どうして、書こうと思ったのだろう

 鈴虫の鳴き声が聞こえる。真黒さんと水落。この場合はどちらで言えばいいのだろうか。まあ、結衣でいいか。真黒さんと結衣は下の階でそれぞれ自由に過ごしていた。結衣はソファーでテレビを見て、真黒さんはお風呂に入っている。僕は二階に上がって、ベランダに出た。


 海は真っ黒だった。昼間はすごく綺麗な青だったのに、不思議だ。砂浜では、小さな光が消えてはまた光っている。おそらくは、あの大学生の集まりが花火でもしているのだろう。光が移動した。一人で動いているようにも思えるが、実はその花火を誰かに向かってあてようとしているのかもしれない。逃げている人がいるにしても、真っ暗で光以外は何も見えなかった。うーん、不思議だ。こういう何気ないことの方が不思議でならない。僕は今ベランダで、鈴虫の声を聞いているが、あの砂浜の光はきっと誰かと話していて、遊んでいる。それは僕には見えなくて、あの光は僕に見られているなんてことを一ミリも考えてはいないだろう。うーむ、不思議だ。


 カリカリ、と後ろでガラスに硬いものが当たる音がした。振り向くと、ラルフが爪で掃き出し窓をひっかいていた。


「出たいの?」僕が腰を低くしてラルフに話しかけると、ラルフはひっかくのをやめて僕の目をジッと見た。


 掃き出し窓を開くと、ラルフはてくてくとゆっくりベランダに出てくる。急に飛び上がってベランダの柵に乗った。心臓が飛び出るかと思ったが、ラルフは何事もなかったように柵の上でニャーと鳴いた。


 まったく。暢気なんだから。


 ブー、ブー。と腰の辺りでスマホが震えた。ポケットからスマホを取り出す。まきからの電話だった。僕に電話してくる奴と言ったら、まあこいつくらいだ。


「もしもし」まきの声だ。

「はーい」

「るか、インターンどこ行くんだ? 同じところあったらと思ってな」


「あー。インターンねー」周りの空気が途端にまずくなったような気がする。心地よかった鈴虫の鳴き声も聞こえない。「ねー」

「今どこいるんだ?」

「えの島。江の島じゃないよ」

「どこだそれ?」

「小さな島だよ。結衣の実家? 故郷? 的な」

「どのくらいいるんだ?」

「一か月」


「はあ」どでかいため息が聞こえた。部活の顧問に説教されているような気分になった。「まき、やけどは? もう大丈夫?」少し上ずった声が出た。

「ああ、もう包帯もとれた。てか学校でももう包帯外してただろ」呆れたようにまきが言う。

「そうだったっけ」鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。砂浜で、大きな光が突然現れて、大学生たちの歓声が聞こえたような気がした。「今からでも間に合うところあるかな。インターン。今月中は行けないし、行く気もないけど」


「そりゃあ、ないってことはないだろ」

「どっかいいところある?」

「知るか。そんなの自分で探せ」

「はは」乾いた笑みがこぼれる。「確かに」

「なんで、そんなに嫌がるんだ?」スマホから、カラカラと窓を開いた軽い音が鳴った。「俺にはわからない」

「意味のないことがしたい。世のため人のため、世の中に必要とされてる仕事なんて、したくない」電話の奥から、声は返ってこない。「こんなこと、あんまり言うもんじゃないのかもしれないけど、結衣の幼馴染が、まあいるんだよこの島に。僕も仲良くなったんだけど」

