

 そう頷きはしたが、別な考えも浮かぶ。

 父親が賢い男だったのか、母親の狐がそうだったのか、雅は鋭い女だった。

 短い付き合いで、セイがこの群れに身を置いている理由に、行きついたのかもしれない。

 そうだとしたら。

 再び歩き出したセイと共に歩きながら、ロンは深く息を吐きだした。

 幼馴染の息子を、突然追い出す形になったため、少しだけ取り乱してしまったが、本当にすぐ戻って来る方が、あり得る。

 しかも、一人の女を伴って戻って来るはずだ。

 場合によっては、更にもう一人戻ってきそうだが、男にとってはそれも読めない話ではない。

 その時の、セイ本人の驚きを想像して、ロンは一人微笑んでしまったのだが……。

 目指していた村で、全く別な形で、その出戻り劇が繰り広げられることになる。


 意表を突かれて、ついつい腕を攫まれたままオキに続いてしまったエンだが、我に返った後も暫く、そのまま引っ張られて歩いていた。

 振りほどけなくてではなく、単に戸惑って考え込んでしまったため、腕を攫んで先導してくれる男が、好都合だったのだ。

 考えをまとめてから、腕を振ってオキを振りほどいたが、その時には目的の山に入り込んでいた。

 立ち止まって振り返る男に、優男は穏やかに言う。

「様子を見るだけなのに、なぜオレまで引っ張って来たんだ?」

 見返したオキは、眉を寄せて答える。

「お前、自分がどんな顔して、村で聞いた話をしていたのか、気づいていないのか?」

「どんな顔? いつもと同じ顔のはずだが?」

 指摘しても変わらぬ笑顔に、オキは大袈裟に溜息を吐いて見せた。

「オレや、今一緒の奴らが、どれだけ長い付き合いだと思ってるんだ?」

「精々、そろそろ二百年ってところだ。それがどうした?」

「お前も、心配なんだろう?」

「……何が?」

 話をはぐらかそうとする男に、オキは真っすぐに言うと、エンの返しに少しだけ間が出来た。

 だから、真っすぐに答える。

「雅が、どの村にも現れていないのが、気になっているんだろう?」

 自分達は、江戸を発って京都に立ち寄り、そこの知人に暫くお世話になり、冬を越した。

 春になってから再び旅に出、この国に入ったのは夏の終わりの今だ。

 いつもよりものんびりとした旅路は、雅が故郷に戻り、落ち着いたころ合いになっているだろうと思えるほど、時を進めていたのだが、一つ前の村でも、先程の村でも、それらしい娘の出入りが見受けられなかった。

