第9話 粋な男と響く声
side北条粋
昼休みが終わる前に涙を流しながら意識を失った聖夜くんを武蔵くんが抱えて保健室に運び込みました。養護教諭の丸山先生からは眠っているだけだと言われましたが心配で堪りません。もしこのまま目が覚めなかったらと考えたくもないことを考えてしまって、手をきつく握りしめました。
予鈴が鳴れば武蔵くんと一緒に保健室から追い出されて、授業に出るように説得されました。放課後には様子を見に来て良いと言われても動けなかった僕の手を、先生に頭を下げた武蔵くんが強く引いて歩き出しました。
「ねえ、心配じゃないの?」
僕が何を言っても黙って前を歩く武蔵くんは、僕の力の抵抗も言葉の抵抗も、ものともしないで手を引いていきます。階段を上って僕を2年4組の教室の前に連れてくると、ようやく手を離してくれました。
「ねえ」
「放課後、迎えに来ます」
そう言って教室の方に向かって僕の背中を押した武蔵くんを振り返ると、その筋張った大きな手が頭の上に乗りました。
「聖夜は目を覚まします。だから真面目に授業出ないと起きてから怒られますよ。聖夜は成績も良いし真面目らしいっすからね」
向き合って初めて、武蔵くんが今にも泣き出しそうな目をしていることに気がつきました。
「武蔵くん」
「大丈夫っすよ、大丈夫」
自分に言い聞かせるように言った武蔵くんは、腕時計をチラッと確認して僕に背を向けました。
「僕が武蔵くんの迎えに行くよ」
「いいっすよ。俺の方が保健室から遠いんで。早く聖夜に会いたい」
鼻を啜る音と大きく動いた背中。僕が伸ばした手がその背中に触れる前に、武蔵くんは僕の前から立ち去りました。
「後輩の心配くらい、しますよ」
僕の声は授業開始のチャイムに掻き消されました。慌ててドアを開けて自分の席に座って教科書を取り出しました。
正直に言ってしまえばほとんど理解ができない数学の授業を受け終えて、次の古典の授業の準備をしていると山ちゃんが僕の机に腰掛けてきました。山田悠仁くんはクラスメイトで、良き友人だと思っています。
「ねえ、粋。あの鬼の弁慶と仲良いの?」
「弁慶、ねえ?」
「悠仁、鬼頭は鬼ではないぞ」
興味津々といった様子でニヤニヤと顔を近づけてくる山ちゃんに対応する気になれなくてどうしようかと思っていると、孝さんが近づいてきて山ちゃんを机から引っ張り下ろした。清水孝太朗くんもクラスメイトで、彼もまた僕の友人です。
山ちゃんが拗ねているのはいつものことですから放っておくとして、孝さんの言葉は気になりました。僕は武蔵くんのことをよく知りません。
「孝さんは、武蔵くんのこと知ってるの?」
「ああ、委員会が一緒でな」
「環境委員会だね」
無心になって草むしりをすることが好きで環境委員会を選んだ孝さん。そういえば、以前中庭で武蔵くんと花壇の手入れをしている姿を見かけたことがありました。
「鬼頭は目がキリッとしているのとよく怪我をしているせいで怖がられていると前に悠仁が言っていただろう?」
「ああ、町中で喧嘩して怪我しているところとかも見られているしね」
「そうなのか。まあ、俺の弟が鬼頭に助けられてな」
「マジで!?」
明らかにテンションが上がってまた机に座った山ちゃんを孝さんが引っ張り下ろしました。山ちゃんは唇を尖らせて拗ねているけれど、その相手をしていると授業の時間になってしまいかねません。申し訳ないですけど僕の椅子に半分こで座ってもらいました。鼻歌を歌いだしましたからとりあえず大丈夫でしょう。
「それで?」
僕が促すと、孝さんは瞬きと一緒にゆっくりと頷きました。
「裏路地で弟がカツアゲにあってな。弟が胸ぐらを掴まれていたところに居合わせた鬼頭が止めに入ったらしいんだ。カツアゲをしていた3人組は鬼頭の噂を知っていたんだろうな、慌てだして弟から手を離したんだと。鬼頭が弟を自分の方に呼んで逃がそうとしたところで3人組は鬼頭に殴りかかっていったんだが、鬼頭は弟を背中に庇って怪我をした」
