愉快と言える愉快さを

 大学での話、バイト先での話、普通の大学生同士のような会話を一時間ほどした後、僕と結衣は筈華の病室を後にした。外はまだ明かるかったけれど、日差しの色が濃くなっている。


「ちょうどいい時間だね」結衣が言った。

「そうだね」僕も同意する。

「ああ、そうじゃなくて」結衣が笑いながら首を振った。「真黒さんのところに行くんでしょ? アトリエから見える夕焼けが綺麗なんだ。海が真っ赤に染まるの」


 船着き場を通り過ぎて、旅館に行く坂も通り過ぎて、その先にある坂を上る。自転車では到底上ることができなさそうな急坂だ。というか、お年寄りばかりのこの島にこの坂を登れる人が果たして何人いるのだろうか。十分くらい歩くと右斜めの方向に斜面から突き出た木造の家が見えてきた。ベランダは空に浮いているように見えて、柵には透明なカラスが留まっている。透明なのに、やけにはっきりと見えるのが不思議だ。


「こんなところに住んでるの? 真黒さん」

「そうだよー」

「この坂、きつくないのかな」少し息をあげながら言う。汗が滲んできて気持ちが悪い。

「流石に車だよ。真黒さんだってもう年だからねえ」結衣は楽しそうに笑った。

「結局一週間もかかっちゃったなあ」一歩一歩坂を上る。「顔出しなって言われてたのに」なんとなく気まずいような、歯に食べ物が挟まったような不快感がある。

「大丈夫だよ。真黒さんは気にしない、気にしない」


 結衣は雑草がはげた道に入っていく。道を作ったというよりは人が歩き続けた結果自然にできた道のように見えた。木々が壁のように立ち並ぶ中に入ると途端に場所が開けた。少し離れたところに木造の建物がある。その隣には黄色の軽自動車がとまっていた。


「あそこ、真黒さんのアトリエだよ」木造の建物を指さしながら結衣が言う。

「アトリエってさ、家ではないってこと?」今更ではあるが。

「そうだよ。でも私が産まれた時にはもう真黒さんここに住んでし、もう家みたいなもんだよね。たまに本来の家の掃除に帰ってるくらいかな」


「へー」真黒さんのアトリエが近づいてきた。黄色の軽自動車はどうやってここまで入ってきたのか思ったが、少し歩くと真黒さんの家から右、僕たちから見て左方向に木々が開いている部分があった。あそこから入ってきたのか。


「真黒さーん」ブラウン色の立派な扉をコンコンと叩きながら結衣が言った。「るかくんと結衣が来たよー」


 数秒経ってもアトリエの中から声は聞こえてこない。風に揺られた木々のこすれる音だけが聞こえてくる。耳を澄ますと途端にセミの鳴き声が聞こえてきた。扉が突然開く。足音は聞こえなかったけど。扉は少しだけ開いて、バタンとまた閉じた。足元の方に意識が集中して視線を向けると、薄い赤と水色と黄色の縞模様の身体を持った猫がいた。


「あ、ラルフだ」結衣が僕の足元の方を見ながらそう呟く。

「ラルフ? この子の名前?」

「そうだよ」

「じゃあ、あのカラスにも名前があるの?」ラルフは僕の足首の辺りに顔をこすりつけている。感触が動物のものとは思えないほどに軽い。「かわいい」思わず声が漏れた。

「えっとお、パレット、かな」結衣は首をかしげながら言った。「でもみんなあの子だけはカラスって呼んでる」

「どうして?」

「真黒さんがそう呼んでるからかな」ラルフは突然僕らの腰のあたりの高さまで飛び上がり、扉のドアノブに手をひっかけて扉を開いた。ドアノブに引っ掛かったまま、ずーっ、と扉を広く開く。地面に降りると僕らの方を向いて、ニャー、と鳴いた。声は猫そのものだった。


「じゃあ、入ろうか」結衣は閉まろうとする扉を手で押さえながら言った。

「入っていいの?」ラルフは扉の中から僕らの方をじっと見ている。

「真黒さんはどうせアトリエの中にいるよ。いつもそうなんだ、出迎えてくれるのは真黒さんが描いた浮く絵の誰かだよ」


 玄関で靴を脱ぐ。なんだか独特な匂いがしてきた。絵の具の匂いだろうか。人二人分くらいの幅がある廊下は、様々な大きさのキャンバスが立てかけられたり積まれたりとしているため一人がちょうど通れるくらいの幅になっていた。見える範囲のキャンバスはすべて白紙だ。


 結衣についていき、階段を上る。ラルフも飛ぶように階段を駆け上がっていく。二階の廊下を進み、広い部屋に出た。そこは夕陽の光を受けてオレンジ色に染まっている。入り口に立つ僕は、部屋の真ん中で背もたれのない木製の椅子に座りながらキャンバスと向かい合う真黒さんと、開ききった掃き出し窓の奥のベランダの柵に優雅に留まるカラスに見惚れてしまった。それ自体が一枚の絵画のような神秘的何かを思わせる。その何かとは。さあ、なんだろう。


「るかに結衣、いらっしゃい」真黒さんがこちらを向いた。逆光のせいで表情が見えない。


 今気がついたが、真黒さんの持つ筆には絵の具もついていなければ、濡れてもいない。ふさふさのままの筆だった。


「何してたんです?」真黒さんと会うのはまだ二回目なのにもかかわらず、自然と言葉が出た。

「ん?」何を問われたのかわからなかったのか、上ずったような声だった。

「筆に何もついていなかったので」

「ああ、よく見てるね」真黒さんはふさふさの筆を優しくキャンバスにあて、ゆっくりと動かした。もちろんキャンバスには何も描かれない。「本当はね、筆に絵の具をつけて好き放題描きたいんだけど、いかんせん僕の絵はやんちゃでね。悪戯に生み出し続けるということもできないんだ」ほら、と真黒さんは僕から見て左の方を指さした。


 そこには、沢山の浮く絵があった。いた、と言った方がいいかもしれない。パンダのような模様をした青とピンクのウサギ、縞模様の壁紙と同化した豚やごつごつとした宝石のような肉体を持つ蛇。それ以外にも、ネズミや手に乗るくらいの大きさの象、羽を必死に動かしてもピクリともその身が宙に浮かない鳥など様々だ。キャンバスに描かれた黄緑色の犬は、丸くなって目を閉じていた。休憩中だろうか。そのキャンバスに向かって、いつの間にか見失っていたラルフが飛び込む。黄緑色の犬は驚いたように跳ね起きて、そのままキャンバスから出てきた。入れ替わるように波打つキャンバスにラルフが入る。丸まって、何事もなかったようにラルフは大きくあくびをして、目を閉じた。


「愉快なアトリエですね」真黒さんに向かって言う。

「るかも愉快だ」


 浮く絵が戯れるところを静かに眺めていた水落は視線をベランダの方に向けて歩き出した。「るかくん、これだよ。綺麗でしょ?」カラスが留まる柵に腕をぺたっと置きその上に顎を乗せる。


「いい時間に来たね」真黒さんが言った。真黒さんの前に来て、初めて真黒さんの表情が見えた。目を薄くして、気持ちよさそうに夕陽に焼かれている。

 

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