小さな音が、時々聞こえる

 流浪橋の手前まで真黒さんに車で送ってもらい、そこからは歩く。流浪橋の真ん中には看板が置かれていて、車では通れない。真黒さんはそのままアトリエに帰っていった。筈華が乗る車いすを押して、若干アーチ状になっている橋を進んだ。


「卓球なんて久しぶりだ」筈華が言った。「るかは卓球やったことあるか?」

「そりゃあ、あるよ。全然うまくないけどね」

「俺もだ」筈華は笑う。

「筈華下手だもんねー」野茨さんは僕らの少し前を歩いている。首をくいっと曲げて言った。「ていうか、運動全般だめ」

「確かに。でも足だけは速かったよね」水落は僕らに並んで歩いていた。

「そんなこと言ってたな」砂浜で聞いたことだ。「僕は足だけはあまり早くないよ」

「じゃあ、運動はできるのか?」

「うん。多分、人並み以上には」

「どっこいどっこいだな」


 木でできている癖に(少なくともそう見える)自動で開くこの旅館の入り口は、やはりどこか滑稽に感じられる。誰にも共感してもらえないだろうが。水落も笑う僕を見て首をかしげていたし。


 右側にある短いスロープを使って、玄関のちょっとした段差をあざ笑う。筈華は段差を難なく倒した優越感に浸っていた。


 水落がフロントにいる水落のお母さんに小走りで向かっていく。こちらを見ている水落のお母さんは小さく手を振っている。少し会話をした水落は、小さなかごに入ったラケットとピンポン玉をもって戻ってくる。


「はい、筈華くん」筈華の膝の上にかごを置いた。「るかはラケットどっちを使うんだ?」

「僕は、なんかペンみたいな持ち方する方」

「へー、珍しいな」そこまで珍しいだろうか。

「ねえ、野茨さん。ペンみたいな持ち方をする方のラケットは何て名前なの?」

「知らないよ」呆れたような返事が返ってきた。水落が少し笑った。


 卓球台が置かれている部屋は、フロントから伸びている廊下を進んだ先にあった。階段を経由しない場所にあるのは非常に助かる。いくら細いと言っても、筈華を運ぶのは一苦労だろう。何より危ない。


 卓球台は二つ置いてある。水落がラケットを持って奥側にある卓球台に滑り込んだ。「茨、まずは女同士で勝負だよ」


 野茨さんは肩を回しながらゆっくりと歩いていく。やる気は満々だ。


「筈華、本当に卓球なんてできるの?」

「なら、短距離走でもするか?」

「いや、卓球にしよう」

「よし」


 僕は卓球台のすぐ前にまで車いすを持っていって、そのまま反対側に歩いた。車いすに座る筈華と、向き合う。細い肩と、痩けた顔だけが見えた。筈華は僕より二つ年上だけれど、それ以上に年上に見える。目の下には濃いクマがある。いたるところが、筈華を老けて見せていた。


「それじゃあ、行くよ」サーブはどう打てばいいか、と考えながらピンポン玉を持つ。

「まてまて」筈華は崖をよじ登るかのように、卓球台を掴んだ。不自然なほどに顔をしかめて、細い腕が震えている。生まれたての小鹿のように見えるが、それは明らかに始まりの景色ではなかった。最後の、最後の力を振り絞っている。「ちゃんと。立つから」筈華は立った。


 両手をべったりと卓球台につけ、肩に体重を乗せている。いつまで震えていられるか、その腕は今にも折れそうだった。筈華の顔には薄っすらと笑みが浮かんでいて、その震えが止まることを確信しているようだった。


 止まっているようで動き続けている時間の中で、僕らはただ震え、立ち上がろうとする筈華を眺めている。隣の卓球台にいる水落や野茨さんもすっかり手をとめている。というか、一度もピンポン玉がはねる軽い音はしてこなかった。


 そう。見ているだけだ。僕も、水落も、野茨さんも。ただ見ているだけなのだ。手を差し伸べてあげればいいじゃないか。あの細い枝のような腕に任せていいのか。あんなにも苦しそうな顔をしているのに、どうして止めない。


 筈華の左腕が関節からガクッと折れた。ガンっ、と肘をつく音が響いた。誰も、足を一歩すら前に出さなかった。誰かの鼻をすする音が響くが、それが誰の者かはわからない。僕らは誰も泣いていないのだから。ただ、ただ、突き放すような冷たい視線で筈華を見ている。


