1章 奇妙な縁

 俺は騙されたのだ。

 こんなことになるとは露ほども考えていなかった。けれども今更だ。こと、ここにいる以上、どうしようもない。

 蒸し風呂のように暑く湿ったこの六畳程度の狭く真っ暗な部屋の中、ガクガクと肩を小さく震わせながら、そのように思う。いや、真っ暗と言っても僅かに隙間は空いている。1センチほど開いた腰板障子の隙間からは、その幅のままに室内に月明かりがキリリと差し込んでいる。それが畳の線に沿って伸び、こちらとあちらの境界線を形作っている。


 それが、その光が彼我を隔てているのなら。そう考えるといっそうのこと障子を大きく開け放ってしまいたい。この距離を、もっと広げたい。

 けれどもあいつは言っていた。この細い線が良いのだと。

 これ以上開けてしまうと境界にならないらしい。ただの不連続面だ。刀の刃先のように鋭く細い光で在るからこそ、闇に住まうものどもはそれを越えるのを躊躇するのだと。


 ホホウとフクロウが鳴く音がする。時間は確かに経過している。もう少し、もう少しで目の前のこの何者かは消え失せて朝が来る。早くこい、朝。

 これほど朝の訪れを待ち侘びたことなど、ついぞなかった。

 引き攣る口元から不意に漏れた、ふぅ、という息も妙に熱く、あわてて口元を塞いだ。こちらの存在を目の前にいるはずのそれに気取らせてはならない。決して。


 そもそも、この怪奇との出会いの発端は数日前に遡る。その日も俺は博打に負けて金に困っていた。

 むしゃくしゃしながらチョロチョロと人が姿を現し始める黄金色の往来を、影を長く伸ばしながらとぼとぼ歩いていた。

 新しい夜明け。

 もうすぐこの辺りには蜆を売る棒手振り移動販売の声も聞こえ出すだろう。その日常の眩しさが心底嫌になり、とっとと下宿に帰って用事を済ませてフテ寝しようと心に決めかけたそんな時。

 たまたま行き合った知り合いに声をかけられ、店仕舞いを始めようとしていた屋台を見つけて蕎麦をたかることにした。

 そいつの名前は土御門つちみかどと言う。


 土御門は明治10年に神田錦町かんだにしきまちに開かれたばかりの東京大学に何の因果か同学年で入学し、同じ理学部の学生となり、その予備門共通過程に編纂された時に隣の席に座ったのが縁となった。それが運の尽き、以降、何故だか学内で見掛けられるたびに声をかけられた。


 土御門は御華族様の血を引く見るからに高貴な身の上とひょうひょうとした佇まいを持ち合わせた、なにやらいけ好かない優男だ。あちらは文明開化の香りのするノリの効いた白シャツに高そうな生地の羽織袴。俺は着古した綿の着流し。

 つまり住む世界が違う。何故俺のような貧しい武家崩れのヤサグレに声をかけるのかさっぱりわからない。

 共通点がまるでなく、人前で声をかけられるとざわりと困惑の空気が広がるほどの差異なのだ。

 けれども土御門はそんな空気など頓着せず、俺を見かければ『お元気ですか』などと意味もなく声をかけてくる。そんな間柄。

 それが何故だか今、俺の隣で蕎麦を啜りながら話しかけてくる。


「どうしてそんなにお金がないのです?」

「なぁに在るところに金が集まっていくように、無いところからは金が逃げてっちまうのさ」

 見栄を張って格好良く答えても、そんなものは俺の心を鎮める役にすら立たなかった。隣に座る土御門のパリッとした清潔な出立ちは、一晩中丁半博打に明け暮れて汗染みていた俺を苛立たせるのに十分だ。

 蕎麦屋の亭主の表情からも、なんでこんな場末の屋台に高貴なお方がいらっしゃるんで? といった困惑が溢れていた。


 持つ者と、持たざる者。

 ある者にはわからないのだ。金のない理由など。おそらく土御門はこれまで金に困ったこともないのだろう。

 借金でも在るのか、と心配そう、でもなさそうにも見える様子で小首を傾げる土御門に反射的に借金なんてねぇと言い放ったが、よくよく考えると飲み屋のツケは多少ある。実質は借金と同じだ。

 それ以上は答えずにずるずると蕎麦を啜っていると、チリン、と店先の風鈴が涼やかに舞い、それに対抗するように朝一番の蝉がジィと気勢をあげた。今年の夏は暑い。今日もきっと暑くなるだろう。

 土御門はふぅん、と明け行く空を見上げ、頓狂な提案をした。


「お金が欲しいのですよね? ではお化けが出るか確かめてきてくれませんか。お給金をお支払いしましょう」

「突然何を言いやがる」

「突然も何も、お仕事の依頼ですよ。どうも築地本願寺つきじほんがんじ裏手にある長屋でお化けが出るんですって。なぁに1週間も泊まり込んで頂ければ結構です。最後の朝が明けた時、お金をお支払いしましょう。そうですね。50円でどうですか」

「ごっ50円……だと?」

 50円が一週間で手に入る、だと?

 思わず目を剥く。大卒銀行員の初任給が8円だ。日雇いなら毎日休まず働いたってせいぜい月5円程度。

「よし、頼まれた」

 今すすっている場末の蕎麦に換算しても、一杯6厘、8000杯分。

 一も二もなく飛びついた。

 土御門はにこりと微笑む。

「ありがとうございます。このお金にお金が集まるとよいですね」

 俺はこれまで幽霊なんぞ見たことはない。この明治の世でお化けなんているはずもない。その時はそう思っていた。

 だから、再び蕎麦に向き合った俺は、土御門のその口角がさらに不敵ににやりと上がったことには気づかなかったのだ。

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