第30話 primary18-1

治験の検診日にメディカルセンターに足を踏み入れるたび、いつも緊張と期待で胸がいっぱいになる。


今日は会えるかな、会えなくても姿を見られるかな。


ソワソワと落ち着かない気持ちを抑え込むように深呼吸するのが常だ。


忙しい市成が、終日社内にいることは滅多にないらしく、会えたらラッキーくらいの感覚でここを訪れている紗子である。


時折彼のほうが、図書館に仕事でやって来ることもあるので、そんな時は率先してフロアに出るようにしている。


書庫に籠っている紗子が、市成に熱を上げていることを知っている磯上が、彼が来訪すると声を掛けに来てくれるのだ。


同僚に片思いが筒抜けになるのは初めてのパターンだし、それをからかわれたり言いふらされたりすることなく、応援して貰えるのも初めてのこと。


紗子の恰好が急に変わった理由を知っている磯上は、やんわりと背中を押してくれているし、職場に味方がいることの心強さを初めて実感している。


だからこそ、完全なアウェーである西園寺メディカルセンターに足を運ぶ時には気合が入るのだ。


自動ドアをくぐり抜けたら、すぐに見慣れたスーツ姿の長身が見えて、思わず飛び上がりそうになった。


今日は間違いなく運がいい。


これから出かけるらしい市成が、エントランスの受付カウンターで、受付嬢と何やら楽しそうに話している。


上品なダークブラウンのスーツをさらっと着こなす彼は、後ろ姿からもうかっこいい。


入館証を受け取るために、受付カウンターに立ち寄る必要があるのはラッキーだった。


市成の姿を目に焼き付けようと殊更ゆっくりと受付カウンターに近づけば。


「いらっしゃいませ」


先に気づいた受付嬢が、にこやかな笑顔と共に挨拶をしてくれた。


もうすでに何度も顔を合わせている受付嬢が、慣れた様子で入館申請書と入館証を差し出してくれる。


それに続いて振り向いた市成が、紗子の姿を見止めて温和な笑みを浮かべてくれる。


「倉沢さん。こんにちは」


ちゃんと彼が名前を呼んでくれて、それだけで天にも昇れそうな気持ちになった。


「・・・こんにちは。これからお出かけですか?」


大急ぎでサインをして、挨拶だけで別れてしまうのが惜しくて、必死に話題を広げる。


紗子の質問に、市成は軽く頷いて見せた。


「ええ。西園寺不動産との打ち合わせで市外まで」


「そうですか・・・あ、この間図書館への寄贈と差し入れ、ありがとうございました。みんなで美味しく頂きました」


ついさっき思い出した追加の話題を慌てて口にする。


西園寺グループが定期的に図書館へ本の寄贈を行ってくれるので、蔵書のラインナップは充実していく一方だ。


そして、毎回スタッフへの差し入れがセットで届けられるため、これを心待ちにしている者も多い。


西園寺の秘書的役割も担っている市成の選ぶ差し入れには定評があった。


毎回女性受けの良いスイーツばかりを贈ってくれるのだ。


彼の人気と評価が右肩上がりな理由もわかる気がする。


いまだって、受付嬢の熱い視線は真っ直ぐ市成に向けられているのだ。


きっと自分も同じような眼差しを向けているのだろう。


どんなに熱心に見つめても、彼から返って来るのは穏やかな微笑みと、労いの言葉だけだけれど。


「それはよかった。同じものをうちの社員にも届けたんですが、まだ感想が聞けていなくて。お店で人気のものを選んで正解だったな」


「あら、市成さん今回のお土産はどちらで?」


「隣町のチーズケーキの専門店でスフレをね」


「ほんとにマメですよねぇ・・・どこで美味しいスイーツの情報ゲットしてるのかしらぁ」


これ見よがしな視線を向けてくる受付嬢に、市成がひょいと肩をすくめた。


「訊けばみんな親切に教えてくれるんですよ」


「訊かなくても教えてくれる、の間違いでしょう?」


「そういえば、きみから教えて貰った午前中で売り切れる水菓子のお店はまだ行けてなかったな」


「行くなら朝から並ばないと無理ですよ。お持たせを頼まれた人が開店前から並んでますもん」


「なるほど、それは結構苦労しそうだ。倉沢さんのお好きなお菓子はなんですか?」


「えっ!?」


急に話を振られて紗子は思い切り狼狽えた。


元より食べることに興味の無い紗子は、この辺りのパティスリーにも和菓子屋にも詳しくない。


茜が届けてくれるお勧めのスイーツを有難く頂戴する以外、自分で調べたりしたこともなかった。


せっかく市成が話題を振ってくれたのに。


「あ・・・あの・・・私、あまりお菓子に詳しくなくて・・・・・・あ、でも、市成さんが届けてくださるお菓子は毎回どれも美味しくて・・・いつも楽しみにしてます・・・あ、いえ、あの、催促してるわけじゃなくてっ」


正解が分からないまま口にした返事は、どう考えても及第点以下だ。


受付嬢の勝ち誇った顔が憎らしい。


こんな時茜だったら、今気になっているお店をいくつも紹介することが出来ただろう。


あわあわと口ごもる紗子に、市成が優しい眼差しを向けてくる。


と、廊下の向こうから紗子を呼ぶ声が聞こえて来た。


「倉沢さん」


有栖川の声だ。


いつもは苦手な彼の声が今日だけは救いの神の声に聞こえた。


「っはい!あ、あの・・・そ、それでは・・・」


彼に向かって返事をして、すぐに市成に向かって軽く頭を下げる。


「次も楽しんでいただけるように、美味しいお店をリサーチしておきますね」


今日も素敵な笑顔で返されて、自分のダメダメ具合にぺしゃんこになった。

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