第六集:胡桃
治療が終わり、燕国へ一度戻ることになったのは、作戦から二週間後だった。
患者たちはようやくまともに話せるようになり、食事も一人でとれるようになった。
あとは軍医でも対応が可能だ。
天蓋に移されていく兵士の中に息子を見つけた嶺将軍は、堪えきれなかったのだろう。
その身体を抱きしめていた。
照れたように笑う二人の顔が、とても眩しくて、美しくて。
治療の疲れが一気に吹き飛ぶような、そんな光景だった。
「感謝の言葉を紡ぐ時間すら足りません。なんとお礼を申し上げればよいか……」
そして、到着した燕国皇宮。
陽が傾き始めたことによる西日が、朝堂の背後から光をもたらし、まるで
そんな
「ご依頼いただいた仕事を全うしたまでです。この力が及ぶことならば、いつでもお力になりましょう」
「感謝いたします。これは感謝のしるしとして受け取っていただきたいのですが……」
「それがあれば、燕国のどこでも自由に、検閲を受けることもなく出入りが可能です」
「恐悦至極に存じます。謹んで頂戴いたします」
その後は夕方から行われる宴席の説明を受け、一度解散となった。
宿に戻ると、
「なんだその顔は。何も問題なかったじゃないか」
「その玉……」
「これがどうした?」
「幼い頃、わたしが
深い青色の
まだ十歳だった子供がわざわざ貿易船にまで出向き、太監に手伝ってもらいながら金額の交渉をし、買い取った瑠璃。
「……偶然というには難しい状況になってきたな」
「……はい。ど、どうしましょう」
「その答えは陛下のみぞ知る、だ」
ああでもないこうでもないと考えていると、いつのまにか宿の下に迎えが到着していた。
急いで支度を済ませると、二人は馬車に揺られながら皇宮へと向かった。
宴席には燕国が誇る水源で育てられた色とりどりの野菜が使われた料理が並び、目にも楽しい時間となった。
どれに箸をつけても美味しい。
部屋の中央で舞う宮女たちも瓏国の舞踏とはまた
宴席も和やかに時間は過ぎていき、甘味が給仕され始めた。
どれも色鮮やかで香り高く、とても美味しそうだ。
その中で、小ぶりな薄茶色の団子を手に取り、口に入れた。
柔らかい生地と餡、それに、カリカリとした食感がとても……。
(これは……、
身体が動いてしまった。
たんっと軽快な跳躍が目指した先は皇帝。
気付くと、
我に返り、急いで
汗が止まらない。
驚いた燕国禁軍大統領が剣を抜こうとするが、それを
「ご、御無礼を……」
「大統領、この団子を割ってくれないか?」
大統領はすぐに皿の上から団子を一つとると、中を割って見せた。
「……毒味係と料理人を捕えろ!」
場が騒然となった。
「陛下」
「行ってこい」
大統領は包拳礼をし、さらには
「助かりました、
「あ、よ、よかったです」
ちらりと
「さすがは
「あ、その、は、はい……」
幼い頃から知っていた、などとは言えるはずもない。
今は
「お持ち帰りいただく宝物を増やさねばなりませんね。お願いですから、拒否などしないでくださいよ」
心臓がまるで噴火しているように熱い。
身体全身から汗が噴き出ているような感覚。
しかし、こうするしかなかったのだ。
もし
最悪、助けられなかったかもしれない。
「せっかくの宴席でこのようなことになり、申し訳なく思います。お泊りになっている宿に
「気づかれたと思うか?」
部屋に入り開口一番、
「……自信がありません。ただ、皇帝陛下は嬉しそうでした。あの笑顔がわたしに向けられたものなのか、その……、
「だよなぁ。ううん……」
「まあ、なるようにしかならないだろうよ。心配しても、その時が来るまでは無駄だ。さぁ、呑み直すぞ」
「はい……」
奇しくも今宵は新月。
不安な宵闇に、星々の瞬きは慰めにはならなかった。
翌日、早朝。
と言っても、まだ太陽も昇らない黎明の最中、宿に太監がやってきた。
「陛下が三人でお話したいことがあると仰せです。ご案内いたしますので、これを」
渡されたのは目隠しだった。
ということは、道順を覚えられては困る場所に連れていかれるということだ。
(居室か……)
わざわざ呼び出すとは、どういうことなのだろうか。
(露見したのかな……?)
