第二章 発火雨

第二章 発火雨はっかう


       一


 警察署を出た紘彬と如月は雨が降っているのを見て持参した傘を開いた。

 二人の前を消防車がサイレンを鳴らしながら走り去っていく。

 消防車が路面をおおった水をね飛ばす。


「最近多いですね」

発火雨はっかうってそう言う意味ないんだけどな」

「はっかう?」

「四月初めごろに降る雨の異名。モモの花が咲いてるときの雨は遠目には火が燃えてるみたいに見えるからだそうだ。杏花雨きょうかうとか、桃花とうかの雨とも言うらしい」

「ああ、モモの花って赤いのもありますね」

 如月も遠ざかっていく消防車に目を向けた。


 紘彬と如月は連れだって紘一の家に向かった。

 二人は定時に退勤できた時は紘一の家に行って三人でゲームに興じている。


「面通し? ドラマでやってるヤツ?」

 紘一が画面から目を離さずに聞き返した。

 三人でレースゲームをしていて競り合いだからほんのわずかの間でもよそ見をしたら負けてしまう。

「そう。やってくれるか?」

「いいよ」

「なぁ、もしかして桃花ちゃんと蒼治もいたのか?」

「え、それは……」

 紘一が口籠くちごもった。

 紘彬と同じ心配をしているのだろう。


「桃花ちゃんはたとしても聞かなかった事にする」

「蒼ちゃんは?」

「どの程度見てたかによるな。顔を見てないなら無理だし」

 紘彬がそう言うと、

「襲われたのは桃花ちゃんだよ」

 と打ち明けた。

「そうなのか!?」

「うん。ただ公園の近くで声を掛けられるまで桃花ちゃんだったって気付かなかったんだ。犯人に気を取られてて」

 正確には祖父に知られないようにするにはどうしたらいいかで頭が一杯だったと言うべきか。


「蒼治は?」

「見てたらしいけど、どこにいたのかは聞いてない。桃花ちゃんと一緒に声掛けてきたけど、襲われたとき桃花ちゃんは友達といたから別のとこにいたんだと思う」

「じゃあ、お前は桃花ちゃんや蒼治があそこにいたことは事件の時には知らなかったんだな」

 紘彬が念を押すように訊ねた。

「うん。蒼ちゃんにも証言頼むの?」

「蒼治が自発的に警察に申し出れば別だが、俺の方から頼む気はない」

 紘彬の言葉に紘一は安心したらしい。

 その表情からすると紘一もえて蒼治に警察が目撃者を探しているという事を教えるつもりはないようだ。


 翌日、紘彬と如月は大塚にある監察医務院かんさついむいんにいた。

 数日前に起きたビル火災の現場から焼死体が発見され、司法解剖の結果が出たとの事なので説明を受けに来たのだ。


 紘彬は遺体の説明を受けながら死体検案書に目を通している。

 被害者は未成年の少女だった。

 死因に不審な点はないらしい。

 いて言うなら栄養状態が悪い事くらいか。

 しかし若い女の子はダイエットだと言って食事を抜いたりするので普通の家庭の子でも栄養不良は珍しくない。


「被害者の身元は分からないんですか?」

 身元が判明すれば交友関係などを洗って恨みを買ってなかったかなどを調べられる。

「オフィスビルの、それもき部屋から発見されたので……」

 焼け残った物の中に所持品らしき物は発見されなかった。


 せめて住宅か職場で発見されたなら、この人ではないかと見当を付けることが出来るし、当たりを付けられればその人のDNAが残っていそうな物を探せるのだが、どこの誰かも分からない状態ではそうもいかない。

