第八集:霊犀
「嫌だぁぁ」
「観念しろ。ほんとうに
お見合い三日前の晩、
しかし、明日の朝には出発しなければならない。
おそらく、
それが何より恐ろしい。
きっと自然で爽やかな笑顔が出来るようになるまで訓練される。
「そもそも、出会ったばかりの好きでもない相手と結婚させられる女性が可哀そうではありませんか?」
「そんなの、どこも同じだろう。恋愛結婚など、そうそう聞いたことが無い。皆、結婚してから、残りの人生をかけて相手を知り、紆余曲折を経験して憎んだり愛したりしていくのだ。
「ぐっ……」
「また戦に行って武功を上げてこいって言ってるんじゃないんだから、おとなしく母親に従っておけ」
持っていくものなどそんなにないが、無心になるため、丁寧に服などを詰めていく。
ふと、窓から空を見上げると、星々が瞬いていた。
(また恋など出来るのだろうか。あの時以上に、人を愛することなど……)
言皇后の笑顔が浮かんだ。
記憶が戻ってしばらく経ったころ、少しの望みの中、彼女の遺品を探した。
でも、何も残っていなかった。
遺体は大金を払って
きっと、故郷で手厚く葬ってもらえたのだと信じたい。
彼女は、それに値するのだから。
「もう一つ助言をやろう」
「何ですか」
「昔の女を引きずるな」
「……頭の中でも見たような口ぶりですね」
「そんなの、君の顔を見ていれば簡単にわかる。忘れる必要はないが、未練と依存はやめろ。苦しくなるだけだ」
「わかってますよ……、そんなこと」
「幸せになることから、逃げないでいいんだ。
考えないようにするたびに、それを押しのけるように心が彼女を思い出してしまう。
好奇心が旺盛で、よく笑う、聡明な女性だった。
こんなにも恋しいのに、出会いは最悪だった。
――そんなやる気の無さで、どうやって国民を愛していくつもりなの⁉
いきなりの叱責。
そのあと、初めて会ったことも忘れて何時間も話した。
皇位を継いだら、何をしたいか。
どんな国にしたいか。
国民に、どうすれば豊かな生活をさせてあげられるか。
――ふうん。あなたの考え方、割と好きよ。怒鳴って悪かったわ。……わかった! 私があなたの『やる気』になってあげる! もし落ち込んだり、悲しくなったり、心が壊れそうになった時は、私が治してあげる。どんな時も味方でいてあげる。だから、あなたには私のためだけになってほしいものがあるの。それは……
気付くと、荷物にポタポタと雫が落ちていた。
(会いたい、会いたいよ……)
どんなに願っても、祈っても、叶わないこともある。
(う、嘘でしょ……)
夏の暑さに
皇宮内に設けられた、八名に絞られたという正室候補とのお見合いの場。
(
目の前にいるのは
生前の
それなのに、とても似ている。
顔の形や体型ということではなく、声が、話し方が、笑顔の際に眉が下がるところが、とても、とてもよく似ている。
夢でも見ているのかと思った。
恋しさに女々しくすがる自分の心が見せている幻覚なのだろうか。
いや、違う。
彼女は目の前に存在し、息をし、瞬きをし、生きている。
心が彼女を求めた。
胸が高鳴り、顔が火照るのがわかった。
熱い、暑い。
興奮で瞳孔が開く。
彼女の姿を少しでも心に刻もうと、視界が広がっていく。
「……どうやら決まったようね」
賢妃の嬉しそうな囁きが、耳にこだまする。
しかし、誰かの
「は、母上、少しだけ考える時間をくださいませんか。今回は絶対に逃げたりしないので……」
息子の真剣な思いつめた表情に何かを察したのか、賢妃は笑顔で女性たちに告げた。
「では、後程改めてご挨拶に伺います。恵王殿下は皆様の美しさに眩暈がしてしまったようで……。少し休ませてまいります」
太監に案内され、女性たちからは少し遠い部屋に通された
用意してもらった温かい
「どういうことなんだろう……。でも、心が確信してる。
そう口にした瞬間、堰を切ったように涙があふれ出した。
幸せな終わり方ではなかった。
手を取り合い、言葉を交わし、星に成れたわけではなかった。
これは
せっかく出会えたのに、彼女をまた不幸にしてしまうのだろうか。
それだけは、絶対に嫌だ。