卑怯なことをするものです。武蔵くんは優しい人ですから、孝さんの弟さんに怪我を負わせる危険性のある選択肢は選ばないでしょう。
「鬼頭は相手を殴ることなく耐え抜いたらしい。弟は怪我なく帰ってきて、この学校の制服だったことと助けてくれた人の特徴を教えてくれてな。すぐにピンときて、翌日の委員会のシフトの時間に会ったときにお礼をさせてもらった。そのときにも謙虚な姿勢で気にしないで欲しいと言ってくれたよ。だから鬼頭が鬼だとは思わないし、むしろ愛に溢れたやつだと思うぞ」
「愛に溢れたって、また恥ずかしい言い方」
「悠仁、いいか? 愛は世界を救うんだぞ?」
やんややんやと戯れ始めた2人をよそに、僕は胸がもやもやし始めました。
僕は中学時代までは親の権力の下で守られていただけだったのに、こんな自分になったのは親のせいだと自分を正当化していました。高校は同じ中学の人が来ないような少し遠い公立校を選んで、少しでもあの人たちから逃れたいと考えていました。
勉強はやっぱり苦手ですけど、人との向き合い方や人を大事にする方法を学んで、みんなからの推薦で生徒会長になれるくらいには昔よりもまともな人間になれたと自負していました。
僕は2年生になってすぐのころには聖夜くんに恋をしていました。彼に声を掛けることもできないまま生徒会長になった僕は、それまでより少し自信がついてからも声を掛けるタイミングを見計らうことしかできませんでした。
悶々としながら生徒会役員として校門で挨拶を始めたころのこと、聖夜くんは迷うことなく自分から挨拶をしてくれました。大半の人は、というより聖夜くん以外は受動的に挨拶をしたり無視したりしますから、それが普通だと思っていました。でも彼は違いました。そのとき、僕は聖夜くんのことをもっと好きになりました。
初めて校内の見回りをしたときに聖夜くんがクラスに残って勉強していることを知りました。けど、ただ眺めることしかできませんでした。昨日も話しかけるチャンスがないかと考えながらあの教室に行ったのです。ですが、静かな空間に響くペンの音は聞こえませんでした。
代わりに聞こえた武蔵くんの声を聞いて僕は焦ることしかできませんでした。1度でも話したことのある武蔵くんと、片や挨拶以外は全く話したことのない僕。
「今更ながら、何をやっているのでしょうか」
ついついため息を吐くと、孝さんが励ますように肩を叩いてくれました。
「何があったかは知らないけど、やり切る前に諦めるなよ。それと。愛は世界を救うけど、苦しくてなんぼだ。でも、伝えることを諦めてはいけない。諦めたら、取り返しがつかなくなるぞ」
いつも真面目な顔をしていますが、今はそれ以上に真面目な雰囲気が醸し出されています。そのせいで孝さん大人の色気が溢れ出てしまっていて、その雰囲気に当てられたようにクラクラします。
「孝太朗、去年から付き合ってた子と別れることになったんだって。孝太朗もいつもこんなこと言ってるわりに緊張しいで、口下手だから」
「え、いつの間に」
「昨日の放課後。孝太朗から逃げないように入り口で見張って欲しいと言われていてね。聞いてたんだ」
「僕が告白云々言ってる間に……」
「告白!?」
山ちゃんとこそこそと話していたけど、ついポロッと零してしまった言葉に反応されて大声を上げられてしまいました。クラス中の視線が僕に向いて固まってしまう。何を言えば良いのか分からずにただ背筋に冷や汗を流していると、ガラガラと元気よくドアが開きました。
「はろーえぶりわんっ! ん? どうした? 全員席着けよー」
古典の百田先生が静まり返った教室の空気を壊してくれたおかげで全員が席に戻りました。ですがそんな中でも、ちらちらと僕に視線が向けられているのを感じます。あまり目立ちたくはなかったから誰にも言わずにいたのですが。
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