 レントゲン写真を見る限り骨折した跡もない。

 骨を固定するためのチタンプレートでも入っていれば身元の割り出しも少しは容易だったのだが。

 そうでなくても骨折したことがあれば周囲の人間は知っていたはずだから手懸かりになる。

 歯も虫歯はあるが比較的最近のもので治療痕も無い。

 歯並びを見た感じでは歯列矯正もしていないようだ。

 被害者はこの様子だと歯科に掛かった事はないかもしれない。

 歯科にカルテが無ければ歯形による鑑定も出来ない。


 話を聞き終えた紘彬と如月が部屋を出ると廊下に初老の女性が所在なげに立っていた。


「あの人は?」

 紘彬が職員に訊ねると、

「被害者の祖母かもしれないと申し出てきた女性です」

 という答えが返ってきた。

「なら親と親子鑑定……」

「それが、お孫さんのご両親は大分前に亡くなったとかで……」

 職員が困ったように言った。

「けど誰なのか見当が付いてるなら家に行けばDNAが……」

「どこに住んでいたのか知らないそうです」」

 紘彬と如月は顔を見合わせると女性の元に行った。


「失礼ですが……」

 紘彬と如月は警察手帳を見せた。


 初老の女性によると孫は十七歳、二年前に家出して消息不明だったそうだ。

 検死結果の推定年齢に近い。


「お孫さんだと思う根拠は……」

「最近、あの辺りで孫を見掛けたという人がいて探していたんです。そうしたら火事の翌日から見ていないと言われて……」

「あの、お孫さんと電話やメールなどでのやりとりも無かったんですか?」

 如月が訊ねた。

 連絡すらしないほど疎遠そえんの祖母が孫かもしれないなどと申し出てくるものだろうか。

 如月の疑問を察したのだろう。


「孫は小さい頃に両親を亡くして、私の息子――長男が引き取って育てていたのですが……」

 伯父一家との折り合いが悪く、高校に入学した頃に荒れて家を飛び出してしまったらしい。

 女性や彼女の息子が住んでいるのは遠く離れた他県で、彼女もまさか孫が東京に来ていたとは思わず、ずっと地元で探していたとのことだった。

 それが最近、中学の頃の同級生が東京に修学旅行に来て彼女を見掛けたと教えてくれたので捜しに来ていたらしい。


「お孫さんの使っていたヘアブラシか歯ブラシは残ってますか?」

「いえ、家出して半年もたないうちに、嫁が孫の持ち物を処分してしまって……」

 女性が明らかに嫁――長男の妻――を心良く思っていない口調で答えた。

「お宅に泊まりに来たときに使用した物は」

 女性が首を振った。


 二年間も家の中を掃除をしてないという事はないだろうし、口を付けたあと洗ってない食器などもないだろう。

 探していたなら帰ってきた時すぐ部屋を使えるように常に綺麗にしていたはずだ。

 となるとDNAが採取出来る見込みは薄いだろう。


「住んでいるところか職場にも心当たりがないという事ですか?」

 紘彬の質問に女性は、

「ホームレスのように見えたと言っていました」

 言いづらそうに答えた。

 紘彬と如月は視線を交わした。


 ホームレスになったのが最近ならともかく家出は二年前だ。

 もし家出直後からホームレスだったならスマホは手放していただろう。

 料金が払えないなら所持している意味が無いし食事もろくに出来なかったのならとっくに売り払って食費にてていたはずだ。

 それなら栄養状態が悪かったことの説明も付く。


 祖母と孫では親子鑑定も……。


 紘彬はふと気付いて、

「お孫さんはどちらのお子さんの子ですか?」

 と訊ねた。

「え……?」

 女性が戸惑ったような表情を浮かべる。

「あなたはお孫さんの父方か母方か」

 紘彬の説明で質問の意味を悟ると、

「母方です」

 と答えた。

 紘彬は礼を言うと職員に声を掛けた。


「あの女性と遺体のDNA鑑定してみてくれ」

「えっ! 孫じゃなくて娘の可能性があるんですか!?」