それなのに、手を握りたいと願う自分がいる。
鈴の音のような美しい声で、名前を呼んでほしいと思っている自分がいる。
「あの……」
彼女だった。
「賢妃様が、もしよければ二人でお話したらどう? と、言ってくださって……」
泣いている
「何かあったのですか⁉ 具合が悪いのなら、すぐに太医を呼んでまいります!」
「あ、いえ……」
似ている。
目が離せなくなってしまう。
「……こちらをお使いください」
差し出されたのは、木綿の
――あら、私は絹よりも木綿の方が好きよ。だって、よく水を吸うし、肌触りが気持ちいいもの。
思い出が、溢れていく。
だから、聞きたいことがあった。
「あの、
「
胸に広がるあたたかさに、苦しくなる。
「もし、もしわたしに嫁ぐことになったら……、何を望みますか?」
「望み、ですか……」
「こう言ってはわがままかもしれませんが……。殿下には、私の居場所になってほしいです。殿下の活躍は聞き及んでおります。若き将軍として父の軍と共に国境線で戦い、見事勝利し、武勇を示したこと。薬術師として分け隔てなく人々を救い、国中の薬舗に支援をしていらっしゃること。国民には殿下が必要です。だから、せめて、一つだけ。私のために、『家』であってほしいのです」
景色が光の中で揺れ、再び流れだした涙は、止まらなかった。
――あなたには私のためだけになってほしいものがあるの。それは……、家よ。私の居場所になって。
これが運命でないならば、何をそう呼ぶのだろう。
「
もう二度と、その手を離さない。
例え死期が違おうとも、人生を共に歩みたい。
今度こそ、幸せにしたい。
誓わせてほしい。願わせてほしい。愛させてほしい。
大切にしたい。
「
恐る恐る、手を伸ばし、
あたたかい。
「照れますね」
そう言ってはにかむ姿が愛おしくて、心が満たされていく。
「あら! 様子を見に来たら……、まあ!」
「は、母上!」
焦ったが、手を離せなかった。
賢妃は頬を桃色に染め、
「はしたないけど、許してちょうだいね。嬉しくて、嬉しくてたまらないの」
その後はとんとん拍子に事が進んでいった。
陛下への報告の日取りや、婚約の儀の段取り、婚姻に纏わるすべてのことが、あれよあれよといううちに決まっていった。
忙しい合間を縫って数日後、
「まことに、おめでとうございます!」
「幸せになります」
「もちろんだ、
両腕にいっぱいの大切なもの。
護りたいもの。
心の中で、
(君のことも、話しておかないとね。彼女に、
三日間
「あ、あの……」
昼過ぎに来たはずが、すでに陽は落ち、結婚前の
しかし、董家の
「素敵な庭だね」
「母の趣味なんです。私もこの庭が大好きで……。もしよろしければ……」
「もちろん。邸の庭を季節の花々で彩ろう」
「ありがとうございます、殿下」
可愛い。
恋に弾む心が照れ臭いほど、浮かれている。
ただ、話しておかなければならないことがある。
「
「はい。なんでしょう」
「わたしは……。わたしは、〈人間〉ではないんだ」
「それは……、その、物語に出てくるような、何か特別な種族ということでしょうか」
「あはは。興味津々だね。夫になる男にいきなりこんなこと言われてひかないの?」
「全然! むしろ、俄然興味がわいてまいりました!」
「ふふ。わたしは幸せ者だな」
「あら、それなら私だって負けておりませんよ。すぐに証明できます」
「わたしは
「……ありがとうございます」
「
驚いた。
まさか、そんな風に想ってもらえるとは思わなかったからだ。
「こちらこそ、ありがとう。君のご両親にもそう伝えなきゃ」
「ふふふ。また拘束されちゃいますよ?」
「そ、それは困るなぁ……」
二人で声を合わせて笑った。
なんて穏やかな時間なのだろう。
「それで……。わたしにはやらなければならないことがある。もしかしたら……、それは君を……」
「私とて大将軍の娘。覚悟はできております」
「え、それは……」
「父が
「
撃ち抜かれた。
心も、身体も、何もかも。
「君こそ、わたしと幸せになってもらうからな」
「ええ。望むところです!」
思い出の中の
