情緒とは過程、退屈に行きつく

 靴を脱ぎ左側にある木造の下駄箱に入れる。フロントを横目に歩くと、木の床が真っ赤な床に変わった。ふかふかとしていて歩くたびに少しの反発が来る。なんだか高級そうな、床の色と合わせたのかこげ茶色の木の部分以外は真っ赤なクッションを纏っている椅子が沢山あった。四つの椅子が低く小さな机を囲むように置かれている。それを一組と数えると、四組あった。その一つにこの島に来てからは初めて見る鮮やかなミルクティー色の髪が見えた。背を向けて椅子に座っていた彼女は足音に気づいたのか僕らの方を勢いよく振り向き、目を大きくして走り寄ってくる。


「結衣っ、久しぶりっ」そう言いながら水落に抱きついた。


「茨?」水落は頬をかすめるミルクティー色の髪を横目で見ながら、女性のうなじあたりに弱弱しい声を落とした。抱きつかれて胸のあたりが圧迫されていたのだろう。細く高い声だった。


「そうっ。久しぶり」ばっと水落の両肩を持って顔を水落から離した。抱きついていた時はぐっと力を込めた腕と一緒に目を瞑っていたからわからなかったけれど、目の色素が薄い。澄んだ茶色だ。化粧のせいかと思っていたが、やけに白い肌も生まれ持ったものなのかもしれない。


「おー。久しぶりー」

「あれ。嬉しくない?」

「だって、急に抱きつかれてびっくりしたよ。顔も良く見えないままだったし」

「ありゃ、失敗か」わざとらしくコンと頭を叩いた。「そちらの殿方は?」


 殿方。そんな呼び方をされたのは初めてだ。


「るかくんだよ。大学の同級生」

「初めまして、るかです」軽く頭を下げる。

「黒百合野茨です。みんなからは茨って呼ばれています」

「茨?」

「野茨って言いにくいでしょ?」

「野茨」軽く口に出す。「まあ、確かに」


 僕がそう言うと、野茨さんは面白そうに笑った。絶対にこの人のことを野茨と呼んでやろう。


 野茨さんは水落を肘で小突きながら小指を立てている。緑のワイドパンツにグレーのノースリーブニットという若者らしい、僕らと同年代なら大人っぽい方かもしれないが、そういう服装なのに仕草がどこかじじ臭い。その仕草をアメリカでやったら侮辱にあたるということだけ言っておこう。あと、小指は女性を指すから、僕に対して使うのは少し変だ。


「茨は筈華くんのところ行ってると思ってたよ」

「今日はまだ行ってないよ。結衣が帰ってくるって聞いてたし。一緒に行こ」

「うん。るかくんも一緒にいい?」


「いいよ。筈華も男友達ほしいって言ってたもんね。だから連れてきたの?」真黒さんと同じ質問をしている。筈華、という人は沢山の人に愛されているんだな。水落に、野茨さんに、真黒さん。十分すぎるだろう。果たして、僕は必要だろうか。そもそもなんで、僕はこの島に来たのだろうか。


「そ。あとね、カラスが見えるから」


「あー」とわざとらしく横目でこちらを見ながら小指を折って伸ばしてと繰り返す。運命の人、とやらの言い伝えが思い浮かんだのだろう。


「いらっしゃい」と背中の方から声が聞こえた。ねっとりとした、年を重ねた女性の声だ。振り返ると桃色の浴衣を着た女性が立っていた。


「るかくんね」薄っすらと笑みを浮かべる。笑うと少し、水落の面影が見えた。


「あ、はい」

「小さな部屋だけどゆっくりしていってね。筈華くんのことも、よろしく」ゆっくりとした口調だった。なんなのだろう。この、僕に対しての期待は。「結衣、これるかくんの部屋のカギだから案内してあげて」

「はーい」


「じゃあ私はここで待ってるから、色々諸々終わったら、筈華のところ行こうよ」野茨さんはどかっと椅子に座る。また、じじ臭い。

「るかくんこっちだよ」


 水落に案内されながら、真っ赤な床のロビーを出て、木の床を進み階段まで行く。

 水落は下の階に続く階段を指さして「下は温泉だよ」言った。「本物じゃないけどね」


 本物ではない、とは源泉掛け流しではないということだろうか。僕は温泉にもあまり詳しくはないので、源泉掛け流しというものが具体的にどんなものなのか説明できるはずもない。もちろん、それとそれ以外の違いも判るはずもない。つまりは、何でもいい。