「まさか、あの人とご遺体の父親が不倫して出来た子供とか!?」

「あれだけの質問でそんな事まで分かったんですか!?」

「お前らメロドラマの見過ぎだ」

 紘彬が冷めた口調で言うと如月と職員が決まり悪そうな顔になった。

「彼女が母親なら親子鑑定が出来るんだし、探してたくらいなんだから正直に娘だって言うだろ」

「祖母と孫では親子鑑定は出来ませんよ」

 職員がそんな事も知らないのか、と言う口振りで答えた。

「彼女は母方の祖母ちゃんだ。娘の娘!」

「あっ!」

 職員はようやく紘彬の言わんとしていることに気付いた。

「頼んだぞ」

 紘彬はそう言うと如月と共に監察医務院を後にした。


       二


「紘一」

 校門から出たところで声を掛けられて振り返った。

 蒼治が手を振りながら近付いてくる。

 紘一と同様、鞄を頭の上にかざして雨をけている。

「蒼ちゃん」

 紘一も手を振る。

「今帰りか? 急がないならそこで雨宿りしていかないか?」

 蒼治が十メートルほど先にあるファーストフード店をした。

「いいよ」

 紘一がそう答えると二人は店に向かった。


「この前の事件の犯人、捕まったらしいな」

 店内の椅子に座ると蒼治が言った。

 ニュースでやっていたからそれを見たのだろう。

「うん」

 紘一は犯人の面通しに行ってきたことを話した。

「ニュースで血痕がどうのって言ってたよな?」

「逃げてる途中でフェンスの針金の部分でケガしたらしい」

 紘一は紘彬から聞いた話をした。

「へぇ、そんなところに付いた血痕を見付け出したなんてすごいな」

 蒼治が感心した様子でコーヒーを飲んだ。


「蒼ちゃん、旅行行くの?」

 紘一は蒼治の鞄からのぞいている旅行のパンフレットを見ながら訊ねた。

「うん、実は彼女と二人で行こうかと思っててさ」

「え!? 彼女の親御さん、許してくれたの!? そんな仲なの!?」

「まさか……」

 蒼治は苦笑して手を振った。

「親には内緒だよ。ていうか、まだ彼女にも話してなくてさ。だから断られるかもしれないし」

 どうやら蒼治は惚気話のろけばなしがしたくて紘一をお茶に誘ったらしい。

 紘一は延々と彼女の話を聞かされる羽目になってしまった。

 おそらく周囲の人間は耳に胼胝たこが出来るほど聞かされていて相手にしてくれなくなったのだろう。


 でもこんなに人を好きになれるなんて羨ましいな……。


 自分にもいつかこんな相手が出来るのだろうか、と思いながら蒼治の話に耳を傾けていた。


 駐車場で殺害された小林次郎の捜査のため紘彬と如月は小林の勤務先の会社が入っているオフィスビルで聞き込みをしていた。

 その時、紘彬のスマホの着信音が鳴った。


「桜井、如月、大至急これから言う場所に向かってくれ」

 紘彬が電話に出ると団藤が言った。

 同時に如月のスマホの着信音が鳴る。

 画面に団藤の指示した住所の地図が画面に表示された。


「パトカーのサイレンは鳴らすな。通り沿いのパーキングエリアで車から降りろ。そこからはこちらが指示するまでは自然な感じで歩いて向かえ」

 団藤の指示に紘彬と如月は駆け出した。


 家の中にチャイムの音が鳴った。

 初老の男性がドアを開いた途端、男達が押し入ってきた。

 真っ先に入ってきた男が男性を殴り付ける。

 床に倒れた男性を他の男達が拘束した。


「声を出すな」

 男の一人がそう言うと、他の男達が初老の男性を立たせてリビングに連れていった。

「金庫はどこだ。開け方を言え」

 男は威嚇するように拳を振り上げた。


「そこまで」

 如月が背後から男の手首を掴んだ。

 驚いた男が如月の方を向いた途端、

「いてててて……」

 別の男の声が聞こえてきて男は手首を掴まれたまま振り返った。

 初老の男性が男の一人を取り押さえている。

 如月に腕を掴まれている男が目をいた。