二人で室内へ戻ると、土間には先ほどまで酔っていたとは思えないほど眼光を鋭く光らせた董大師と、その側近たちが跪いていた。
「殿下、我ら、命を共にすることをお許しください。殿下が十七歳の時、共に戦場を駆けた日々は我が軍にとっては輝かしい武勇として語り継がれております。どうか、この先も、側近く仕えさせてください」
「よろしく頼みます」
「はっ!」
力強い咆哮。
身体の芯まで響き渡った。
「楽になさってください」
「ありがとうございます。いやぁ、まさかうちの娘を選んでくださるとは思いませんでした。もとより、私たちは殿下に与する予定でしたから」
「燕国の劉大将軍から聞いたのですか?」
「それが、劉大将軍といつものように燕国の荒野で練兵をしようと向かったら、突然馬車に乗せられ、気づいたら燕国の皇宮に。そこで、燕国皇帝陛下から直接聞いたのです。『
「あ、あはは……。大変でしたね」
「驚きましたが、良い驚きでした。我が家は武人しかいないと世間では思われておりますが、実は三男が
目が合うと、「私も結構強いんですよ」といった意味を込めた笑顔を送ってきた。
「そ、それで、
「それもありますが……。つい最近、兵部尚書の成人している子息の一人が遺体となって見つかりました」
心の中で
「身体には複数の拷問の痕があり、その、耳や鼻、唇、指などと同様に、性器を斬り落とされていたそうです。そして、切り取られたそれは、口の中に押し込まれていたとか」
怒りはそれを通り越すとどうやら冷静になっていくようだ。
「それがなぜ、
「殺される三日前、
兵部尚書の息子は捨て台詞のように
「いくらお勉強したとて、所詮は宦官。戦にも行ったことの無いような者の意見を取り入れるとは……。遥か昔に宦官に滅ぼされた国がありましたが……、殿下は我が国もそうさせるおつもりですか?」と。
「だから性器を……」
もう、手遅れなのかもしれない。
「事が重大ですから、さすがの陛下も
「皇帝直下の特務機関ですね。……え? 父上は何もしなかったのですか?」
「はい。不運な事故として処理されました」
「だ、大理寺は? 刑部は?
「そうです。それどころか、兵部尚書に騒ぎ立てないよう、金品を渡したようです」
董大師は悔しそうに唇を噛み、膝を打った。
「
「あ、あの、覚えていらっしゃるんですか?」
「もちろんです! 私は当時まだ十五歳の若造で、祖父が紫董軍の大師で、父が
董大師のまっすぐな瞳には、希望と、切なさが浮かんでいる。
「お供します、殿下」
「感謝します」
二人は固く握手を交わした。
「
「え、そ、そんな、もう遅いですし……」
「先ほどから娘の視線が痛いのです。はやく私の夫を返して、と言わんばかりに」
「あ、あはは……」
「今日はありがとう」
「ふふ。燕国の皇帝陛下は
「え、どうして?」
「きっと私のところへ何もかも話しに行くだろうって、父に言ったそうなんです。
「あ、あああ、あの、そ、それは、そう、だけど、え」
「殿下から婚約が決まったことの知らせを受けてから、ずっとそう思っていたそうですよ」
「ぐっ……」
「仲がよろしいのですね」
「え、いや、その……」
「ふふ。では、婚姻の儀まで会えなくなるのは寂しいですが、体調に気を付けて過ごしてくださいね」
「うん。
二人は最後にまたぎゅっと手を握ると、
(色々、頑張ってきてよかったなぁ……)
(十七歳の時、師匠に「武功を一つくらい挙げておくか!」と、いきなり皇宮に送り返され、帰ってみると、ちょうど救援を求めている戦場があると陛下に喜ばれた。一緒に戦いたい軍はあるか、って聞かれて、迷わず紫董軍って答えた。陛下はものすごく嫌そうな顔をしたけど、その場に何人も人がいたから断るわけにもいかず、願いを通してくれた。紫董軍はわたしの生前からずっと
娘がいるとは聞いていた。
何度も話題に出たからだ。
でも、まさかこういうことになるとは一度も予想もしていなかった。
(縁ってあるんだなぁ……。よかった。本当に)
秋の香りが風に乗って身体を通り抜けていく。
思い浮かぶのは、
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