File1:S高の幽霊『化け物』
「今の気分は?」
と呼びかけられた千夏は眦を決して隠を見下ろしていた。隠にしか聞こえない甲高い声が屋上に響き渡る。
『化け物! 私なんかよりもお前の方がずっと狂ってる!』
千夏は隠の反応などお構いなしに喚いていた。怒りからか屈辱からか青白い顔に赤みがさしている。先ほどまで怯えて声も出せずにいたのに。
逆転不可能な立場に追いやられたこともあって恐怖心が振り切れた結果何も怖くないし何にでも噛み付く無敵モードへと移行したのかもしれない。
あと少しだけ付き合うとは決めたが大人の癇癪に振り回されるつもりは毛頭なかった。
「良くはなさそうだな。後はこれを食べてしまえばおれの仕事は終わりなんだが、何か言い残すことはあるか?」
球体を口元へ近付ける。飴よりはさすがに大きいが隠が一口で呑み込んでしまえるサイズであることには変わりない。
『食べる!? いや、嫌だ! あんなおぞましいものに取り込まれたくない!』
と千夏に叫ばれて隠は眉を寄せた。やや不服そうに言い返す。
「取り込む? 生憎と間に合ってる。おれの中で核の外殻を溶かしてきみを解放するんだ。それがこの世からの消滅なのかあの世へ渡ることなのかは分からねぇが。消えることは確かだよ」
『嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 誰か助けて!』
隠は曖昧な部分も含めて正直に話したが、それが余計に千夏を混乱させた。そもそも平静であったとしても受け入れがたい内容だったのだが。
千夏は会話のできる状態にない。ため息をついて隠は立ち上がった。
「はぁ……仕方ない。最期にきみのやり残したことをさせてやろう」
千夏が越えようとしていた柵と屋上の扉を何度か交互に目をやった。耳を澄まさずとも生徒たちの掛け声はまだまだ聞こえてくる。
「……さすがにあっちは目立つな」
グラウンドの騒がしさに比べれば校内の方がまだ静かで人気がなさそうだ。隠は柵に背を向ける。扉へ足を踏み出すその前に手に持っていた核をあっさりと呑み込んでしまった。千夏が抗議する間もない早業だった。
一歩二歩三歩と歩みを重ねて屋上の扉を潜る。次に三階へ通じる階段の一番上に立つと両手を広げた。理絵や彩花にしていたのと同じように身体を乗っ取らせてやる。
これで千夏の思う通りに隠の身体は動くはずだ。とは言え理絵たちとは違って主導権は隠が握ったままではあるが。五感のうち触覚だけは千夏に伝わらないようにした。
「さぁ、おれを殺してみるといい。未来ある若者とは言えないけどな」
『…………』
溶かさず体内に保ったままの核に呼びかける。しかし、千夏は応えない。
「どうした? 身体は動かせるはずだぞ。もうきみは終わってる。後は消えるだけで狂いようがない。だから人殺しってやつで憂さが晴れるかどうか試してみるといい」
『意味分かんない。気持ち悪い。頭がおかしい。変態』
己の内側から浴びせられる罵声に隠は苦く笑う。しばらく千夏は隠を罵り続けた。その間どうにも手持ち無沙汰で煙草を吸いたくなりスラックスのポケットから取り出そうとしたが寸前で堪えた。
革靴はもう半分ほど階段からはみ出している。あと少し前に傾くだけで危うい体勢は崩れて隠は階段から落ちるだろう。
とうとう雑言の在庫も尽きたのか千夏が静かになったのを見計らって隠は言った。
「そういうのは聞き飽きてる。で、殺すのか。殺さないのか? 殺さないのなら終わりにするぞ」
『…………死ぬのが怖くないの?』
ぽつりと問われる。覇気も狂気もない、素朴な声音だった。彼女は何度そう自問してきたのだろう。
さて自分は。死ぬよりも生きる方が怖かったかもしれない。などと適当なことを考えた。
「化け物だからな」
千夏の言葉を借りつつ最大限に軽薄な口振りで返事をして。また何やかんやと騒ぎ始める前に胸を軽く叩いた。
「上手くやれよ」
とだけ告げる。日没まではここにいよう。千夏が殺さないのであれば、殺せないのであればそれでいい。千夏に対して隠ができることと言えばこれくらいしかないから提案しただけの話だ。