 けもせずに殴られた上にリビングまで素直に連れてこられたから、か弱い年寄りだと思い込んでいたのだろう。


 残った三人のうちの一人が廊下へ飛び出していく。

 もう一人は庭へ出ようとして制服警官が待ち構えてるのに気付いて足を止めた。

 玄関の方から上田達が男を取り押さえているらしい物音が聞こえてくる。


 最後の一人は優男風の紘彬なら倒して逃げられると踏んだのだろう。

 別の部屋への入口に一人で突っ立っている紘彬の方に向かって行く。

 仲間が簡単に制圧された時点で見た目はてにならないって気付きそうなものだけど……。

 如月は白い目で男を見た。


 ここにいる中で一番強いの桜井さんそのひとなんだよ……。


 男がゴルフバッグに入っていたクラブを掴んで取り出した。

 振り上げようとしてクラブの先を壁にぶつけてしまう。


「バカだな。狭い室内でそんな長いもの振り回せるわけないだろ」

 紘彬の冷静な言葉に逆上した男はクラブを手放すとトロフィーを掴んで襲い掛かってきた。

「お、学習したな」

「犯罪者に教えるのやめて下さい!」

 如月が捕まえた男に手錠を掛けながら突っ込んだ。


 紘彬はトロフィーを持っている腕を掴むと足払いを掛けた。

 男が体勢を崩す。

 紘彬は掴んだ腕を男の背に回すようにすることで身体を反転させ、うつ伏せに倒れさせた。

 手首を軽くひねってトロフィーを手放させる。

 紘彬は部屋の中を見回した。

 そこへ連絡を受けた制服警官達がやってきた。


「お、ちょうど良かった、手錠頼む」

 見知った顔に気付いた紘彬が巡査に声を掛けた。

 紘彬の思惑を知っている巡査が苦笑いを浮かべる。

「桜井警部補、こいつ、来月結婚するんで……」

 と言って隣にいる巡査をした。

 手錠を掛ければ結婚式のスピーチで上司が「新郎は先月、犯人を逮捕しました」と言える。

「そうか、じゃあ、頼んだ」

 紘彬が頷いてみせると巡査が手錠を取り出した。

「ついでに報告書……」

「この場にいなかった巡査に報告書は無理です!」

 如月が再度突っ込んだ。


「あのパトカー、うちのじゃないよな」

 家の外に出た紘彬が強盗犯を乗せて去っていくパトカーを見送りながら言った。

「広域強盗事件は警視庁の担当ですから」

「なんだよ、危険な仕事は俺達にやらせて手柄は自分達のものかよ」


 手柄げるの嫌がってる人がなに言ってんだか……。


 如月は呆れた視線を紘彬に向けた。


「手柄はともかく、住民の安全を守るのが自分達の仕事ですから」

 如月は紘彬と共に覆面パトカーを置いたパーキングエリアに向かいながら答えた。


       三


 団藤から連絡を受けた時、紘彬は覆面パトカーに向かって走りながら、

「なんで急ぐのにサイレン鳴らさなかったり離れた場所で降りて歩いてくんだ?」

 と訊ねた。

「闇サイト強盗の実行犯のスマホにあった住所にアポ電が掛かってきたんだ」

 団藤が答えた。


 警視庁は捕まえた強盗から押収したスマホにあった住所と都内で起きた強盗事件の住所を突き合わせた。

 広域強盗で逮捕されている実行犯は一人ではない。

 それぞれのスマホを調べて、そこに載っていた住所を残らずリストアップして入念にチェックした。

 そして事件の報告が無い住所は全て管轄の警察署に連絡して無事を確認しに行くように指示した。


 各警察署は連絡を受けた住所に警察官を派遣して何事も無かった事を確かめた。

 そのうちの一件が新宿だったのだ。

 そこに住んでいたのは一人暮らしの初老の男性だった。

 念のため警察から離れて暮らしている家族に連絡すると、心配した息子は一時的に泊まり込む事にして父にそう連絡した。

 ただ、どうしても外せない仕事があったので泊まるのは明日からの予定だったのだが、父の事が気掛かりで仕事が手に付かなかったため上司に事情を話して有休を取らせてもらい一日早く訊ねた。


