第29話 触れるなキケン
初めて火炎放射をした日の翌日、幸の右手にはかすかな痺れがあった。
痛みもほとんどなく違和感という程度のものであったが、大事を取ってその日は発火の訓練はなしとなった。その分格闘訓練が増えたことは言うまでもない。
「ふっ…! ぐっ……!!」
「ほらほら! 遅いよ遅いよ!!」
「……元気っすね~あいつら。」
「二人とも結構な体力馬鹿ですから。」
午後六時を過ぎて汗だくになりつつもほとんどパフォーマンスが衰えていない誠人と幸を大里と番は休憩しながら遠目に見ていた。
「幸くんはほとんど一日戦ってるでしょうに。」
「本人はスタミナの訓練も兼ねているらしいです。やり方が規格外ではありますが……」
「俺も頑張らないといけないですね。1時間やっただけでひぃひぃ言ってるようじゃ誠人に殊更笑われちまう。」
「仕事の後ならしょうがないですよ。」
「ま、今のところはそう言い訳させてもらいますわ。」
そう会話している裏でもせわしなくトンファーのぶつかり合う甲高い音が道場中に響いていた。
その日は対多人数の戦法を教えるため、最初は番と誠人が、大里が合流してからは三人のうち二人が幸と戦うという訓練を行っていた。だが大里と番は段々と体力の限界が近づいてきたため、現在は誠人と幸が先日の組手と同じルールで際限なく戦っている状態だった。
「あっ!!」
打突の応酬の最中に放たれた誠人の足払いが見事に決まり、幸はバランスを崩して尻餅をついてしまった。
「やったったぞコラ!! これで21勝10敗だぜ!」
大人げなくはしゃぐ誠人に幸は悔しさを隠しきれない。
「もう一回! もう一回やりましょう!」
「いや、今日はここまでにしとこう。」
「勝ち逃げはだめですよ!!」
「いやいや真面目な理由だって。明日のことについて説明したいんだ。」
「ぐぐ………」
誠人のまともそうな返答によって反撃の機会を失った幸は悔しそうに唇をかみしめる。
「そんなに悔しがることはないわよ。誠人から十本も取れる奴なんてそうそういないし。」
「そゆこと。まぁ挑戦はいつでも受け付けてるから。」
「逆に誠人はもう少し悔しがった方がいいわね。最後の方とかしょぼい勝ち方しかしてないじゃない。」
「なっ…しょぼいとはなんだ! しょぼいとは!」
「疲れてるのバレバレよ。ほとんど棒立ちでカウンターのタイミングばかりうかがってたでしょ。」
「うっ……それは、やっぱ頭脳も使って勝つということをだな……」
「視線誘導と足さばきばっかで勝ちに執着してたとしか思えないけどね。」
「ぐぅぅ……」
ぐうの音も出ない番の口撃にただただ誠人は打ちのめされていた。
実際単純な力で負けている誠人はフェイントや足さばきで有利な状況を作って勝ちに持ち込む、というスタイルで幸を翻弄していた。だが、幸には同じ手がほとんど通用しなかったため、いくつかのパターンが攻略されてしまったことで黒星がかさんでいった。そのため長期的に見れば幸が優勢だったとも言える。
「ま、まぁいいや。明日のことをちょっと話し合おう。」
図星を突かれた誠人は早いうちに話題を変えないとサンドバッグにされると思い、明日の訓練についての説明に移った。
「昨日伯父さんと会ったときに発火訓練をやるなら次からは俺に言えって言ってもらえたのよ。」
「……訓練場を用意してもらえたってこと?」
「とびっきりのね。どうせ今日には間に合わないと思ってたし、幸くんのちょっとした不調も重なったから今日の訓練はバッサリカットして明日全力で臨もうと思って昼のうちに連絡しといた。」
「それで……明日使えるんですか? その訓練場が。」
「うん。その日だけ室内訓練に切り替えてもらったよ。こっちは急を要するしね。」
「おいおい、室内訓練ってまさか……」
一足早く大里には察しがついているようだった。やや遅れて番が感づく。
「そういうことね……」
「えっ? えっ?」
依然として幸は見当がついていなかった。その反応を見てにやにやと笑いながら誠人は明日の訓練の場所を発表する。
「明日の集合場所は『練馬駐屯地』だよ。」
「『練馬駐屯地』って……」
「東京23区内唯一の陸上自衛隊駐屯地さ。ホントいいとこおさえてくれたわ。」
スケールの大きすぎる話に幸はついていけなくなる。
「あ、明日僕の訓練のために駐屯地一つ貸切ったんですか?」
「外の運動場だけね。もともと準備はしてたらしいよ。会議の時も防衛省の人何人かいたでしょ?」
「確かに…そうですけど……」
一人の人間のために動かす規模ではないだろうと一瞬幸は思ったが、純粋な正面戦闘で敵に勝てる可能性が最も高いことを加味するとありえないことではないと理解した。それはそれとして実感は湧かなかったが。
「つーわけで明日は存分に炎をぶっ放せるわけだ。消火器もたくさん配備されてるからマジで遠慮しないでいいよ。」
「さすがにわざと危ないことはしませんよ……」
「まぁそりゃそうか。明日にはシーマさんの散策とやらも終わるし、初めての全員集合になりそうかな。」