手足から熱が消えていく。
太監に手を引かれながら宿を出ると、小型の馬車にそれぞれ乗せられ、何度も方向転換しながら走ること十五分。
落ち着いた色合いの大きな建物の前で降ろされた。
「ここから先は誰も着いてきてはならぬと申しつけられております。それでは、ごゆっくり」
そう言うと、太監は建物の裏に消え、気配すらしなくなった。
「……行こうか、
「はい、師匠」
馬車の中で考えた。
これは、絶好の機会なのではないか、と。
二人は階段を上り、そこで靴を脱いだ。
引き戸が開いている。
「燕国皇帝陛下に拝謁……」
「あ、挨拶は結構ですよ。朕がこのような時間に呼び立てたのですから。さぁ、こちらへ。お茶でも飲みましょう」
ふかふかの座布団が二枚と、茶器と菓子の乗った膳がそれぞれ用意されていた。
室内は質素で、調度品も最低限といった感じだ。
よく磨かれた床と柱が美しく艶めいている。
「聞きたいことがあるのです」
「お二人のこと、少しだけ調べさせていただきました。どうやら、お二人が問診をしていた村々は燕国の周辺だったようで……。どう防いだとしても、お二人の噂が朕に届くようになっておりました」
背中を汗が伝う。
一方で、
「
「驚かないのですね、
「ええ。私たちの目的の一つに、陛下に招かれるくらい有名になる、というのがありましたので」
「それはなぜです?」
「君が、君の言葉で話すんだ」と、言っているように。
「目的は……」
鼓動が身体全体を揺らすように広がり、眩暈がした。
ただ、不思議なことに心の波は穏やかになっていく。
「陛下に、瓏国を奪い取り、救っていただきたいからです」
「瓏国を救ってほしい……、だと?」
怒りが身体中を駆け巡っているのだ。
「朕の……、私の愛する義兄上を廃帝にまで追い込み、毒を
悲しみで紡がれる怒りの痛みが、
もし自分が同じような状況で
(本当に、死んですまなかった……)
それでも、今は話さなくてはならない。
こんな機会、そう訪れることではないだろうから
「恐れながら申し上げます。現在、瓏国皇帝が皇太子に冊封したのは恒青。彼には生き物を拷問し、殺害するという、常軌を逸した
「それならば、皇太子を殺せばいいだろう! 私が義兄上のためにしてやれなかったことを、お前たちがすればいい!」
怒りで思考を放棄している。
まるで十代の
それならば、その頃と同じように対応するまで。
「今の瓏国宰相が誰なのか知っているならば、それが無意味なことだとおわかりなのでは?」
「瓏国宰相だと……。はっ、そういうことか。もし恒青を亡き者にしようとも、皇子たちは家の争いに巻き込まれると言いたいのだな」
「その通りです。現在の瓏国宰相は皇帝陛下の母君である貴太妃の兄上です。約三十五年前に起きた簒奪の首謀者でもあります」
「血のつながった甥を玉座に座らせれば、自身は宰相の地位だけでなく、
落ち着いてきたようだ。
それならば、あとは
「瓏国において、健康な男児を生んだ
「……まさか、そこが火種になるとでも?」
「嬪たちの後ろ盾は弱く見せかけてありますが、その出身地はまぎれもなく
話し方、声の抑揚、国への想い、民への想い、そして、怒りで我を失いかけている義弟に対しての叱責。
目の前にいる
信じられない。
信じたくない。
信じたい。
もう枯れ果てたと思っていた涙が、一筋、頬を伝った。
「瓏国皇帝……、
「少し、昔話でもするとしようか。皆、私のことをまるで軍神か聖人君子のように言うが、そんなことはない。あの日を境に、私の時は止まってしまったのだ」
陽が昇り始めた。
居室から見える紫と橙交じりの青空が、やけに眩しく、どこまでも自由に見えた。