 息子が父の家に行って何も異常がないか訊ねると、警察から資産状況などを質問されたというのだ。

 いわゆるアポ電と呼ばれるものである。

 男性は預金残高や金庫に通帳などが入っていること、明日から息子が泊まりに来る事などを答えてしまったという。

 それを聞いた息子が慌てて通報してきたのだ。


 明日から息子が泊まりに来ると聞いたなら一人でいる今日のうちに襲おうと考える可能性が高い。

 そこで男性と息子には急いで家から離れるように伝え、近くを警邏けいら中の警察官と刑事を急行させて二人を安全な場所に誘導した。

 その時、待ち伏せさせてくれるよう頼み、鍵を借りて警察官達が家に向かった。

 周辺の家にいる人達も犯人に気付かれないように私服の警察官がさり気なく避難させた。

 そして家の中に刑事達が、周辺の物陰には制服警官達が取り囲むように配置されたのである。

 紘彬達もその応援に加わるために現場に向かうよう指示されたのだ。


「まぁ、犯人逮捕出来たしこれで解決だよな」

「あいつら実行犯ですよ。バイトですから指示役を捕まえない限り新しいヤツ雇って何度でも同じ事しますよ」

 如月の言葉に紘彬がうんざりした表情を浮かべた。


「蒼治君!」

 家に向かって歩いていた蒼治は桃花の声に振り返った。

「桃花、今帰りか? なんだか嬉しそうだな」

「今度、叔母さんが来るの。そのとき今井さん紹介してくれるって」

「今井って?」

「すっごい有名なヴァイオリニスト。世界中でコンサートしてるんだよ!」

 桃花が顔を輝かさせて言った。

「そっか、良かったな。桃花、ヴァイオリン好きだし、叔母さんも有名なヴァイオリニストなんだろ」

「そうだよ。私も叔母さんみたくなりたいけど……」

 桃花は表情を曇らせた。

「どうした?」

「叔母さんから一緒に住もうって誘われてるの」

「それ、チャンスだろ! 有名なヴァイオリニストと一緒に住んで教えてもらえるわけだし」

 それに有名な音楽家と知り合いの叔母と一緒に暮らしていれば桃花もそう言う人達に顔と名前を覚えてもらえる。

 何かの最終選考に残った時、腕が同じくらいなら知り合いの方を選ぶ可能性がある。

 そうでなくても色々と便宜べんぎを計ってもらえるかもしれないことを考えると叔母と暮らすメリットははかり知れない。

 純粋にヴァイオリンが好きで叔母に憧れている桃花にそんな打算的な話は出来ないが。


「うん、でも外国だから……」

「どうせ桃花と同じ高校に行く友達はいないんだろ。中学の友達なんて高校が違ったらよほど仲良くない限り会わなくなるぞ」

 蒼治の言葉に桃花は、ちらっと左に視線を向けた。

 二人はちょうど紘一の通っている高校の校門の前に差し掛かったところだ。

 蒼治は桃花が迷っている理由を察した。


 小さい頃から桃花は紘一をしたっていた。

 桃花はヴァイオリンを習っているので手をケガするわけにはいかないのだが、他の子達と一緒に遊びたがるので桃花がいる時は紘一が彼女をケガの心配のない遊びに誘って相手をしていたらしい。