 一つ前の村では一度だけ、顔見知りの屋敷に山菜や薬草を持って来たと聞いたが、それ以降ぷっつり、姿は途絶えていた。

 山ごもりしているとも考えられるが、徹底したそれをするのは無理があった。

 弟分の戒が、一緒のはずだからだ。

 大きく育ったあの弟は、こちらの生気が吸い取られそうになる程に、力が有り余っている。

 腕力の話ではなく、生き物としての力の方だ。

 つまり、生き物として血を繋ごうとする力が、女に引き寄せられる。

「……何で、あんな男に育つんだろうな。あの群れの中で」

「甲斐性なしの男の群れを見て、逆に目覚めたと見た方がいいだろうな」

 苦い顔でつい、今まで口にしなかった疑問を呟くエンに、オキは神妙に頷きながら答えた。

 戒が年頃になった頃から、その片鱗が現れた。

 だが、初めは近くにいる女たちを褒めて喜ばせるだけの、害のない男だったのだ。

 それが、ロンと同じくらいになると、口だけではなく手まで出すようになった。

 うちの群れの女は、男達とは違って熟練が多いから、逆に手玉に取られることが多かったようだが、そこでもまれてしまった戒は、短い間ですっかり軽い男になってしまった。

「まあ、甲斐性がある男、って事で、もてるのだろうが」

「……好いてもいない人に好かれて、嬉しいものなのか?」

「嫌われるよりは、なんぼかましなんだろう」

 不思議そうなエンに、中身のない言葉を投げながら、オキは再び歩き出した。

 その後に続きながら、少しだけ変な想像をしてしまった。

「……戒を伴侶にして、今は身動きが取れないだけかもな」

 オキが、足を止めた。

 ゆっくりと振り返ったその目は、呆れが滲んでいる。

「……本気で、そう思うのか? 戒と雅が繋がってしまうとしたら、戒が無体をしてという事になるが。あの戒が無体を出来る程、雅は弱いのか?」

「心を込めて口説かれれば、無体される前に折れてくれる。あの人は、身近な者には優しいから」

 穏やかに返したエンを、今度は見た事もない化け物を見る目で見返し、オキは再び吐き捨てた。

「本気で、言ってるのか」

「何だ、その目は」

「お前は、雅が、只の弟分ごときにほだされて繋がると、本気で思っているのか?」

「それしか、考えられないだろう?」

「しかも、姿を現さないのは、戒との間に、子を儲けたからだと?」

「あり得る話だろう?」

 念押しの問いに、エンは穏やかに返しているが、付き合いの永いオキは気づいていた。

 言い返すたびに、その笑顔は剣を帯びている事に。

 言葉とは裏腹の、言いようのない焦燥が、ありありと見えていた。

 小さく鼻を鳴らして再び歩き出したオキは、黙ってついて来るエンを背後に、そのまま切り出した。

「……どうやら雅は、戒の今後を見届けた後に、戻ってくる気だったらしい」

「何処に?」

 年々、心の動きが見えづらくなっている元主の腹違いの弟に、オキはこの際はっきりとこちらの事情を吐くことにした。

「お前の元に、だ」

 足場が悪いが、ぬかるんでいないはずの地面で、エンが何かに躓いてよろめいた。

 頭から倒れ込みそうになり、片手をついてそれを防ぐと、何事もなかったかのように身を起こした。

「そんな話、聞いた事がないぞ」

 咳払いをした後の返しは、それだった。

「ああ。その話をしたのは、セイと会っていた時だったからな。言葉にした理由が言い訳なのか本心なのかは、これから会って確かめるつもりだ」

 どう言う場でその話が出たのかは、オキには話せない。

 稼業の邪魔を目論む者を、内側から崩すつもりで動いていたセイが、雅ともう一人の男に助けられてしまった場だったからだ。

 今の主の目論見に乗り、一緒に攪乱する気でその場を傍観していたと知れては、色々と面倒臭い。

「……」

 曖昧にしたそこを、深く訊かれるだろうと軽く身構えたオキの目の先で、エンは黙り込んだ。

 困惑したように目を泳がせ、逆に不安になる。

 そんな思いが顔に出てしまった男を見上げ、エンは再び咳払いした。

「そうなのか。それは、確かめるべき話だな」

「ああ……」

「あの子の望みは、雅さんが考えを改める、という事なんだな?」

「ああ」

 混乱してはいるが、大事な若者の思惑は察していた。

「オレも、説得してから戻ればいいんだな?」

「まあ、戻らずに、生贄として残ってもらった方が、楽なんだが」

 確かめるように訊く男に、オキはしれっと若者の望みを漏らすと、エンは珍しく恨みがましい目を向けた。

「それだけは、お断りだ」

「何故だ? 男冥利に尽きるだろうに。何も、お前が襲われる方ではないだろう。力では、お前の方が上なんだ。なら、お前なりの言葉を尽くして、かき口説け」

 何で、あの男女の言葉を真似てまで、説得してやらないといけないのか。

 内心、鬱々としながらも、オキが言いつのった言葉に、エンは真顔で首を振った。

「それは、出来ない。間近で目を合わせると、どうしても気が張ってしまって」

「……」

 思わず、目を剝いてしまったオキは、意外な事を言い出した男を見返した。

「あれで?」

「あれで、とは?」

 思わず言った言葉に返すエンは、眉を寄せた。

 江戸での合流地に、二人が揃って現れた時、オキだけではなく二人を見知っていた仲間たちは、全員確かな手ごたえを感じていた。

 それだけ、熟年に近い深さの間柄になっているように、見受けられたのだ。

 だが、どうやら違ったようだ。

 エンは、あのセイの祖父と、爺様婆様のような夫婦の間柄を、若いながらにやってのけていた男だ。

 その煽りで、雅とも熟年を通り越して、完全に老練に達した夫婦の間柄にまで、一気に進んでしまっていたようだ。

 見慣れた連れ合いに辟易する時を超え、既に一週回って初々しい間柄に、陥っているように見受けられた。

「……」

 完全にしっぽりと出来上がった上での、その達観ならば得心するが、今の話からすると、その手の話は皆無だったようで、何とも不思議な間柄に思える。

 久し振りに愛しい女の顔をこの手で包んで抱擁し、その余りの小ささと細い体に狼狽えてしまい、結局何も出来ないまま再び別れたオキとはまた違う、甲斐性なしだ。

 当の女がそれを察し、もっと体を鍛えると力強く言うのを見ながら、元の主がその気になれば、それこそ力づくで無体を働くことができたのではと、ぞっとした事まで思い出してしまい、オキは全ての思いを盛大な舌打ちの乗せて払った。