 階段で二階まで上がる。キャリーケースを抱えて登るのは結構きつい。


 二階の隅にある部屋が僕の部屋だった。扉を開けると畳の匂いがしてくる。水落のお母さんは狭いと言っていたが、一人で使うには十分すぎる、というかおそらく一人用の部屋ではない。


「いいの? こんな部屋使って」

「いいのいいの。そんなに大きな旅館じゃないけど、それでも部屋が満室になるなんてまずないから。来週、団体客が入ってるのは奇跡だよ」なぜか胸を張って水落は言う。


 笑っていいのかわからなかったがとりあえず笑っておいた。部屋の説明を水落にしてもらう。といってもテレビは好きに使っていいよとか、浴衣も自由だからとか、そんなような説明だ。


 説明を終えると「よし」と口に出して部屋の玄関の方へ歩き出した。「じゃ、私は行くから。ごゆっくり」


 そう言ったはいいものの、スリッパどっちだっけ、とスリッパに入れようとしたぴんと伸びた右足のつま先を空中で右往左往させている。「どっちでもいいか」


 結局僕が履いてきた方のスリッパを履いた。


「私は少し離れたところにある別館に住んでるから、大体はそこにいる。何かあったら呼びに来てね」

「スマホ使えばいいじゃん」

「私をそんな奴隷みたいに扱うの?」

「奴隷って、まあ確かにちょっと乱暴か。わかった、何かあったら呼びに行くよ」

「うん。じゃ、さっきのロビーで待ってるね。ちょっとゆっくりしてからでいいよ。私も久しぶりに茨と話したいから」


 バタンッ。ガタンッ、だったかもしれない。扉がしっかりと最後にカチャっとなるのを見てから、部屋の中へ戻る。畳の部屋には大きな机とその周りを四つの座布団が囲っている。机の上にはポットと緑茶のティーバッグ、一粒一粒小分けになった干し梅がが置かれていた。干し梅のパッケージには毛筆で書いたような字で合掌とプリントされている。なぜ合掌なのだろうか。合掌でもして梅の種を抜いたのだろうか。きっとそうに違いない。


 干し梅を一粒口に入れた。久しぶりに口に入ったものが中々刺激の強いものだったからか口の中がぎゅっと締まるような感覚がした。この梅は甘いやつだ。酸っぱいのは最初だけ。断っておくが、これも水落に自由に食べていいと言われている。茶飲みを一つ手に取ってお湯を入れた。ティーバッグをお湯の中で弾ませて色を出す。じっと待つのが良いらしいけれど、どうせ味の違いなどわからない。ずず、とお茶をすすった。クーラーで冷えた身体が芯から温まる。内心実は緊張していて、気づいたときには体の芯まで冷やされていた。


 数十分くらいは、こうしていようと思う。水落は野茨さんと話したいと言っていたし、積もる話があるのだろう。


 一人ポツンと旅館の立派な一室に取り残され物寂しくなる、なんてこともなく、緑茶の温もりとこの畳の匂いを満喫する。口に入れた緑茶を飲み込まずに、口の中で転がす。無意識に手の肉刺を触っていた。数秒か数分かして気がつく。口の中の緑茶は生温くなっていて、飲み込んだ時の感触は少し不快だった。通学のために乗っている自転車で肉刺ができるなどそれはそれで滑稽な話ではある。自転車で通学するようになったのは大学三年からで、肉刺ができるなど小学校以来だ。あの頃はやけに鉄棒に嵌っていたな。プロペラやらグライダーやらを必死になって練習していた。今、同じことができるかと言われたらきっとできない。無駄だと思ってしまう。かといって有益な時間とは何なのかと問われても、答えなど持っていない。まきにその質問をされたら、間違いなく死ねと暴言を吐く。


 気づけば三十分経っていた。こんな無駄な時間はないなと、そう思った。立ち上がろうと片膝ついて、視線を前に向ける。


 


 机を挟んだ反対側、ニヤニヤと胡坐をかいた同年代くらいの男性だ。いや、少し上かもしれない。


「誰ですか?」


 自分でも驚くほど冷静な声だった。その声がなぜか離れたとこから聞こえたような錯覚を覚えたから、きっと心の底は冷静ではない。沸々と焦りなんかが煮えたぎっていると思う。沸騰して立ち上る湯気が、まだ僕自身に届いていないというだけだ。


「見えるの?」窺うような声。目を丸くする彼は、病衣を着ていてチラつく腕や足は異常なほど細い。


「なんだ。幽霊か」


 もっと恐ろしい見た目だったり、停電やポルターガイストなんかを起こした後に現れればよかったのに。ただ、現れただけであるならば、人や動物と何も変わらない。湯気は、僕に届く前にどこかへ行ってしまったようだ。


