鮮明なのは今だけで

 生憎の雨、というわけでもなかったのだけれど気分的な理由で今日は大学へは電車で来ていた。大学を出て、水落と並んで駅までの道を歩く。駅までは徒歩で数分といったところだ。細い歩道の上で大学に行く人と大学から帰る人の行列が集団行動のように綺麗にすり抜けていく。というわけもなく、右へ避けようとしたら対面する人は左へという風に、小さな事故が起こっていた。そんな景色を二車線の道路を挟んだ反対側の歩道から眺める。なぜかこちらの道に来る人は少ない。


「テスト勉強はしてる?」

「まだしてないよ」

「私もしてない。これからもしない。卒業したらどうせ島に帰るし」

「卒業できなかったら意味ないじゃん」

「そうなんだけどさ」

「ていうか、島に帰った後はどうするの?」

「うち旅館だから。手伝うかな」


「あ、観光客の人は来るんだ」てっきり社会の外にあるような島だと思ってた。そんな島は流石にないか。何も知らないけど。


「そりゃあね。島に住んでる人たちはお年寄りばっかだからいつかはみんないなくなっちゃうけど、観光地としての価値は多少は残るかなあという安易な考えです。海も綺麗だし」


「そうですか」


 二、三歩歩いて水落が「あ」と声を出す。


「そういえばさ、るかくんインターンシップ行かないの?」

「なんで?」

「夏休みでしょ、大体。インターンシップがあるのって。一ヶ月も島に行っちゃってさ」

「行かないよ。インターンシップなんて、理由があれば」

「拗らせていらっしゃる」

「拗らせてるからカラスが見えるんだよ」

「確かに」


 駅に着き、改札を通る。水落とはバイト先が同じなだけあって、乗る電車も同じだった。


「私この後すぐバイトだ。るかくんは?」

「僕は入ってないよ」つり革を掴みながら言う。水落は座席の隅にポツンと座っていた。座席はガラガラだ。

「るかくんバイトあんまり入れてないよね」

「うん。週に二日とか」

「私なんて五日も入れてるよ」


 僕が降りる一つ前の駅で水落は電車を降りた。水落が座っていた、今はただの空っぽな座席を眺めながら電車に揺られる。


 改札を出て、そのまま右に歩くと、開けた場所に出る。広場、と言えばいいのだろうか。制服を着た高校生がベンチや人工芝の敷かれた場所で駄弁っている。路上ライブをしている同年代くらいに見える女性が気になった。前を通る高校生やスーツを着た働き盛りくらいに見える人たちは、横目で一瞬それを視界の隅に捉える程度で足は止めない。スマホを操作しながら見向きもしない人がほとんどだ。


 僕のいる場所は彼女が歌う場所からはそれなりに離れていて、それなりの人通りがあることも鑑みればあちらから僕を見つけることはできないだろう。近くにあったベンチに腰を下ろし、遠目から、人通りに時々邪魔をされながら眺める。


 薄っすらと聞こえる歌声は、とても綺麗なものだった。聞いていて不快な気は全くしてこない。これなら誰かしら足を止めてもいいと思うんだけど。


 女性は一曲歌い終わるごとに、肩を大きく落として、告白を終えたかのような反応を見せる。それから数十秒、胸に手を置いて遠目からでもわかるほど大きく肩で息をしていた。そしてまた歌い出す。


 一時間くらいは経っただろうか。暗くなってきた空の下で女性はマイクのコードを巻いている。時間的には今からの方がたくさんの人に聞いてもらえそうな気もするが、見ている限り日中以上の視線には耐えられなさそうだ。気をすり減らしながら歌っていたに違いない。それを自身でもわかっているからなのか、単に暗くなったから帰ろうとしているのかはわからないし、どうでもよかった。


 すぐに立ち上がる気にもならず、ぼーっと人通りを眺める。知った顔が数人は通るから少し面白い。


 コードを巻き終わり、あらかたの片付けを終えた女性は、大きなキャリーバッグをガタガタと鳴らしてなぜかこちらに向かってくる。最初は気のせいかとも思ったが、僕の目の前で足を止め僕の目をじっと見られた時にはもう確信していた。明らかに確信するのが遅いが、それほど珍しい体験というわけだ。


「あのっ」


 歌声と同じで話し声にも、すんなり耳入ってくるような柔らかさがあった。


「最後まで聞いてくれてありがとうございました」

「えっと」

「もしかして私の勘違いですか」目がうるうると揺れ出した。

「ああっ、いや、聞いてましたよ。でも、よく気づいたなって」


「なんとなくわかるんです。もう数ヶ月くらいこうやって歌ってますから。この人は聞いてくれてる、この人は路上で歌っている人を見ているだけ、馬鹿馬鹿しいと心の中で嘲る人、とか」段々と声が小さくなっていった。


「すごいですね、僕は?」

「聞いてくれてるし、見てくれる人でした」

「そうですか」なんだかむず痒い。

「なんでずっと聞いてくれていたんですか?」


「なんで。んー。僕にはできないことをしていたから、すごいと思って」嫌味に聞こえないように丁寧に発声した。


「夢があるんですか? 歌手とか」

「夢っていうほどのものはないけど、あなたみたいになりたいとは思います。みんなが舗装された道を歩く横で、怯えながらも川の流れに逆らって泳げる人になりたいなあと」少し恥ずかしい言い回しだったと後になって気づいた。


「きっとできますよ」

「できないですよ。僕は、生きている限り決して目が離せないものが気になって仕方がないんです。足が、動いてくれない」


 十数秒。もしかしたら数分くらい。無言が続いた。彼女は僕の前から動く気配はない。落としていた視線を上げて彼女の顔を見ると、じっと僕の目を見てきた。気圧されて、また視線を下げる。


「最近、時々不思議なカラスが見えるんです。透明な」

「え?」

「あっ。えっと、おかしいですよね。すいません。今日はありがとうございました。良かったらまた、聞きに来てください」


 ペコ、とお辞儀をして彼女は行ってしまった。彼女が見えなくなった頃に、水落が、カラスを見た人がいたら連れてこいと言われている、と言っていたことを思い出した。


 まあ、いいか。


 時間を確認しようとしてスマホを取り出すと、珍しく母からメッセージが来ていた。


「明日、おじいちゃんのお墓参りに行くから」


 祖父が死んだのも、これまた最近だ。最近と言うほどでもないのかもしれないが、その期間を言い表す的確な言葉を知らなかった。

 ああ、三か月前。

 振り回されて、目が回るんだ。本当に。

 死はもっとも純粋な排斥だと思う。

 カラスを最初に死の象徴だなんて言った人は、きっと、誰よりもこの世に適合した人なのだろう。


     *


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