第22話 桜の栞


 私は高橋に突然呼び出された。タイミング的に佐山の件となにか関係があるのだろうか。


 例の動画に関しては悔やんでも悔やみきれない。別の条件で交渉すれば良かっただろうか。もしくは、もう一度彼女に会って強引にでも奪えば良かった。


 あの時聞いた姉の声が耳に木霊こだまする。映像すら見るころができなかった……言いようのない虚無感があった。


 もう思い描いた復讐は成し遂げられないだろう。今まで復讐のためにやってきた事が全て無駄だったと思え、徒労感が増していく。


 私は財布の中から桜の栞を取り出した。姉が作った桜の押し花の栞。


 いつもこれをお守りのように持っていた。


「お姉ちゃん。私もうどうしたらいいかわからなくなっちゃった……」


 


 重い足を引きずるように私はあいつのマンションへとやってきた。リビングに通されソファーに座る。


「なにか疲れてるようだね。どこか具合でも悪いのかい?」


「ええ、ちょっと体が怠くて……せっかく先生に呼んでもらったのに……」


「逆に呼び出してすまなかったね。温かい紅茶でいいかい?」


 彼はキッチンへと向かい紅茶を淹れ始めた。ぼうっと虚空を見つめながら私はソファーで待っていた。ふとローテーブルの上にあった一冊の本が目に付いた。


 私は無意識にそれを手に取る。「バロック音楽と絶対王政」と書かれてあった。

その時、カチャリと高橋が紅茶をテーブルの上に置いた。


「ああそれ、今度演奏でやる曲について調べててね。世界史の桐谷先生に借りてるんだ」


 (桐谷先生……そういえば今こいつと付き合ってるって噂があったな)


 そう私が思案していると、高橋が私の横に座った。そして首筋へと顔を寄せ舌で舐めるような仕草を取った。私は少し身を引き僅かに距離を取る。


「ごめんなさい先生……今日は体調が悪いので……」


 その言葉を聞いて高橋はじっと私を見つめてきた。


 

 束の間の沈黙が流れる。




「羽田愛伊香は君のお姉さんだね?」



 時が止まったようだった。私がこれまで一番恐れていた言葉。こいつに最も知られたくなかった事実。


 ――ばれてしまった。


 私は言葉を失い、顔から血の気が引いていくのがわかった。


「おれとお姉さんとの関係は知っていたのかい?」


 私は無言を貫く。今はこいつに向ける言葉が何も浮かばない。


「……佐山になにか聞いたのか?」


 佐山という名前に体が僅かに反応する。


 はぁっと高橋はわざとらしくため息を吐いた。


「何を聞いたか知らないが、あんな女の言葉を信用しちゃダメだ。どうせ愛伊香の死の原因がおれにあるとか言ってたんじゃないか?」



 奴の口から姉の名前が出たことに嫌悪感を覚えた。何かが私を後押しした。これまで何度も言おうとして飲み込んできた言葉をこいつにぶつける。


「姉が亡くなる前日……あの日、家に帰ってきた姉は様子が変でした。私が話しかけても上の空でずっとボーットしてました。何かショックなことがあった。私はそう直感しました――」


 高橋は何も言わない。何も表情に出さなかった。


「あの日あなたは浮気をしていた。きっと姉はそれを見てショックを受けた。そして自ら命を――」



 その後の言葉を遮るように高橋は大声を張り上げた。


「それは違う! あれは事故だったんだ! あの日彼女は制服を着て学校へ行こうとしていた。きっと……きっとおれに会いに行こうとしていたんだ……」


 高橋は僅かに声を震わせた。まるで泣いているかのように。


「うぅ……おれも彼女に一言謝りたかった。償いをしたかった。愛していたんだ……愛伊香を心から愛していたんだ。あんなことしたおれが馬鹿だった……」



 あぁ違う……私はそんな言葉を聞きたかったんじゃない。


 ならどうして、姉との関係をずっと隠してきたの?


 こいつは心からの謝罪をしていない。浮気がばれたことを後悔しているだけ。


 姉の死は単なる失敗。思い通りに行かなかったことを悔しんでるんだ。


 大切なのは己のみ。姉の死の重さを微塵も感じていない。


 涙の一粒も出てないじゃないか……



 ――こいつの謝罪なんか求める価値もない。



 やっぱりぶっ壊そう。こいつの全てを。



 

 私は奴の目を盗んでさっきの本に桜の栞をそっと忍ばせた。


 こいつの正体に気付いて――


 そう願いを込めて。





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