File2:多情無心『憑かれた男』
最寄り駅から徒歩五分、雑居ビルの一階にある喫茶店が依頼人との待ち合わせ場所だった。人通りの多い商店街のアーチ傍にあるわりには落ち着いた、そして昭和の雰囲気を漂わせる店構えだ。
入店する前に隠は左手首の腕時計で時間を確認した。十時四十五分。約束の時間は十一時だ。余裕をもって到着できて何よりだが、依頼人によってはとっくに来ていて遅刻したわけでもない隠に非難の目をうっすら向けるということもなくはない。
「まぁ今日は大丈夫そうだけどな」
独り言の後に『OPEN』の札が下げられた扉を開けた。入店を知らせるベルが鳴る。店内の照明は控えめで、快晴の外とは明るさになかなか差があった。
「いらっしゃいませ」
扉近くのレジに立っていた店員が挨拶してくれる。席は自分で選んでいいらしい。隠は暗さに慣れてきた目で店内を見回した。
芳しいコーヒーの香りに紫煙が混じっている。客の一人が新聞を読みながら煙草をくゆらせていた。カウンター席にはコーヒーとレアチーズケーキを交互に味わってご機嫌な客もいる。カウンターに置かれた灰皿からはまだ細い煙が昇っていた。
「でさ……」
「……ほんと? だったら……」
テーブル席にはBGMのアップテンポな洋楽に紛れて会話に熱中する若者たちもいた。
隠は店の奥へ歩いていく。その途中で再びカウンターに目をやった。
「…………」
壮年の店主の真正面に痩せこけた老人が座っていた。呆けた様子で天井を見上げている。コーヒーの一杯も頼まず居座る客を店主は咎めないし他の客が訝しむこともない。隠にしか視えていない彼の人に『核』は存在しなかった。いずれは消えるだろう。
壁際の席に腰を下ろすと店員がメニュー表を持ってきてくれる。仕事で来ていなければ間違いなくケーキセットを頼んでいたのに。隠は涙を呑んでブレンドコーヒーを注文した。
壮年の店主がコーヒーを淹れる間にもう一度腕時計を見る。十時四十八分。さて依頼人はいつ頃やって来るだろうか。
「……時間通りに来りゃ上等か」
舞台俳優だという依頼人とは電話で一度話したきりではあるが、話しぶりや内容からして几帳面な性格ではなさそうだった。かと言ってズボラでもない。
自分なりのルールがあって他人はそれに合わせて当然と悪気なく思っているタイプだ。大遅刻こそしないものの十分二十分は平気で遅れて軽く謝ることもない。さすがに決め付けが過ぎるか。
依頼人が来ないことには話が進まない。詰まるところ隠は暇なのだ。だからどうでもいいことを真面目に考えている。隠自身は人に待たされても平気なタイプだった。人を待たせる方がよっぽど嫌だ。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーでございます」
店員がテーブルにコーヒーを置く。隠は礼を述べ店員が去ってから高級そうなコーヒーカップを口元に運んだ。ミルクも砂糖も入れない。
「……美味い」
香りに負けず味も良かった。苦味しか感じないコーヒーとは違うのは分かるがそれを何やかんやと表現するのは無理だ。友人ならもっと語彙に富んだ感想が言えるのかもしれないが。
暇になると喫煙したくなる。しかしいつ依頼人が来てもおかしくない状況で吸うわけにもいかない。それから隠はコーヒーを飲む合間に煙草の箱を掴んで離すのを繰り返して過ごした。
何度か扉のベルは鳴ったものの、隠の対面に座る人間はいなかった。
「隠さんですよね?」
と、今回の依頼人である
隠は立ち上がって返事をする前に眼鏡を外した。途端に人間の姿を留めているものいないもの合わせて四人ほど視えるようになる。実際よりも店内が窮屈に感じてしまうのは仕方のないことだろう。
カウンター席の老人以上にあやふやである彼らに危険性はない。けれど目が合うとしつこく纏わり付かれて面倒だ。あと単純に視界がごちゃごちゃして気が散る。隠の眼鏡はそういう余計なものを視えないようにするためのフィルターだった。
しかしながら仕事となれば気が散るだの何だの言ってられない。些細な見落としが大事に繋がる可能性もあるからだ。
■■■
「知人に良くないものが憑いてると言われたんですよ」
それで隠さんを紹介してもらいまして、と室は続けた。湯気が立ちのぼるコーヒーの隣には室が差し出した隠の名刺が置いてある。その知人は紹介だけに留まらず相談料は自分が払うからとにかく彼を視てくれないかと頼んできたのである。
そもそも知人と面識はなかったはずだが、こんなことをいちいち気にしていては仕方がない。よくあることだ。