「君が、るか?」目玉が飛び出そうなほど目を見開いたまま、幽霊がそう言ってきた。こけた頬も相まって本当に目玉がぼろっと落ちてきそうだ。


 また。湯気は僕に届いてこない。名前を呼ばれたことには、確かに驚いたと思うのだけれど。


「そうですが、あなたは?」


「俺は筈華。月居筈華。結衣から聞いてない?」


「死人だったんですか? あと、月居って」


「知ってるってことだよね。違うよ。おじいちゃんの浮く絵は知ってる?」筈華さんは、胡坐の格好でヤジロベーのように揺れている。「あー、あとおじいちゃんと名字が違うのは単に真黒という名前が雅号ってだけだよ」


 なるほどと頷く。「カラスとカエルは見ました」


「おじいちゃんに魔法みたいなことができるなら、孫の俺にもそういうことができると思わない?」

「そうなんですか?」

「んー。俺もそんなこと思いもしなかったんだけどさ、病気になってしばらくしたらできるようになったんだよね。幽体離脱って言うのかな?」

「すごいですね」


「でもさ、みんな見えないんだよ。俺のこと。見えるのは、おじいちゃんだけだった。まさかるかが見えるだなんて思いもしなかったよ。すげー嬉しい」病人の笑顔とは思えなかった。目に涙が溜まる。絶対に垂らしてたまるかと思った。


「それは、見ようとしてる人にしか見えないっていうことですか?」いつか水落が言っていた真黒さんの浮く絵と同じなのだろうか。


「それがちょっと違うんだよね。見ようとしてる人にしか見えないってさ、逆に言うと見ようとすれば見えるってことなんだよね。だから、あそこに透明なカラスがいるよ、ミサンガつけてるよ。って教えてあげれば誰にでも見えるんだ。黒いカラスがふうっとおじいちゃんが描いたカラスになる。何も言われないで見える人は少ないけどね」


「あー、そうなんですね」まきに今度やってみようと思ったがやめた。きっと教えたって見えない、あいつは。


「でさ、るかはどのくらいこの島にいるの?」顔を突き出して聞いてきた。


「僕のこと聞いてたわけではないんですか?」

「ロビーで茨と結衣が話してるの聞いてさ。るかの話してたからそこで聞いたんだよ」

「なるほど。幽体離脱でやりたい放題してるんですね」

「そんなことしないよ。会話を盗み聞くくらいかな。面白いんだ。結衣、るかの話ばっかしてたぞ」

「そうですか」

「ニヤニヤすんなよ」

「してないでしょ」筈華さんはゲラゲラと笑っている。明らかに笑いすぎだ。

「はー」目尻の涙を人差し指を折った角で拭っている。「まあいいや。で、どのくらいいるの? 二日? 三日?」

「一か月ですよ」

「そっか」唇をくねくねと動かした。「結衣、連れてきてくれたんだ」


 水落には何度かなんで一か月なのかという質問をしたことがあるが、筈華くんに聞きなよ、と毎回躱されていた。一か月という期間は僕にとっても都合がよかったから、特に問題はなかったのだけれど、それでも少し気になった。筈華さんは、明らかに何か知っているような反応をしている。今度は、しっかりとした涙が頬を垂れた。幽体でも涙は出るのか。今更そう思った。


「なんでか理由知ってます?」

「俺がずっと前に言ったんだよ。結衣が島出るときにさ。一か月あれば、誰とでも親友になれるって。ずっと島にいて、男友達なんてできたことなかったからな。連れてきてほしいって」

「僕は、必要ですか?」

「ああ、俺はるかがいい。少し話して、そう思った。結衣が連れてきた時点で疑う必要なんてないよ。それに、来てくれること自体が、すごいことだ」

「随分と信頼してるんですね」


 また。筈華さんは足をバタバタとして笑った。


「何ですか?」

「安心しな。俺が好きなのは茨だけだから」

「よくそんな台詞言えますね。普通にキモイ」

「ああ、キモイなあ。でも、それだけだ」

「そうですね。それだけです」立ち上がる。「そろそろ僕行きますね」

「なんだ、もっと話そうよ。俺とるかはこれから親友になるんだから」

「筈華さんのところに行こうって言ってたんですよ。野茨さんと水落と」

「おー。そうか。じゃあ待ってるよ。あと、これからは敬語なしな。親友になるんだから」湯気みたいに、筈華は消えていった。


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