 自分の問い返しに、黙ったまま舌打ちした男を、エンは怪訝な顔で見上げていたが、オキは何も言わずに踵を返し、再び山を登り始めた。

 舌打ちされるほど、おかしなことを言ったかと、内心首を傾げながらオキの後に続く。

 足を止めたのは、二人同時だった。

 ひやりとする、何かを静かに滑らせる音。

 それが何か思い当たる前に、それは襲い掛かって来た。

 二つの小さな影を、二人の男は難なく避け、更に斬りかかるその手首を、斬りかかられたエンが攫む。

「……っ」

 顔を歪ませた襲撃者は、まだ幼さの残る男の顔をしていた。

 着古した衣服は、侍の旅装束だ。

 浪人にしては、身なりがいい。

 そこまで観察したエンに、もう一人が刃を向けて斬りかかった。

 こちらは先の男よりは年かさの、しかしよく似た顔立ちの侍だった。

 どちらも、剣筋はいい。

 だが。

 捕まえている男を盾に使うか否か、少し悩んだエンが動く前に、オキが斬りかかった男を刀の鞘で受け止めた。

「どうする?」

 そして、短くエンに尋ねる。

「山をこれ以上、血で汚したくはないな。だが、今更かな?」

「今更だな」

 答えた男は、短く返された言葉に頷き、穏やかに笑った。

 出来るだけ、剣を帯びないように笑ったつもりだったが、それが逆にいけなかったらしい。

 目の前でその笑顔を見た幼い方の男が、口の中で悲鳴をかみ殺した。

「申し訳ない。武家の方なのに、こんな死なせ方させるのは、気が進まないんですが……」

 空いていた左手が、男の頭に伸びる。

 逃れることができない侍を見つめながら、エンは笑顔で言い切った。

「突然襲って来たんですから、その位の覚悟は、あるはずですよね」

「そういう事だ」

 オキも頷きながら、相手の刃を受けたままの鞘から、静かに己の刀を抜くべく、柄にに手をかける。

 不意に、痺れる感覚が走り、眉を寄せる。

 目だけで連れを伺うと、エンも目を見開いて空を仰いでいた。

 その瞬間、風が四人の間をすり抜けた。

 オキと相対していた男はその隙に離れ、エンと相対していた男は、更に向こう側にいた。

 空になった右掌を見つめ、男を奪い取って行った何かを、エンはゆっくりと見つめた。

 大きな男だった。

 知り合いの狼の倅よりは小さいが、肉付きが尋常ではない。

 人一人抱えて、そこまで遠ざかるには、余程の腕力がいるが、その肉付きの良さならば、容易な話だった。

 腰が抜けたのか、降ろされた先で座り込んだ男を見下ろすその大きな男の傍に、もう一人男がいた。

 放浪生活が長いのか、くたびれた衣服の浪人者だったが、心配そうに若い男を見下ろす顔立ちは、先の二人と似ていた。

 兄弟か。

 そんな事を思いながらも、エンとオキが反撃や逃走を考えなかったのは、それが難しいと察したためだ。

 囲まれている。

 人間が群れを成して、自分達を捕えに来たのならば、ここまで考える事はない。

 力任せにでも、振り切れるからだ。

 だが、相手が少々厄介だった。

 侍たちを相手にしている間に、充分な間合いを取って囲んで来たのは、様々な種の獣たちだった。

 動物の肉を餌にしている獣も、草木や果実を餌にしている獣もいる。

 ここまで様々な種の、妖しとなった獣を見れるのは珍しいが、その最たるものは男達を守るように立つ、先程の大きな男だった。

「……何故、この国にいるんだ? いるなら、大陸の方の筈だろう?」

 何故か額を抑えて唸るオキの傍で、エンが素直な文句を吐いた。

 一方で、浪人者が二人を見やり、目を険しくしている。

「……動いているな」

「ああ」

 大木のような男が、気を張りつめたまま頷く。

「人間ではないようだが、獣でもないという事だろうか?」

「いや」

 浪人者の問いに、大きな男は一人の男を見据えて答えた。

「あちらの男は、獣だ。だが、あり得ない話ではない。あの獣の中には、術呪類から主を守る者もいる。だが、その隣の男が、あなたの術で縛れないのは、おかしいな。寿命が曖昧になった、いわゆる天狗と同じような人間だというのに」