「うん」

「死ぬんだよな。病気で」

「まだわかないだろ。生きてるんだろ?」心底理解できないといった様子で言ってきた。表情が見えるわけじゃないから予想だけど、きっとあいつは顔を歪めてる。


「安心した。用は済んだ?」背伸びをしながら、腹の底から声が出た。

「まあ、済んだな」

「そっか。おやすみ」まきの返事を待たずに通話を切る。


 スマホがまた震える。危うく落としそうになった。


「明後日、空いてるか?」父からのメッセージだ。

「今ちょっと旅行に出かけてるから」

 数分してから、またスマホが震えた。「まだ帰ってこないのか?」

「今月は帰ってこない」


 五分後に、また震えた。「長いな」


「友達のところに泊めてもらってるから」


 十分後。「そうか。連れていきたいとこがあったんだけどな」


「でも、すぐ帰れるようなところじゃないし」


 三十分くらい経って、またスマホが震えた。「そうか」


 スマホをベランダから真っ黒な海に向かって投げた。そんなことは、しなかった。

「はあー」がなり声のようなため息を出す。柵に腕を乗せて、そこに全体重をかける。視線の先には、僕の足があった。

「なーに、うなだれてるんだー?」視線の先に、白い雪のような光がフワフワと飛んでいた。顔をあげて隣を見た。

「なんだ、筈華か。相変わらず暇なんだね」

「ああ、暇だね。だから、おじいちゃんのところにいつも来てるんだ」

「寝てればいいのに。病気でしょ? 君。しかも死にかけの」スマホをポケットにしまう。「幽体離脱してる間、体は寝てるからな。つまり俺は今寝ている」

「便利だね」そういえば、もうずっと砂浜の辺りが光っていない。もう帰ってしまったのだろうか。「それにしても、今日はお客が多い」


「お客にお客が来たのか?」筈華は目を真ん丸くしている。

「確かに、僕はお客だけど」筈華は大げさに笑う。僕も疲れたような笑みを浮かべた。筈華が死にかけで、僕は至って健康だとはとても思えないな。それ以前に、筈華は幽体なのだけれど。

「筈華、もう来てたのか」後ろから声がした。真黒さんの声だ。僕が筈華と会話をしていることに驚いた様子はない。「結衣は寝ちゃってたよ」僕に向かって言った。

「水落、お酒あんまり強くないですからね」

「その呼び方、何か結衣に言われているの?」真黒さんが面白そうに聞いてきた。筈華は首をかしげている。


「なんか、二人でいるときは結衣で、他に人がいるときは水落って呼ばれるのが気持ちいいらしいです。これを守らないとろくに話もしてもくれない」真黒さんと筈華は大声で笑った。筈華は僕の肩をバンバンと叩いてくる。「そんなに面白いですか?」隣にいるラルフを撫でた。


「ラルフは、るかに懐いたんだね」真黒さんが言った。筈華はまだ腹を抱えて笑っている。

「この子、今何歳なんですか?」

「さあ、もうずっと一緒にいるからね。るかよりも年上かもしれない」真黒さんが顎を触りながら言った。

「ラルフは俺が小さい頃から遊んでくれたよなー」筈華はラルフの頭をがしがしと撫でていた。ラルフは目を細めて、気持ちいいとも嫌がっているともとれるような表情をしている。

「真黒さんはいつからこの浮く絵を描いてるんですか?」


「あ、それ俺も知らない」筈華がラルフを撫でながら視線だけを向けてきた。

「いつからだろうなあ」真黒さんはまた顎を触りながら言う。顎を触るのは真黒さんの癖なのかもしれない。「描けた時は覚えているけど、それがいつだったかは覚えてないなあ」

「驚いた?」筈華が聞いた。

「驚いたというよりは嬉しかったな。私がこの不思議な絵をこの世界の中で描いたということだけで、この世界はちょっぴり気の抜けた不思議な世界になるような気がしてね。それが嬉しかった」

「俺も、幽体離脱できた時は嬉しかったなあ。楽しいし」筈華はラルフの背中に顔を埋めた。ぐりぐりと顔を押し込んで、ばっと顔をあげる。「一番安心したのは、こういうことができるようになっても何も変わらなかったことだな」


「そりゃあそうでしょ。もとからそういう世界だもの」真黒さんと筈華は僕の方を向いた。横目で二人を見て、僕は海に視線を向ける。「筈華は何かやりたいことないの? もうすぐ死ぬんでしょ?」

「るかは、デリカシーが圧倒的に欠落しているね」真黒さんは面白そうに笑う。

「怒らない真黒さんだってあんまり変わらないでしょ。筈華のおじいちゃんじゃないんですか?」

「確かにそうかもしれないね」真黒さんは楽しそうに顎を触る。


 筈華は大笑いをした後、僕の肩に手を回してきた。体温は感じられない。「やりたいことなんて腐るほどあるぞ。まずは、そうだなあ。結婚したいな、それに子どもも欲しい。酒も飲みたいな、まだ飲んだことないんだよ。それに、海外にも行ってみたいな、ロードバイクで馬鹿みたいなスピード出してみたいな、あれ車並みにスピード出るって知ってたか? スカイダイビングもしてみたい、空を飛ぶってのはどんな感じなんだろうな、この身体じゃだめだスリルが足りない。あとはー、あっ、俺ずっと読んでた漫画があるんだけどよ、あれ後三年くらいで終わるって作者が言ったんだよ、俺は生きてねえなあ」


「そんなの、手のひらに収まらないじゃないか」僕は笑いながら言えたと思う。

「いいか、筈華」肩に回した腕にぐっと力が入った。「都合よく考えるんだ。都合よく」

「すくうものじゃないね。さっき言ってたものは、全部」

「よくわかってるじゃないか」筈華は眩しいくらいの笑顔を僕に向けてきた。


 だから、なんだというのだろう。


 真黒さんは、僕の頭に手を置いた。すごく優しくて、温かった。



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