第5話

「しかし十市がお解き放ちになって良かったねえ、牡丹ちゃん」

「まだ本当の下手人が見つかってないから油断はできないけれどね」

 あいたーと言う顔をしたのは代官所の胃痛持ちだ。私の気の強さは知ってるから、なんとか手綱を取っておきたいのだろうけれど、そうはこちらも問屋が卸さない。掛けられた疑いが完全に晴れるまで、緋牡丹はくすぶったままなのだ。鮮やかな旬が訪れない。それは嫌だ。もやもやしたままなのはしゃらくさい。ふんっと鼻を鳴らすと、爺さんはまあまあ、と言って私からの酌を受ける。代官所だって面倒な案件はさっさと片付けてしまいたいだろうに、どうにかのんべんだらりとして見えるのは、ここが彼らの疲れを癒すところだからだろう。ちょっとぐらいは怠けた姿を市井に見せても良い、数少ない場所だ。妓楼と言うのは。駄目な奴でもそっと胸に抱いてやる。料金分は優しくしてやる。それにはしかめっ面は駄目だろう、ふぅっと息を吐いて私は爺さんにしな垂れかかって見た。枯れ掛けてはいるものの爺さんも男なのでおうっとなる。

 上目に見上げればびいどろ色の眼だ。前に和蘭人の客から聞いたところによると、どこかの国では緑の眼と言うのは嫉妬の色を指すらしい。或いは緑の袖は遊女だとか。聞き流したもんだが、人形めいた白粉と碧眼は可愛らしく見えるだろう。私もまだ十六、若いと言って良いのだから。

「じゅういち、の意味はまだ解らないのかい?」

「まだ解けてないなあ。そもそも本当に書いたもんか、書きかけだったんじゃないか、と番屋の連中も疑い出してる。子供が暗がりで死にかけの父親の書いたものを見た、じゃあ、仕方ないと思うが。おまけに吐き出された血で現物は残ってないと来たもんだ。食い詰め浪人の仕業にしても仕事が綺麗すぎるし盗まれたものもない。どうしたもんか、代官所だって頭を抱えてるところだよ」

「今日はよく喋ってくれるじゃないか。何だい、一服したい気分なのかい? 十市も、代官所の中がピリピリしてるって言ってたしねえ」

「和蘭側からやいのやいの言われてるんだよ。牡丹ちゃんの一声がなかったら十市が下手人として突き出されてたのは確実だったね。今はお解き放ちの身だけれど――」

「このままじゃまた捕まって、和蘭側に突き出されるかもしれないってのかい。やっぱり」

「そうなんだなあ」

 胃痛持ちの爺さんはきゅっと盃の酒を飲み、溜息を吐いて見せた。それからまた懐手して腹をさする。爺さんも胃に来てるんだろう、じゅういちの謎には。じゅういち。本当にじゅういちだったのかすら怪しいと来たら、手掛かり無しで十市が突き出されるかもしれない。否、もう十市って事にする手配が進められている可能性だって高いかも。十市でなかったとしても十市だったことにして。じゅういちだったことにして。その方が面倒くさくないから。妓楼に来ては管を巻く役人たちの様子を見ていると、やっぱり面倒ごとは嫌いなんだと思わされざるを得ないから。十市はまだ全然、安全圏じゃない。

 出島に住んでいても蘭学は好きだが和蘭人も無条件に好き、と言う輩は多くない。やれあっちの先生は安く教えてくれるとか、やれこっちの先生は大枚はたいたのに知ってることしか教えてくれないとか、色々あるのだ。と聞いている。私の良く飛ぶ妄想はすべて聞きかじりに過ぎないのだ。ろくに外にも行けない自分の身が疎ましいとさえ思う。長谷部の旦那にだって会いに行くことは出来ないし、ヘンリーともう一度話をしたいところもあるがそれも叶わないし。


 ヘンリー。そうだ。あの子だけが今のところ唯一の手掛かりなのだから、やはりあの子にまた来てもらいたいが。長谷部様は嫌な顔をするだろうな。子供なんて思ってるほど子供じゃないのに。少なくとも私が店に出されたのは十四の頃なんだから、十ぐらいの男の子なんて子供でもないだろう。否、子供だとしてもこのままじゃ一人で生きて行く訳にもいかなくなる。父親の形見の設計図でからくりを作って生計を立てる? だがご献上の品まで任されたという父親の腕に届くのだろうか、あの子は。それにあの寄木細工の厘。あの中身も気になる。かさかさ。紙? 一体何を記してある?

「爺さん、ヘンリーには会ったかい?」

 顔がちょっと赤くなって良い気分になっている胃痛持ちに、私は訊いてみる。

「へんりぃ? ああ、あの異人の子か。否、代官所には一回しか来てないから見てないなあ」

「十市の首実検の時だね。ってことは会うにはやっぱり長谷部様にお頼みするしかないか」

「なんじゃい、まだまだ青いぞあの子供は。妓楼に連れて来るにはまだ早い」

「何だい爺さんこっちに来て長いのに知らないのかい? 昔火事で母親を亡くした金持ちの子供が、母親に似た遊女を身請けしたこともあるんだよ。子供がいたってどうってことはないし、十を超えてりゃ男だよ。ようは金さえ持っていれば良いのさ。と言うわけでもう一度長谷部の旦那に、ヘンリーを連れてきて欲しいって言ってくれないかな。そしたら今日は天国見せたげるよ?」

 そそっとくっついて胸元を見せると、うっと爺さんは赤い顔をする。しかし、ぶんぶん頭を振って、胃をぎゅっと押さえた。ちっ。通じないか、色仕掛け。

「そんな訳にゃいかない。わしだって自分の身が惜しいんだよ、牡丹ちゃん。それに今はもう使い物になるもんでもない。無理だし無駄だよぅ」

「じゃ、また書き付け送るか。それを渡すぐらいならしてくれるだろ? なーぁ」

 ふ、と耳元に熱い息を掛けてやると。こくこく頷かれた。よしよし。代官所の連中の弱みは大概知っているので使い勝手が良い。今日も今日とて新入りを混ぜた四・五人団体様だから、まずは新入りの弱みから握っておくか。

 その前に書き付けだ。前と同じように文机に向かい、私は筆を立てる。爪印ももちろん捺して。じゅういち。一体何を意味する言葉だったのか。それを調べて行かなきゃ、どうにもならないんだ。浮かぶのは殴られた痕に似合わないへらへら笑い。あいつは昔からそうだった。仕事が甘いとなじられても、殴られても、蹴られても、少しすればケロッとしている。だからって殴って良いわけじゃないし、蹴って良いわけじゃない。偽の犯人に仕立て上げられて異人たちに処刑されて良いはずもない。でもあいつ一人じゃその脚本から逃げるのは無理だ。私一人でも駄目だ。外に、伸ばしていく手がなければ。

 精一杯手を伸ばして、私が掴むのは、お代官の袖だ。そこまで手が届くようになるまで随分待った。かむろの頃から媚びへつらって、やっと手にした確かな筋だ。今使わずしてどうする。私は、私の為に、十市を助けなければならない。この緋牡丹に賭けて。 

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