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 ヴィクトリアは見ていたのだ。

 杯を落としたドッドソン侯爵が倒れ、苦しんでそのまま息絶えるのを。

 そして、それを眺める王太子のことも。

 王太子が熱のない視線でそれら一連をただ眺め、一言「自殺だな」と言うのを聞い

た。


 今この場にいる全ての者が同じように聞いていたはずだ。


 一人の人間が毒を飲み、苦しんで死に、その事実にどのような疑問を抱くことも許さず自殺と断定する王太子を目の当たりにした。事件として取り沙汰されるまでもなく自殺に決まった。

 それを、ただ見ていた多くの者がいる。一人の人間の、決して取り返しのつかない死という事象を。


 内心で誰が何を思おうとも、本来であればそれで終わりだ。

 他の誰でもない王太子が断定した。それが全て。それが事実。


 覆すことのできない過ぎ去った過去として片付けられようとしていたそれに、不遜にも待ったをかけたのはドッドソン侯爵の姪に当たるヴィクトリア・リデルのみ。

 ヴィクトリアはこの件を、自殺などという事実で片付けさせはしない。

 そう決め、だからこそ声を上げた。


 ちなみに先程王太子殿下が口にした「親族としての情」などというものは少しもありはしない。

 その死を悼む気持ちすら、実際のところ小指の先ほども湧いてはいない。むしろ感じるのは苛立ち、腹立たしさ。こんなところであっさりと死んでしまった、その呆気なさを詰る気持ちしか湧いてはこない。


 ドッドソン侯爵に対し、死んで欲しいと思ったことが皆無とは言えない。

 むしろ逆だ。然るべき時、然るべき場で、いっそヴィクトリア自身が引導を渡したいと思っていたぐらいには死んで欲しいと思っていた。


 ヴィクトリアがいつか用意するつもりだったその時を、待つことはできなかったのだろうか。

 本当に、腹立たしい。

 生きてきれば不愉快で、ヴィクトリアの父を無能と蔑み、母を無視し続け、ヴィクトリアを厄介者としか扱わなかった。死してなお腹立たしい伯父。


 今この瞬間、ドッドソン侯爵自身が無様な死顔を晒し、この場の誰にとっても不愉快で厄介なものでしかなくなっている。

 可能であれば「今のご気分は?」と聞いてやりたい。


 辺りは静まり返っていて、庭の噴水の音までもが聴こえそうだ。

 聴衆は物音ひとつ立てず、次の言葉を待っている。


 今宵の夜会に集ったのは、王家にとって、この国にとって、その繋がりが双方にとって益となる主要な家の者達。

 王族を含め、黒いものを白く、白いものを黒くする特権階級の者達である。

 ヴィクトリア・リデルもまた、人の死であろうとも利用し、好機と変える。


「それでは、王太子殿下主催の夜会で供されるものに毒が仕込まれていたことになってしまいます」


 誰かが息を呑む音が聴こえた気がした。


 この場にいる全てのものに一言一句漏らさず届くように、ヴィクトリアは明瞭に言葉を紡いだ。

 まずはこの件が、警戒を緩めたドッドソン侯爵による消極的な自殺であると、そう断定する王太子の言葉を覆さねばならない。


 王太子が、その口の端を釣り上げた。その相貌が笑みを作る。獰猛な、笑みを。


「王太子殿下主催の夜会です。まさか毒を仕込むような不心得者が? それはあまりにも」


 不手際、という言葉をヴィクトリアは敢えて呑み込んだ。

 別に自殺志願者ではないのだ。いたずらに王太子への糾弾を声に出す必要は無いだろう。

 だが、意図は十分に伝わったはずだ。


 ちょうどそのタイミングで、遠くに喧騒が聴こえた。そして、それが近付いてくる。


「なるほど、噂に違わぬ面白いご令嬢だな。いいだろう。確かに、毒を仕込んだワインが提供されたのであれば、主催である私の不手際だ。それは困るな。ならば、侯爵は自ら毒を混ぜ、自ら毒を呷ったのだろう。ふむ、結局自殺になってしまうな。さて、どうする?」


 それはあり得ない。誰もが見ていた。

 だが、ここでそれを指摘したところで無駄だ。ヴィクトリアを支持する者も、その指摘を肯定する者もいないだろう。

 今ヴィクトリアが相手取るのは気分次第で常識すら塗り替えるこの国の王太子、リチャード・テニエル。


 言葉を紡がねばならない。止めてはいけない。追い詰められていると、感じさせてはいけない。

 まだ、終わるわけにはいかない。


 王太子が獰猛で嗜虐的な笑みを深めた。

 今この瞬間が愉しいと、その顔が物語っている。減らず口を叩く女を嬲るのが、この上なく愉しいと。


 その王太子の視線が正面の何かを捉えヴィクトリアから逸れた。


 どうやら、間に合ったらしい。

 それを認め、ヴィクトリアもゆっくりと王太子の視線を追い振り返る。

 振り返えったちょうどその時、王太子の視線を遮ることを良しとしない者達による暗黙の配慮によって、玉座から入口までの人垣が割れた。 


 ヴィクトリアに劣らずむしろヴィクトリア以上に無表情の、黒一色の地味なドレスを着た侍女が床に押し付けた男の背に乗り上げ、腕を捩じり押さえつけている姿がそこにはあった。

 男の口には布が噛ませてあり、この夜会で給仕をしている者たちと同じお仕着せを着ている。


「前置きが長くなりました。どうやら下手人がいたようです。自殺であれば、そのような者はおりませんわね」


 ヴィクトリアの声が、白々しく響いた。 


 その下手人であるとされた男は、背にのしかかられているとはいえ抵抗の素振りすら見せず、悄然と項垂れており、まるで散々どつき回された後のように服装も髪も乱れ草臥れている。ここに至るまでに気力を奪い尽くすような何かがあったのだろう。


「ほう、下手人」


 王太子が僅かに目を細めた。


「ええ、下手人です。王太子殿下が敷く万全の警備体制の中ですら杯に毒を混入させたのです。さぞかしやり手の、闇の世界で名を馳せる者なのでございましょう」


 実際どうかは知らないが。


 ヴィクトリアが言い切った次の瞬間、衆目の中で床に押さえつけられていた男が急に苦悶の表情を浮かべ、目を見開いて、そのままぐったりと動かなくなった。


 衆目が騒ぎ出すより先に、直ちに駆け寄った近衛の騎士が男に圧し掛かっていた侍女を下がらせ脈を確かめる。

 見える範囲の身体を改めた騎士が男の首筋を注視する。針のようなもので刺され変色している小さな傷を発見した騎士が、王太子に向けて首を横に振った。


「傷口の様子から察するにおそらくは、毒かと……」


 死体が増えた。


 さざめくように、周囲に困惑が広がっていく。


 平静を装うヴィクトリアも、さすがに内心少しは驚いた。あまりにも早い上に、こんなにも人目を憚らないことに。


 侍女がヴィクトリアの視線をさりげなく誘導した。

 その視線の先には、扉の陰と同化するように立っている黒づくめの男。黒いフロックコートに艶のある黒のトップハット。片手で抑えた帽子の縁からは、笑みの形に歪んだ口元と、鮮やかな金髪が覗いている。

 黒一色でありながら、どういうわけか派手な印象を受ける出で立ちの長身の男は、ヴィクトリアの視線に気付いたのか、揶揄う様にひらりと手を振った。


「片付けろ」


 特に興味もなさそうな王太子が騎士に向かって軽く手を振り、下手人の遺体は速やかに片付けられてゆく。


 呆気なく片付けられる取るに足らない死が、またひとつ。

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