第6話 浮気相手の正体
家に辿り着いた私は、しばらくベッドの上で呆然と佇んでいた。音楽室で見た光景が何度も何度も頭の中で繰り返される。自分が愛した人が他の女と交わる姿。
思い出すだけで胃液が込み上げてくる。
その姿を見るだけで愛おしく感じていた彼が、まるで別人に思えて仕方がなかった。優しい笑顔、愛しい声。時には一緒に笑い合い、時には慰めてくれた。
お互い愛し合っていると思っていた。
そしてこれからもそうあって欲しいと強く願っていた。
「うぅっ…うっ…」
裏切られた悔しさ、怒り、悲しみ。愛する人がこの世から消えてしまったような喪失感。ずっと一緒にいたいと思っていた修哉にはもう会えない。次会う時の彼はきっと私が知っているあの人じゃないんだ。
「うう…うぁああーん! うぁーん!」
涙が堰を切ったように溢れだした。全ての感情を投げ出して、まるで子供のように泣いた。顔を枕に
「また会いたい…また会いたいよ~またキスしてよぉ……また抱きしめてよぉ……」
布団にくるまり、自分で自分をぎゅっと抱きしめた。
涙は止まらなかった、ずっとずっと大声で私は泣き続けた。
その体が泣き疲れてくれるまで。
心がその愛を忘れてくれるまで。
翌日、いつも通りの時間に目が覚めた。
人間は割と丈夫にできてるようで、あんな出来事があっても体は健康を保ってくれた。今日は土曜日で学校に行く必要はないがゆっくり寝る気もしなかった。シャワーで昨日の分の汚れも落とし、普段通りにコーヒーを淹れる。今日はいつもより濃いめに淹れた。
一口飲んでふーっと息を吐くと少し頭がしゃきっとした。
スマホをテーブルに置いて修哉から届いていたメールを見る。送信は昨日の夜中。気づいてはいたが読めずにいた。
<もう寝ちゃった?
明日この前言ってたお店にランチ行かない?>
今までと変わらない彼からのメール。いつもだったらハート付きでラブラブメールを返していただろう。私は溜息を吐きながらメールの返信を打つ。
<おはよ~昨日は寝ちゃってた
ランチだけどごめ~ん
ちょっとテストの問題まだ完成してなくて今日は学校行かなきゃなんだ>
昨日までは絵文字が所狭しと飛び交うメールを打っていたが、まるで業務連絡みたいな簡素な返事。あからさまだなぁ私ってと、トーストをかじり苦笑いした。
しばらく経って彼からの返事が届く。今日の夜と明日のお誘いを、テスト問題を仕上げるという理由で次々断った。彼はなにかしらの違和感を感じてるだろう。でも今はまともに顔も見れない。
一度会って直接昨日の事を問い
でもきっと訪れるだろう修羅場を想像してしまうと躊躇してしまう。現実を受け入れたくない自分が心のどこかにいた。
いつもよりラフな服装に着替え、私は学校へ向かった。
学校へ着くとちらほらと何人かの生徒が登校していた。受験を控えた三年生などは休日でも学校で勉強している。確か希望者を募って特別授業をしている教科もあったはずだ。
本当はすでにテスト問題は完成している。
特にやることもなかったので図書室へと足を運んでみた。
廊下を歩いていると台車をごろごろ押している島田先生が見えた。
「お疲れ様です島田先生。テスト問題、間に合いそうですか?」
後ろから急に声を掛けられ、驚いた拍子に台車がぐるりと半回転する。案の定、大量の本がどさーっと台車から落ちた。私はジト目で彼を見て、はぁ~と深い溜息をついた。
「あれ? 今日は学校休みですよ桐谷先生」
慌てて本を拾い集めながら島田が言った。
知っとるわい! と思わずつっこみそうになる言葉を飲み込んだ。
「ちょっとテスト問題の大詰めで図書室に」
「あぁ~そうでしたか。僕もようやくゴールが見えてきました。お互いがんばりましょう!」
ゴール目前でまだこんな大量の資料って……思わず憐れむような目で島田を見てしまった。本を拾い上げる彼を横目に見ながら図書室へと向かう。
図書室では四、五人の生徒が静かに勉強をしていた。その中に一人見知った生徒がいた。確か名前は――
「こんにちは。
私が声を掛けると彼女はゆっくりと顔を上げた。
「こんにちは桐谷先生。はい、私家じゃ集中できなくて。」
少し照れながら彼女は答えた。開いているのはどうやら英語の教科書のようだ。
「世界史のテスト勉強も頑張ってる? 城山さん世界史ちょっと苦手でしょ?」
彼女のクラスの世界史は私が教えている。確か彼女はいつも平均以下の点数だったはずだ。
「はい、世界史はカタカナの名前とか覚えるのが苦手で……あと年表とかも」
「あら~じゃあ日本史とかも苦手なの?」
「島田先生は写真の問題が多いんです。私お寺とか神社は好きなんで」
あの男は一体どんな授業をしているんだ、と同じ教師として少しイラっとしてしまった。
「じゃあ勉強頑張ってる城山さんにご褒美! ちょっとだけ世界史のテスト問題のヒントあげちゃう」
「えぇ~いいんですか!? ばれたらやばいですよ?」
「大丈夫大丈夫。うっすらヒントだから。世界史の教科書って持ってきてる?」
はい一応、と言いながら彼女はカバンから世界史の教科書を出した。私はそれを受け取るとペラペラとページをめくっていく。
「そうね~今度の試験では~」
そう言った瞬間めくっていたページがピタッと止まった。
そこには昨日見たばかりの桜の押し花の栞が挟まっていた。それは修哉の本に挟まっていた栞と同じものだった。たぶん昨日、音楽室から慌てて逃げ出した時どこかで落としたはずだ。
「城山さん……これってあなたの栞?」
そう言った私の声は僅かに震える。
彼女は栞をゆっくり手に取ると少し寂しげな表情を浮かべた。
「はい、これは私の姉が手作りした押し花の栞なんです。花が好きな人だったので、特に桜の花が……」
そうなんだと、私は短く答えた。情報量が多過ぎてうまく頭が回らない。
なぜこれと同じものを修哉が持っていたのか。それともあの栞を今、城山さんが持ってるのか。あの時音楽室にいた女子生徒は彼女なのか……
その時、私の記憶の中の情報が彼女のデータをピコンと探り当てた。
――城山祐加理は吹奏楽部だ!
昨日の光景が鮮やかに映像となって蘇る。暗がりであまり見えなかったはずの女子生徒の顔。フォーカスを合わせていくように、少しずつその顔が輪郭を現す。
それは今まさに目の前にいる彼女の顔だった。
ほんの数秒、私は目を見開いて彼女の顔を見ていた。
手にじわりと汗が滲み小刻みに震え始める。
そんな私を不思議そうに見つめる彼女。
なにかに気付いたのか突然ふっと微笑みこう言った。
「もしかして昨日見ちゃいました?」
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