仕事の関係者や巻き込まれた人に適当に配ってきた隠の名刺は隠の預かり知らぬところで人から人へと巡り、今や名前と電話番号だけが電話ボックスに落書きされたりインターネット上の匿名掲示板に晒されたりしている。
「僕は霊、ですか? そういうのはあまり信じていないし、別に調子が悪いわけでもないんですが……一度会ってみてくれと勧められて」
室は爽やかに微笑んだ。とても洗練されている。つられて微笑みを返したくなる者も多いだろう。
隠にはどこか場違いに映ったが。口の端だけを使い笑みを作って言う。
「こうして対面してみないと分からないことが多いですからね。私がお役に立てるかどうかも」
ちら、と室に纏わり付いていた女性の一人が隠を見やる。しかしすぐに室へと視線を戻すと右腕に抱きつく力を強めた。隠に関心はないらしい。あっても困るが。
一人、二人、三人、四人、五人、六人……はっきり視えるだけでもそれだけの女性たちが室に憑いていた。
年齢層は二十代前半から三十代前半くらいで、派手に自分を飾り立てている人はいない。目を血走らせて、あるいは頬を紅潮させて室に縋っていなければどの女性も大人しそうではあるのだが。
室がコーヒーを一口飲んだ。時を同じくして入店を知らせるベルが鳴る。店員がそちらへと向かうのが視界の端に入った。
「それで……どうなんでしょう? あなたにも何か見えますか?」
声も態度も丁寧なのがかえって白々しかった。視えていると答えたところで室は信じないだろう。隠に縋らなければならないほど差し迫った状況に追いやられていないということでもある。
方方に散った名刺のおかげで掛かってくる電話の半分以上は悪戯電話だ。迷惑メールも多いが適当に待ってさえいれば依頼は降ってきた。質にばらつきがあるのは避けようがない。
隠は眉間を軽く揉んだ。室に纏わり付く女性たちの激情にあてられて少し目が疲れていた。
「ええ、そうですね」
「! 本当に憑いているんですか?」
室が目を瞬かせる。恐怖を感じている様子はなかった。新しいオモチャを手に入れて浮き立つ子どものように表情を明るくしている。
「憑いてますね。二十代前半から三十代前半くらいの女性が最低でも六人ほど」
「そんなに?」
と言って室は首を傾げた。適当言ってるなコイツ、と心の声が聞こえる気がする。
「何か心当たりはありますか?」
「いや、特には」
まさかの即答だった。人畜無害そうな微笑みとセットで来られると怪しさしか感じない。
けれども、室はあくまで自然体だった。最低でも六人の女性の幽霊っぽい何かに取り憑かれていると言われたら普通は多少なりとも我が身を省みそうなところだが、室はそれをしない。あるいは我が身を省みてもまったく恥じるところはないと本気で考えているのだ。
彼はね、少し……女癖が悪くてね。紹介をしてきた知人の言葉が頭をよぎる。この様子では少しどころではなさそうだ。
「そうですか……うーん、困りましたね」
「困る?」
「ええ。室さんに憑いているのは全て生霊なんですね」
「生霊ですか。聞いたことはありますが」
室がいかにも神妙に頷く。さてどう伝えようかと思案する間に隠は隣のテーブルに目をやった。隠につられたのか室も一瞬そちらを向く。空席だったその場所にはいつの間にか帽子を目深に被った女性が座っていた。
満杯のコーヒーの傍らには隠が諦めたレアチーズケーキが手を付けた様子のないまま放置されている。やっぱり美味そうだな、と思考が完全に横道に逸れる前に隠は話し始めた。
「生きている人の強い念……だと私は解釈していますね。意図的に発生させることもできなくもないですが、大抵は自覚がない。そして、問題なのは生霊をここで消したとしても、生霊の発生源をどうにかしないことにはまた元通りになる可能性が高いってことです」
「発生源をどうにかするというのはつまり、僕に強い念とやらを送っている人たちを突き止めて話し合うなり何なりして蟠りを解けということですか?」
室がため息をつく。変わらず微笑を湛えているが、どことなく気怠げだ。いちいち仕草が絵になる男だった。
それは置いておくとして、察しがいいのは非常に助かる。
「そうなりますね。だから心当たりがないと困るんです。私が生霊の似顔絵を描いて参考にしてもらうという手もあるにはありますが……」
と提案しながらも、隠は先の展開がおおよそ読めていた。
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