「鼻が長くない、その手の種もいるのだな。色々と、奥が深い」

 頷いて、少し考えた浪人者は、何を思ったのか、不意に二人に近づいた。

「あ、兄者っ?」

 若い侍が目を剝くのに構わず、年嵩の侍の横もすり抜け、己よりも背高な二人の前に立った。

 無言で見下ろす二人に物おじせず見返すと、静かに言った。

「申し訳ないが、この山には、暫く立ち入らないで貰いたい」

「……それは、襲う前に言うべき話では?」

 穏やかなエンの返しは、最もな話だった。

 浪人者は力なく笑い、頭を下げる。

「それは、申し訳なかった。だが、気が張っている時に、あなた方のような不思議な方々に来られては、襲い掛かっても致し方がなかったのです」

「我々からすると、あなた方の方が不思議なのだが。一体どこのどなたで、ここにはどのような用向きで?」

 更に最もなことを言われ、浪人者は大きく唸った。

「名乗るのは命がけになるので、家の名だけでよろしいか?」

「こちらも、呼び名しか名乗る気はないから、構わない。私はエンで、こちらはオキ」

 短くこちらから名乗ると、後ろの方で見守っていた大きな男が僅かに目を見開き、オキを見つめた。

 そんな背後に構わず頷いた浪人者も、あっさりと答える。

石川いしかわ家の者だ。私は次男で、あの二人はどちらも同腹の弟」

 取り囲む獣たちは、だんまりのままだったが、エンは頷いて先に経緯を話した。

「……この山に住む人を、訪ねて行く所だったのだが、そちらも?」

「似たようなものです。あなた方が言う山に住む者が、どなたなのかは分からないが、今住み着いている男に、我々は用がある」

 黙ったままのオキが、大きく目を見開いた。

 余計な事まで口走りそうで、何も言葉に乗せない男の傍で、エンは慎重に尋ねた。

「今、住み着いているのは、男だけ、なのか?」

「ああ。千里を見渡せる目を持つ男の、忘れ形見であると思われる男で、その男が今後、わが家が仕える国に、触りをもたらさぬかを探るのが、この二人が課されたお役目だ」

 そのお役目を課され、この地に入ったのは夏の盛りだった。

「その時には、家臣も連れていたのだが、山に入った途端、たった一人に翻弄されて、逃げ帰ったらしい」

 ただ逃げかえったならいいが、未だに癒えぬけがを負い、近くの村で預かってもらっているという。

「その、翻弄した者が、お探しの男なのか? 間違いなく?」

 慎重な問いに、浪人者も慎重に答えた。

「恐らくは。山に入ったのは数度で、どの時も慎重に、山に入る場所も変え、人を数人ずつ四方から登らせたが、どの時も全滅だった」

 死人が出ていないのが、せめてもの救いだった。

 だが、国にその醜態が届く前に、何としてもお役目を終えたい。

「男に会うどころか、山に入ることも出来ぬのは、完全に恥だからな。石川家の存続にも、深く障りがある」

 だから石川家も、変わり種を使う事にしたのだ。

「……数年前、駆け落ちを手伝うと、訳の分からん言い訳を書置きし、家に縛っていた式神数匹と共に姿を消した、この地の近くの集落で、恐ろしく呑気に暮らしていた当主の弟を捕まえて巻き込んで、ようやく山のこの辺りまで掌握できたところだ」

 ゆっくりと近づきながら、大きな男が話を続けると、浪人者は苦笑して首を振った。

「まさか、こんなに早く見つかるとは、思わなかった」

「見つかる見つからないでは、なかったんだが。元々、何処に行くかを、見守っていたんだが」

「……」

 上目づかいで睨む浪人者に構わず、大きな男が二人の背高男を見比べ、短く名乗った。

ほまれ、だ。そちらが訪ねる山の者というのは、先に住んでいた狐の事だな?」

 答えない二人を見比べて、誉と名乗った男はオキを見据えた。

「寿は、既に山を下りている。その子供たちも巣立って、もぬけの殻だったところを、件の男が陣取った」

「……」

「だから、お前やランが、気にする話じゃない」

 考えるように目だけで空を仰ぐエンの傍で、オキは誉の言い分に頷いた。

「お前が言っている男が、オレの知る奴ならば、こちらが訪ねる狐も、関わりがある。寿の後山の主として住み、山に入り込んだ男の童子を拾い、養ったと聞いている。お前並に育った男なんだが、同じ奴か?」