 もう一度、筈華の左手がまっすぐ伸びた。肩に体重を乗せて、大きく息を吐いた。


「待っててなあ。絶対に行くからさ。置いてかないでくれよ。俺だってさ、大人になりたい」腕の震えはピタッと留まった。「るかも、結衣も、茨も、嫌がるだろうけどさ。俺は大人になりたいよ。二十歳になる前に病気になって、酒なんて飲んだことがない。二十歳になる前に飲む酒は、意味がないんだ。なあ、お前らはさ。これから何をして生きていくんだ? 結衣とるかは大学生活を後二年弱。茨は、この島を出るのか。その後は? るかと結衣は結婚したりするのか? できるだろ? 年齢的には。子どももできるかもしれないなあ。信じられるか。子どもだぞ。子どものままだと思っていた俺たちも、気づけばそういう年だ。子どもが生まれたら、俺にも抱かせてくれるか? 茨は、そうだなあ。こんなこと言いたかないけど、前に言ったことは忘れていい。俺以外の誰かと、結婚するのかなあ。子どもが生まれて、いつかその子どもも大人になって、俺たちはじいちゃんばあちゃんだ。知らないさ、その過程は。知らないさ、社会の味なんて。そこに行って、それこそ死んだように冷たくなる人がいるだろうよ。現に死ぬ人だっている。でもさあ、俺は病気になった後に、るかに出会ったんだぞ。まだ、出会ってから一か月も経ってないんだぞ。なあ、大人になって、俺の場合は病気になって、冷えたさ。そりゃあ。でもなあ、それでも茨がいて、結衣がいて、おじいちゃんがいて、るかと出会った。これからだろ。俺たちは。母ちゃんは俺を産んで死んだ。俺が母ちゃんを殺したんだ。命を、もらったのに。父さんは、俺が嫌いだったんだろうよ。殺したんだもんな。おじいちゃんは、俺じゃなくて父さんに同情したんだ。だけどな。そんなこと、何も気にならないんだよ。だから死ぬんだとか、そんなくだらないこと言わないよ。罪悪感を感じたことなんて一度もない。生きたいさ。言ったよな、るか。永遠に続けばいいなって。お前だってそう思うんだろ? いろんなもんを見透かして、理解した気になって、失望したような顔するお前も。優しいだけなんだよ、るかは。死にたくなんてないさ。どうにかしてくれよ。るか。でも、できないだろ。わがままだから、生きたいけど、島からも出たくないんだ。管につながれたまま長生きするなんてのもまっぴらだ。なら、死ぬよ。うん。だけどさ、知っていてほしいんだ。るかが、茨が、結衣が、これから生きる時間は、俺が生きたかった時間なんだ。どうか大切にしてくれ、その時間の価値を見失わないでくれ。捨てるような真似は、絶対にしないでくれ。お願いだから。俺を少しでいいから認めてくれ。認めたままでいてくれ」


 僕は、大きく息を吐いた。筈華を真っすぐ、瞼の中にそのまま飲み込んでやろうかと、そのくらいの意志を持って見た。


「そんな女々しいこと。言わないさ。俺は」筈華は卓球台から手を離した。ふらつくこともなく、筈華と僕の目線は同じ高さになった。「今言ったことは全部忘れていい」


 ああ。筈華はそう言うだろうね。


「忘れていいの? 本当に」煽るように僕は言った。


「るか。簡単なことさ、今を愛せばいい。ただそれだけでいいんだ。嘆くな、みっともないぞ」筈華は楽しそうに笑う。「涙を拭け」


 筈華は、確かにそこにいる。幽体なんてちゃっちいものじゃない。立っているのだ、笑っているのだ、ラケットを握って、僕が打つ球を待っているのだ。あの筈華が。


 冗談はよしてくれ。


 縁起でもない。


「そういうの、僕はあまり好きじゃないよ」

「ああ、それでいい。友達は、待ってくれる奴だけどな、親友は信じて置いていくような奴じゃないと」

「僕は、君が待てと言ったらいくらでも待つのに」

「無理だよ、るかには。俺が一点でもとったら。一緒に酒を飲もう」

「わかったよ」僕が打った弱いサーブを、筈華は打てなかった。空ぶって、ラケットに体を引っ張られるように卓球台に乗り上げる。ラケットが卓球台に当たる音が響く。


 筈華は、ゆっくりと、抜け落ちそうな床を歩いているかのようにふらふらと、それでいて確かに強く足を進めていた。一歩一歩、転がるピンポン玉に向かって歩く。掴んだ。「俺がサーブで良いよな」


「うん。ハンデをあげないとね」


 カンッ。という音がした。


 筈華が打った弱弱しいサーブは、僕のコートの上で二回跳ねた。


「約束だからな」

「わかってるよ」

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