ウロボロス - 宵闇通り13番地 -
月森冬夜
Book of Ouroboros
I.
Prologue
地表が「昼の面」と「夜の面」に分かれてどれほどの時が経っただろうか。
人間たちはおもに昼の面に住み、健全な生活を送っていた。
ただ、健全でない者と、陽の光の中で暮らせぬ闇の住人たちとが
- Ouroboros -
前編
Book of Ouroboros
男は左肩を押さえて懸命に走っていた。
肩の傷は骨まで達し、押さえた指の間からは血があふれていた。
コンクリートやレンガ造りの高く古い建物が建ち並ぶあいだを駆け抜ける。
通りにも建物の中にも人の気配はほとんどしない。掘り起こされた遺跡のように生活臭のしない街だった。
男は何度も転びそうになりながらいくつもの角を曲がった。
陽は沈んでいる。しかし、夜が来ることもなければ、再び陽が昇ることもない。昼と夜の境にあるこの街では、永遠に夕闇だけが続いている。
決して来ることのない夜を待つ薄暗い空の下、時折見る人影は、あまり男に興味を示さない。
血にまみれた男が血相を変えて走っている姿など、この街では茶飯事なのだ。
小さな個人病院の看板が目に入った。しかし、男は走る速度を落とさない。むしろ、何者かに追われているように、そして、その追跡者が迫ってきたかのように足を速めた。
もはや人間が出せる速度を超えていたが、あまり疲れたようすは見せなかった。
(目指す場所は病院ではない)
男に必要なのは怪我を治療してくれる者ではなく、命を救ってくれる者なのだ。
(13……)
男は走りながらその数字を探した。
目指している場所は地図に載っていないらしい。走りながら、風景のなかに手がかりを求める。
超人的とも思える体力を持つ男にも、さすがに疲労の色が見えはじめたころ、ようやく目当ての場所を見つけた。
石作りの建物の壁に手のひらくらいの大きさで「13」と書いてある。
地図に無い場所。
宵闇通り13番地である。
噂には聞いていたが、実際に訪ねるのははじめてだ。
噂も、決して良いものばかりではない。
こんな事態でなければ、なるべくなら来たくない場所であった。
男は肩で息をしながら緊張した面持ちで、あまり大きくない建物の前に立ち、ドアノブに手をかけた。
ドアを開けると、掛けてあった金属がぶつかり合い澄んだ高い音を響かせた。美しい音色に迎えられて入った場所は、おおよそ思っていたイメージと違い小綺麗な部屋だった。
踏み入れた床には埃ひとつ落ちていない。
男は少し拍子抜けした。場所を間違えたかと思ったほどだ。
木材を組んだ棚に大小のガラス瓶が整然と並べてあった。明るい照明はそれらを美しく照らし出していた。
ガラス瓶の中には、薬か調味料のような色とりどりの粉末や液体が入っていたが、男の知識ではなにに使うものなのかまではわからなかった。
「いらっしゃい」
男が呆然としていると、棚の陰から女がひとりあらわれた。
ウェイブのかかった長い銀髪の女だった。髪とおなじ色のチャイナドレスを着ている。左目尻の泣きぼくろが印象的で、落ち着いた大人の色香をまとっていた。
よく見ると左右の目の色が違う。左目が青色で右目が
どこかミステリアスな雰囲気を漂わせているのはそのせいかもしれない。
(主人は女だと聞いていたが、この女がそうだろうか?)
男が言葉を探せず突っ立っていると、女はゆっくりとした口調で声をかけた。
「なにをお探しかしら?」
女は男の怪我を見ても一向に動じたふうはなかったが、赤黒く染まったスーツの左腕をつたって落ちる血が、フローリングの床を汚しているのが気にくわないようで、視線を下に落とすと、ほんの一瞬鼻にしわを寄せた。
「追われている。助けてくれ」
男は女の表情には気づかず、自分にとってもっとも大事なことを簡潔に述べた。
尋常な事態ではないことはわかっているはずだが、女は眉ひとつ動かさなかった。
「陳列棚に無い商品をご要望でしたら、直接主人に掛け合ってくださいませ」
「こちらへ」とうながされて、男は店の奥へと進んだ。
(この女が店主ではなかったのか?)
よく見ると棚にはガラス瓶だけでなく、本などもたくさん並んでいる。
(それにしても、外から見たときはこんなに広い建物ではなかったが)
見た目の大きさなど当てにならない。
この街では、ほとんどが曖昧なものばかりなので深く考えないことにした。
「マスター」
銀髪の女が声をかけた先に、この店の女主人が座っていた。
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