扉のすりガラス越しの光が徐々に弱まり、赤みを増していく。隠は身じろぎもせずにその場に立って千夏の決断を待っていた。
そして、予兆もなくその時は訪れた。隠の足が階段を強く蹴る。隠は受け身を取らないまま階段から転がり落ちていく。顔面はもちろん頭も身体もあちこち打ち付けた。
最終的に踊り場に激突して仰向けに倒れた隠は出血して首がおかしな方向に捻れていた。ジャケットも背中の辺りが破けている。
『死んだの? 死んだのよね?』
核の中で千夏が早口で喋っている。独り言にしては大きい。少々やり辛いが隠は答えてやった。
「あぁ、死んでる」
『死んでるって言ってるのに! 喋らないでよ!』
ぎゃんぎゃん吠える千夏に顔をしかめる。無意味ではあるけれど耳栓が欲しい。早々に話を進めることにした。
「で、どうだった?」
『化け物を殺してもスカっとなんてするわけない』
「なるほど。まぁそういうこともある」
見事な即答だ。遠慮のない物言いがいっそ爽快だった。憂さを晴らせなかったのは残念だが、さすがに自分以外に同じことをやらせるわけにもいかない。
『……もういいから、さっさと消して』
千夏が囁く。拗ねているようで覚悟を決めたようでもあった。
あぁ、と同意しかけて止まる。危うく約束を違えるところだった。
「……いや、待て」
『何よ』
「安藤さんに……安藤さんと佐々木さんに謝ってもらおうか」
『は?』
千夏は言葉を失っていた。こんなことをする前に話しておくべきことだったと隠も反省する。
「『理絵に謝れ』と佐々木さんからの言伝だ。おれの独断で佐々木さんも加えたが」
『誰が……謝るか』
低く響いた声には苦悩が滲んでいた。
「そこは嘘でもごめんなさいするところじゃないか?」
『それが苦もなくできてたらこんなふうになってないんだよ』
間隙なく一蹴される。
果たして笑ってもいい軽口なのだろうか。たぶん違うなと判断して言い返した。
「小心者、いや、正直者には難しい世界だな」
『うるさい。早く消して』
隠が喋れば喋るほど千夏の機嫌は降下していく。これ以上付き合う義理は千夏にも隠にもない。
「はいはい、分かったよ。きみに謝らせろとまでは頼まれていないからな。今から三つ数える。三で外殻を溶かすぞ」
目を瞑って集中する。実のところ溶かさないで体内に保っておく方が隠には難しかった。核にもそれぞれ違いがあって千夏のそれはとても脆く繊細だった。
「一」
『……』
千夏の息遣いだけが伝わってくる。
「二」
『ごめんなさい』
泣くのを堪えている。けれど躊躇わず言い切った。
「三」
『安藤さんと佐々木さんにそう伝えて』
隠は核の外殻を溶かした。核は呆気なく霧散し内にあった千夏の存在も掻き消えた。
ずず、と踊り場に流れた血が隠に戻っていく。血だけではない。裂けた肉も折れた骨もありとあらゆる損傷が回復していく。最後に捻れた首を元に戻し、ものの数分で隠は生き返っていた。
身体を起こして踊り場に片膝を立てて座る。辺りを見回しても何も視えないし聞こえない。
隠は一つ息を吐き潰れた紙箱とライターを引っ張り出して煙草を一本抜き取った。続けて煙草に火を付けようとするがしばし逡巡して思い留まる。
煙草を唇から離し、紙箱とライターを仕舞ってから階段を見上げた。
「……伝えておこう。さようなら、鮎長千夏さん」
のそのそと立ち上がる。それから落下の衝撃で歪んだ眼鏡を胸ポケットから取り出してみた。
つるが曲がりレンズ部分にはひびが入っているが着用するのに問題はない。強引に眼鏡を掛けて空いたポケットに吸わずじまいの煙草を押し込んだ。
「まず佐々木さんの様子を確かめないとな。しかし、誰も来なくて良かった……思いつきで行動するもんじゃねぇな。見られてたら騒ぎになってた」
独り言と共に首や肩を回しながら階段を上っていく。
踊り場には一滴の血液も残っていない。死の痕跡と言えるのは歪んだ眼鏡と破れたジャケットだけだった。しかしそれも今夜か遅くても明日にはゴミとして捨てられるだろう。他ならぬ隠によって。
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