 必然的に皆が外で走り回っている時は二人だけになる事が多かったようだ。

 二人で本を読んだり積み木やパズルなどで遊んでいたらしい。


〝らしい〟というのは、そのころ蒼治は既にサッカーを始めていたので人伝ひとづてに聞いただけだ。

 おそらく助けてもらったことで、淡い想いがはっきりとした恋心に変わったのだろう。


 殺されそうになったところを助けてくれたんだから王子様だよな……。


 離れた場所から見ていた蒼治ですら格好良かっこいいと思ったくらいだ。

 もし蒼治が女だったら自分も好きになっていたかもしれない。


 蒼治は以前バレンタインの翌日、紘一から相談を受けたことがあった。


「蒼ちゃん、毎年沢山チョコ貰ってたよね? お返しどうしてたの?」

 と紘一が困ったような表情で聞いてきたのだ。

 全員にお返しするとなると小遣いが足りないと言うから貰った数を聞いて愕然がくぜんとした。

 サッカー部のエースだった蒼治よりも多かったのだ。

 紘一は剣道と柔道の有段者で、大会ではいつも優勝しているとは言え帰宅部だし、学校では目立たないように控えめにしていた。

 理由を聞いたら目立つと絡んでくるヤツがいるからとの事だった。

 私闘厳禁だから喧嘩になったら一方的に殴られる事になる。

 それでなるべく人目を引かないようにしているらしい。


 だからまさかそんなに人気があったとは思わなかった。

 それだけモテているのだ。

 いつ彼女が出来てもおかしくない。

 桃花としては今でさえ気が気ではないだろう。

 まして海外へ行ったらほぼ絶望的になる。


 桃花はヴァイオリニストを小さい頃から夢見ていたとは言っても、それは日本でもなれるかもしれないのだ。

 叔母と一緒に暮らせばなれる確率が少し上がるという程度だろう。

 百パーセント確実ではないのなら紘一がいるところでも大差ないのではないかと考えても無理はない。

 桃花の志望校は音大付属だし推薦は倍率が二倍以上らしいが一般入試なら一倍にいくかどうかだ。

 よほどひどい点でもない限り確実に入れるし、紘一の高校と大して離れてないから会おうと思えばいつでも会える。


 音大付属や音大は音楽家を育成するための学校なのだから外国へ行かなくても、そこへ行けばヴァイオリニストになれるのではないかと考えてしまうのだろう。

 今時、女性は結婚をして専業主婦になって家事をするものだなどという考え方は古すぎるが、だからといって絶対にキャリアを磨かなけばいけないという訳でもない。


 ヴァイオリニストになりたいというのは桃花自身の希望であって親が期待しているわけではないようだから無理に目指さなくても問題ないだろう。

 大学へ行けば教員免許も取れるだろうしり好みさえしなければ就職先はどうにでもなりそうに思える。

 世界的に活躍出来る音楽家になれる可能性が低くなってもいいから紘一の近くにいるという選択をしてもいのだ。


       四


「その気持ち、俺も分かるな」

「え?」

 桃花が小首をかしげて蒼治を見上げた。

「実は俺も外国のチームから誘われてるんだ」

「嘘! すごい!」

 名前さえ書けば入れる高校だと言ったが、実際スカウトされて受けた学校だったから試験は面接だけだったのでホントに書類に名前を書いただけだ。

 そして、その高校で活躍して大学も推薦だった。

 それくらいだから大学在学中に海外のチームから声が掛かったのである。


「でも、そうなると彼女は?」

 彼女に夢中なのは蒼治を知っている者の間では有名だから当然幼馴染みの桃花も知っている。

 蒼治が溜息をいた。

「うん……外国に行ったら遠距離なんてもんじゃなくなるだろ」

 四年も付き合ってようやく親に紹介してもらえるというところまで辿たどいたくらいだ。

 正直彼女が蒼治と同じくらい想ってくれているという自信はない。

 海外へ行ったら振られてしまうかもしれない。


 外国へ行くと伝えた途端、別れを切り出されるということはないにしても離れて暮らしていたら他の男に心変わりしてしまうかもしれない。

 そうでなくても彼女が大学を卒業した後どうなるか分からない。

 蒼治自身、向こうでの暮らしがどうなるか不透明なのだ。


 ましてや三年後の事など予想も付かないから自分のところに来てくれと言う訳にはいかない。

 一度行ったら頻繁に戻ってくるのは無理だろうし、彼女の家も娘を何度も海外旅行させてやれるほど裕福ではない。

 その上、時差が大きいからメールはともかく通話などリアルタイムでのやりとりは難しいだろう。


 彼女の事も本気で好きだが結果的にサッカーを選ぶ事になるのだから直接会うどころか連絡さえ中々取れなくなったら心変わりされても文句は言えない。

 海外へ行くことを選ぶなら彼女のことは諦めるくらいの覚悟が必要だ。


 だが桃花が幼い頃からヴァイオリニストに憧れていたように、蒼治もずっと本気でサッカー選手を目指して努力してきた。

 だからチャンスはどうしても掴みたい。

 後で悔やんだ時、彼女がいなければ迷わず行っていたのに、などと考えて恨んでしまうかもしれない。

 それは嫌だ。

 だから彼女を旅行に誘う事にした。

 振られた場合に備えて思い出だけでも作っておきたいと考えたのだ。


 蒼治がそう言うと、

「そうだよね」

 桃花がよく分かるという表情で頷いた。

 桃花はサッカーのことを知らないし、蒼治もヴァイオリンのことは分からない。

 だが互いに自分の夢を叶える困難さは理解しているから迷う気持ちに共感出来るのだ。


「サッカーの事はよく分からないけど、彼女と上手くいくといね」