「私の義兄上はとても素晴らしい人だった。慈愛に満ち溢れ、武勇があり、頭脳明晰なのに、それを鼻にかけることもなく、いつも私に易しい言葉で教えてくれていた。『一緒に考えてみよう』と、いつも私の言葉を待ってくれていた。何度も何度も、辛抱強く。ふふふ。義兄上は隠しているようだったが……、実は、ここだけの話、義兄上は皇帝になどなりたくなかったのだ。おかしいだろう? その才能があるのに。……優しすぎたのだな。
雲が流れていく。
風が通り抜けた。
「それでも、義兄上は瓏国を、民を、土地を愛していた」
太陽に雲がかかった。
光が、遮られる。
「あの日もそうだった。私は知らせを受け、怒りと悲しみに我を忘れた。側近たちが止めるのも振り切り、
袖を揺らすほどの風が吹き、雲が再び空を泳ぎ始めた。
光が、ゆっくりと戻ってくる。
「でも、そんな私を止めたのも、心の中に住まう思い出の義兄上だった。私が皇帝に即位した祝いの夜のことだ。寝る前に二人で少し呑み直しているときに、もし義兄上が危機に陥ったと勘が働いたら、何をしていてもどこにいても、またあの頃のように助けに行く、と言ったら、あの温厚な義兄上が怒ったのだ。『皇帝とは国の父であり、民の父だ。子供を見捨てて助けに来るなど、絶対に許さん!』とな」
夏の陽射しが、木々に降り注ぎ、その影が舞うように揺れている。
「私はただ剣を握りしめて泣いたよ。もう二度と涙など流せなくなるのではないかと思うほどに」
そう言うと、
板間に座り、その壺を優しく置いた。
「きっと、義兄上は怒るだろうと、今でも思っている。それでも、探さずにはいられなかった」
あふれ出した想いが、涙となって落ち続ける。
止められなかった。
「荼毘に付したのだ。私と、母上で」
莅櫻の顔が浮かんだ。
怪我をするとすぐに手当てをしてくれた。
喧嘩をすると優しく諭してくれた。
二人で迷子になって帰るのが遅れた時はとても怒られた。
そして、とても愛してくれた。
甥の遺体と対面した時、どれほど傷ついただろう。
どれほどその身を震わせ、涙したのだろう。
(申し訳ありません、伯母上……。今でも大切に想っております。心から)
壺に触れると、目に見えない風が体中を駆け抜けた。
「泣いてくれるのか……。
この言葉にどう返事をするか選ぶのは、
「……記憶があることに気付いたのは、物心がついたころだった」
「はは……。まさか、自身を殺した弟の長子として生まれてきたのか、義兄上よ」
「そのようだね」
どちらからともなく、腕が伸び、互いを強く抱きしめていた。
「おかえり……、おかえり、義兄上!」
「ああ、ただいま。
「し、師匠?」
二人は身体を離すと、
「年々涙腺が……。お見苦しいところをすみません」
「
「ええ。存じ上げておりました」
「義兄上を護ってくださっていたのですね」
「へ、陛下!」
なんと、最上礼である
一国の主が爵位すら持たない者に行うなど、中原始まって以来の前代未聞の出来事である。
「へ、陛下……」
「足りません。言葉も、態度も、時間も、贈り物も、何もかも、この感謝を表すには足りぬのです。どうか、せめて私の誠心誠意をお受け取りください」
二人は互いの礼に心が満たされたのか、固く抱きしめ合った。
身体を離すと、二人は
「
炎が華のように心に咲き誇った。
「二人とも、よろしく頼みます」
陽が差し込んだ。
その光に照らされた
(ここから、始まるんだ)
一万の兵よりも強い味方を得た。
轟かせるは開戦の銅鑼。
もう後には退けない。
退く気もない。
駆け抜けるのだ。
中原を揺るがす、戦いを。
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