誠人はそこまで言った後に時計を見た。
「万全の状態で行きたいし、そこまで早朝じゃなくていいよね。10時半集合とかでどうすか、皆さん。」
「僕は大丈夫です。」
「問題ないわ。」
「同じく。」
「おっけ、じゃあそんな感じで今日は解散かな。幸くん、また飯でも行く?」
「いえ、今日はシーマさんが帰ってくると思うのでホテルにいます。」
「今日はって……寝ないでやってたの?」
シーマの体の状態が心配になり、番がおもむろに聞き返す。
「あっちの世界の人って食事とか睡眠の文化がないみたいなんです。時間が経てば自然に魔力は回復していくし、体力的には問題はないって言ってました。」
「へぇ~便利なもんだね。」
誠人は少し羨ましそうなニュアンスでそう言った。
「ただこっちの世界だと食事はないとキツイらしくて。頻度は三日に一食くらいなんですが、エネルギー効率的にそれがないとパフォーマンスが結構落ちちゃうみたいです。」
「シーマさんって食事は出来るのね。何にも触れないと思ってたわ。」
「僕と二人きりの時は出来ます。ただ他の人が見てる場合は触ろうとしてもすり抜けるって感じで……」
「……やっぱり何がしたいのかわからないな。」
取り調べ時からそのあたりの事情を聞いていた大里は改めて考え直してもいまいちまっとうな理由が浮かんでこないことに頭を悩ませた。
「…そうですね。シーマさん自身も『特に意味がないかもしれない』って言ってました。あまり考えすぎない方がいいかもしれないです。」
「いつかポロっとわかる日が来るかもしれないしね。気長に待つしかないか~」
「それで、シーマさんが帰ってくるってことは今日が食事の日ってことなのかしら?」
「外では食べれないので多分そうだと思います。なので今日は作ってあげよう……と考えてたんですがちょっと疲れちゃったんで近所の弁当屋に頼ります。」
「ごめんなさい、結構引き留めちゃったわね。」
「いえ! 全然大丈夫です! 僕は寝て起きたら元気になってるので!」
普段は凛としていて冷静沈着という雰囲気の番に謝られ、幸は必要以上に気を遣わせてしまったのではないかと心配になってむしろ逆に謝ってしまいそうな勢いで早口に返答した。
「今日はもう特に話すことはないから帰って大丈夫だよ。シーマさんにもよろしくね。」
「はい! ありがとうございます!」
そう告げて幸は足早に道場を出ていった。
幸を見送るしばしの間、残された三人の間に沈黙が流れていた。幸が出ていったのを確認した後、誠人は唐突に話し始めた。
「幸くん、結構いい旦那さんになりそうじゃない?」
「そうね、気遣いができる子ってやっぱりどんな時代でも好かれるし。」
「番も狙っちゃえば?」
「…………………」
いたずらっぽい笑顔を浮かべながら誠人は冗談っぽく話を振ったが、番はそれに返答せずに真剣に考えている様子で黙り込んだ。
「……番さん?」
「…………………」
「えっ!? マジ!?」
「えっ! なっ、何が?」
番は普段の姿からは想像できぬような裏返った高い声で驚いた。その顔はあきらかに訓練時よりも紅潮していた。
「今真剣に考えてたよね!?」
「ちっ…違っ……ちょっとだけよ!!」
いつも以上に言動は激しいが全く切れ味がない。しかも完全な否定をしなかったことで自分の中で本気度が増していることに気づき、さらに番は頬を赤く染める。
「……俺はお暇するわ。」
空気を読んだ大里は早々に道場から退散した。『避難』という言い方の方がこの場合は正しいかもしれない。
再び残された者たちの間には沈黙が流れる。ただしその沈黙は先ほどのものとは全く別の意味を孕んでいた。直接の原因を作ったのは自分だろう、というよくわからない責任感で誠人が話し始める。
「いや……俺はいいと思うよ。そう言うの自由だと思うし。」
「…………………」
そう言っても番は少しうるんだ瞳で誠人を睨み続けるだけだった。いつものテンションなら蹴りの一発でも飛んできそうなものだが、そのような流れにならないことがかえって番を辱めてしまったことに対する誠人の罪悪感を煽る。
「なんつーか…………ごめん。」
「……………………」
「……………飲み行こうか。」
その提案に番は俯きながらうなずいて答える。二人はてきぱきと準備を済ませ、そそくさと逃げるように道場を後にした。そして二人はそのまま町中の居酒屋へと吸い込まれるように入っていった。
その晩、誠人は酒豪の番に明日の訓練など知ったことかというレベルで飲み会に付き合わされ、グロッキー状態になるまで飲まされ続けた。残念ながら誠人の記憶を飛ばすことはかなわなかったが、潰れた際のだらしのない顔を写真に収めたあたりでやっと番の腹の虫はおさまった。
『乙女心は触れるなキケン』
他人の心にいたずらに踏み入ったことで誰も幸せにならない結末を招いたとして、誠人はその日からこの格言を自戒として深く刻み付けた。
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