 桃花がそう言うと、

「ありがと」

 蒼治は微笑わらった。


「昨日の強盗に入られた家の近所で実行犯が借りたレンタカーが発見された」

 朝の捜査会議で団藤が報告した。

「随分早いな。昨日の今日だろ」

 紘彬が言った。

「以前にも犯行現場付近でレンタカーが発見されたことがあったから周辺の駐車場を片っ端から調べたんだ」

「それにしても、そんなにすぐに実行犯が借りたものって断定出来るものなのか?」

「本名で借りてたんだ。逮捕したとき免許を所持してたし」

「本名? 普通、本名使うか?」

「免許証なんかを偽造するのはお金や手間が掛かりますから。レンタカーを借りるには免許が必要ですし」

 如月が説明した。


 偽造免許はそこらの店で買えるようなものではない。

 運転免許証のような技術的に偽造が難しいものは作れる人間が限られるし、その分だけ値段も高い。

 捨て駒の実行犯に一々そんなものを渡してたら赤字になりかねないし、かといって偽造免許を買えるだけの金がある者は闇バイトなどに手を出したりはしないだろう。

 大抵は背に腹は代えられないほど困窮こんきゅうした末に犯罪に手を染めているのだ。

 それに実行犯が捕まったとき偽造免許を押収されたら偽造屋まで逮捕される恐れがあるし、そうなれば指示役まで辿られかねない。


「ネットで雇った使い捨てのバイトに金を掛けたりしないんだろう」

 団藤が補足する。

「強盗なんて被害者が生きてても殺人罪より罪が重いのによくバイト感覚で危ない橋が渡れるな」

 紘彬が呆れたように言った。

「それはともかく、今日の聞き込みだが……」

 団藤が捜査の割り振りを始めた。


「桜井と如月は駐車場で殺されていた被害者の職場を中心に調べてくれ」

 あれだけ家捜しされていたのは誰かにとって致命的なデータを持っていたという事だろう。

 もしかしたら職場で誰かが不正をしていたのかもしれない。

 それをネタに誰かを脅迫という事も有り得る。

「上田と佐久は焼死体が発見されたビルの近所だ、飯田と俺は……」

 会議が終わると紘彬達は捜査に向かった。


「桜井、例の焼死体の身元が判明したそうだ」

 聞き込みから帰ってきた紘彬に団藤が告げた。

 刑事部屋の中には他の刑事達も揃っていた。

 全員聞き込みを終えて帰ってきていたようだ。

「DNA鑑定の結果、孫だと判明した」

「孫でも親子鑑定出来るんスか?」

「親子鑑定じゃなくてDNA鑑定だよ」

 紘彬が答えた。

 親子鑑定もDNA鑑定ではないのかと言う表情をしている一同の顔を見た紘彬がホワイトボードの前に向かう。

 団藤が場所を譲った。


 紘彬はホワイトボードにマーカーで大きな円を描いた。


「これが卵子」

 と言って今書いた円を指す。

「で、これが細胞内の核」

 と言いながら円の中に更に円を書いて内側の円を指した。

 それから核――内側の円――の中に一本の線を引く。

「この線が母親の染色体、つまりDNA。卵子はこういう状態。受精すると父親の染色体がここに入る」

 紘彬が線の横にもう一本の線を書き足す。

 内側の円の中に二本の線が並ぶ。

「これでDNAは一対になる。親子鑑定に使うのはこの核DNA。だけど」

 紘彬は核(内側の円)の隣に別の小さい円を描いてそれを指した。

「実はミトコンドリアここにもDNAがある。これは卵子に入っているものだから母親だけのDNAを受け継ぐ」

「あっ!」

 如月が声を上げた。

「娘の娘って……」

「そ。ミトコンドリアDNAは女親から受け継ぐから母系を辿るのに使われるんだ」


 核の中の染色体は時々一部を交換する。

 母由来の染色体が白いビーズを連ねた紐だとすれば父親由来の染色体は黒いビーズの紐である。

 受精により対になった染色体はたまに一部を交換することにより、どちらの染色体にも両親双方の遺伝子が含まれる事になる。

 だから子供に渡す染色体が一本だけでも両親の遺伝子を受け継げるのだ。

 ただこうやって子供には両親のDNAが混ざっているため親子鑑定でも九九・九九~パーセントの確率としか言えず、百パーセント実子だとは断言出来ない。

 子供でも百パーセントとは言えないくらいだから祖父母では血縁関係があるかどうかくらいしか分からない。

 しかしミトコンドリアDNAは母親からしか受け継がないため母親より上の世代でも間に男が入っていなければ血縁関係を証明出来る。


「有名な例だと最後のロシア皇帝の身元確認だな」

 一九一八年に一家揃って殺害されたロシア皇帝ニコライ二世とその家族ではないかと思われる遺体が一九九一年に発掘された。

 DNA鑑定の結果、男女二体との間に親子関係があると判定された遺体が三体あった。

 つまり両親と三人の子供達という事である。

 しかし七十年以上っていたため遺体が皇帝一家だと証明出来るものがなかった。

 殺害された皇帝一家は埋められる時、身元が分からないようにするために衣服など身に着けていた物は全てぎ取られていたからである。

 そこでミトコンドリアDNAによる鑑定が行われる事になった。

 ロシア皇帝の皇后アレクサンドラはイギリスのヴィクトリア女王の孫でしかも今回のケース同様娘の娘だった。

 そしてエディンバラ公フィリップはヴィクトリア女王の曾孫だった。

 エディンバラ公を始めとした親族の協力の下、ミトコンドリアDNAで鑑定したのである。

 そしてDNAが一致したため、五人はロシア皇帝一家だと証明されたとして歴代皇帝の墓地に埋葬されたのだ。

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