「話に聞いた限りでは、同じ奴のようだな。恐ろしく遠目を見渡すのが上手いようで、策を話し合うその口元を読んで、先回りして罠を仕掛け、襲ってくる」

 気楽に言うオキに目を見開くエンは、誉の方も気楽に答えるのを見て、まさかと思い当たった。

「……知り合いか?」

 短い問いに、オキはあっさりと頷いた。

「大陸の湖で、主をやっていた奴だ。悪さが過ぎて、どこぞの銀髪の化け物に、あっさりと釣り上げられた」

「……やめろ、その話は。うちの主どもに聞かせたくない」

「いや、この際、聞いておきたいな。多少の弱み位、知っておきたい」

 焦る誉の傍で、浪人者が人の悪い笑みで頷き、若い侍は黙ったままながら興味津々の顔で、オキの話の続きを促している。

 もう一人の侍は黙っているが、困ったような笑みを浮かべている所を見ると、この先の話を知ってもいいか、躊躇っているようだ。

 大陸の国の、完全に言い伝えにしか出てこない生き物の、弱味のような経緯は知るべき話ではないと、思っているのだろう。

 釣り上げられたという事は、魚の類だろうか。

 大昔の、今より更に食べる物に貪欲であっただろうあの群れの者が、水辺の主を張れる魚を前にして、命を助ける方に動いたことの方が、エンとしては意外である。

「……どう美味しく、料理するか考えるような顔は、止めて貰えるか?」

 引き攣ったような声が、エンの考えを遮った。

 考えるようなではなく、本当に考えていた男は、引き攣った顔で睨む誉に、穏やかな笑みを返した。

「申し訳ない。謝罪ついでに、どんな魚だったのかだけ、教えていただけるか?」

「……何だ、この男はっ。一体何者だっ?」

 完全に、料理の材料を見る目の男に慄き、焦った男の喚くような問いに、オキが真顔で答えた。

「さっき名乗っただろう。エンだ」

「名前だけかっ」

「それしか気づかんから、只の魚と同じように見られるんだろうが。図体ばかりだな、相変わらず」

「なっ……」

 詰まった男に、オキは仕方なく、少しだけ詳しい紹介をした。

「カスミの旦那の、倅だ。ランの、腹違いの弟」

 引き攣った顔が、更に恐怖で染まるのを見て、エンは少しだけ眉を寄せた。

 二代目頭領のカスミがいなくなって、随分時を経たのに、未だにその畏怖交じりの偉業は、越えられない。

「山の主をしているはずの狐は人間との混血で、エンはその師匠に当たるから、近くに来たついでに、訪ねに行く途中だ。かかわりないと追い返されるのは、納得できない」

 こちらの事情のみを話すオキを、エンは黙って白い目で見つめたが、誉はその目の意を察する事なく頷いた。

「そうか。あの旦那方と言い、あの手の獣を手懐けるのが、うまいな」

 一緒にするなと言いたいが、エンはぐっとこらえて話を進める事にした。

「山にいるのは、その大きな男だけ、なのか?」

「どうも、そのようだ。一人分の気配しかないし、襲われた者たちに聞いた人相も、全員同じ男だ」

「……雅が山を下りたから、にしては戒の奴の荒れ方が、おかしいな」

 懐いていた姉貴分が、自分を置いて山を下り、すでにセイの元に去っているのならば、その弟分が拗ねるのも分かる。

 だが、人を襲う拗ね方は、雅を想う戒の動きにしては、派手過ぎた。

「やはり、一度登ってみるしかないか」

 オキの眉をひそめた呟きに頷き、エンが顔を改めた。

 大の男に育った戒が、ここに残ろうが暴れまわろうが、もう関わりない。

 だが、雅や戒に、良からぬことが起こってしまっているとしたら、このまま確かめずに帰るのも、胸の治まりが悪い。

 何の触りもなく歩き始めた二人を、侍たちが目を剝いて見送ったが、そんな背後はもう気にならなかった。

「……雑だな」

「ああ。情けない」

 殺伐とした空気と、見え隠れする罠の数に、二人はついついげっそりと言い合った。

「鍛え直した方が、この先憂いが無くなるんじゃないのか」

 穏やかなエンの揶揄いに、苦い顔になったオキは答えた。

「あれを、再び繰り返せと? 冗談ではない。鍛え直すより、叩き直す方が、すっきりする分幾分ましだ」

「どう違うんだ?」

 真剣な答えに苦笑しながら気配を辿り、エンは言う。

「どちらをするにしても、戒を探すことが、先決だな」

 手分けして探すことはないと、二人は判断した。

 先程の邪魔の存在で、山に入った事は気づかれなかったかもしれないが、今は完全に知られているだろう。

 戒が正気ならば、拗ねた態度で迎え入れてくれるだろうが……。

 そんな甘い思いは、すぐに消えた。


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