聖女の亡霊がわたしに取り憑いた

一ノ瀬るちあ🎨

0-聖女の最期と始まり

 岩穴の牢獄に降りた夜の冷気は、私の手足から感覚を奪っていった。

 岩壁に開いたこぶし大の窓を、月明かりが、いつもより静かに横切っていく。

 ずいぶんと薄情なのね、と思った。

 これが最後のお別れだというのに。


 私は死ぬ。明日死ぬ。

 不当な裁判で死刑判決を言い渡された私は、大罪人ソフィアは、毒杯を飲んで死ぬ。

 明日の月は、見上げられない。


 ふと、鉄格子の向こうの茂みが揺れた。

 見ればそこに男が立っている。


 足早に鉄格子の前までやってきた彼は、ひどく興奮した様子でまくし立てた。


「聖女様、俺です! 牢のカギを開けます! 朝日が昇る前に、国境を越えてください! あなたは、こんなところで死んでいい人間じゃない!」


 男はかつて、私の騎士だった。

 私が彼の言う聖女だったころ、私の護衛役をしてくれていたのが彼だった。


 彼は腰に提げたカギ束を手に取ると、カッチリと施錠された鉄格子の扉の錠前に一本一本試していった。


「くそ、どれだ。どれがこの牢のカギなんだよ」


 彼の指先は落ち着かない。

 そのせいでカギの照合に手間取っていて、それがさらに、彼の額に汗を生む。

 日が昇れば私の処刑の日がやってくる。

 その前に、彼は私を逃がすつもりだという。

 だから必死になっている。


 私は、彼――騎士のグランに声を掛けた。


「グラン、見張りの兵はどうしたのです?」

「気を失っているだけです!」

「あなたは……」


 聞くべきか、少しだけ悩んだ。

 本当に、少しだけだ。


「あなたは、私の脱獄を手引きしていますね?」


 彼は一瞬、指を止めた。

 顔をくしゃっと歪め、泣き出しそうな顔で私を見て、再び手を動かす。


「聖女様の理想は間違ってない! 多くの人が勇気をもらった! それなのに、偽りの希望で民衆を誤った道にたぶらかせ、国を傾けた、その罪は死をもって償うしかないなんて判決、絶対に間違ってる! 俺は、受け入れられない!」


 生まれも、身分も、関係なく。

 誰もが好きを仕事にし、生きる活力を持ち、好きな人と結ばれる世界になれば、どれだけ幸せだろう。


 私の描いた理想はけれど、貴族様には受け入れがたい物だったらしい。

 結局、根も葉もないスキャンダルを捏造され、陥れられた囚人が私。


 でもね、グラン。


「私が脱獄すれば、やはりソフィアは罪人だった、と裁判の正当性を証明してしまいますね」


 不正をただすために、不正で報復してはいけないのです。

 より多くの悲劇を生む火種を育てるようなもの。

 負の連鎖は、誰かが断ち切らないといけない。


「聖女様の脱獄が罪なら、手引きをした俺が全部背負います! だから、生きるのを、やめないでください!」

 グランが顔を、くしゃっと歪めた。

「私に、あなたを罪人にしろと言うのですか」

「それで聖女様が助かるなら、俺は本望です!」

「……私は、そんなことを望みません」


 にわかに、町の方が騒がしくなった。

 声が聞こえたわけではないけれど、その内容には予想がついた。

 気付かれたんだろう。

 何者かが私の牢のカギを盗み出したと、判明したんだろう。


 彼の指先が固まった。

 呆然とした瞳で、町から近づいてくる灯籠の明かりを見つめている。


「戻りなさい、グラン。あなたの帰る場所があるうちに」

「嫌だ、だって俺、まだ何も! 何も、返せてない! 助けてもらった礼だって、まだ、何も!」


 私は彼の手を、鉄格子越しにぎゅっと握った。


「最後の授業を、しましょうか」


 あなたが私に死んでほしくないように、私もあなたに不当な扱いを受けてほしくない。


「不当な法が私を裁くのではありません。私が、法の不当を暴くのです」


 人を蹴落とすことでしか己を守れない人間にはならないでください。

 蹴落とされることを恐れて何もできない人間にはならないでください。

 己の「理想」・「自由」・「真実」・「希望」と向き合い、ただ生きるのではなく、善く生きたと胸を張れる、そんな人生を歩んでください。


「この魂を汚さずに生き抜いた。そんな誇れる人生を望む私を、どうか許してくれませんか?」


 彼はとうとう、こらえた涙をこぼした。

 握った彼の手を、押し出した。

 突き放した彼が泣きじゃくる顔は、初めて出会った日のことを私に思い出させていた。


「嫌だ、だって、俺は!」


 最後まで私を慕ってくれてありがとう。

 もし、もっと違う時代で出会えていたならば、なんて、考えたって仕方がないことだった。


「あなたを、ここで破門します」

「な、何言ってんだよ。だって、俺」

「私の言うことが聞けない騎士なら、必要ありません」

「っ、聖女様!」


 手を引っ込めて、私は彼に背を向けた。

 膨れ上がる感情を押さえておけなかった。


「立ち去りなさい! その顔を、二度と私の前に見せないでください!」


 気を抜けば泣き声を叫びそうな喉を締め、声を殺す。

 それでも背後で、彼がどんな顔しているかが手に取るようにわかった。


「本当に、今まで、お世話になりました!」


 足音が、遠のいていく。

 彼の存在感が、希薄になっていく。


 代わりに近づいてくるのは、蹄鉄が地面を蹴って地を掛ける音。

 きっと、処刑人か、その使いの人。


「罪人、問おう。何者かがこの牢を訪ねてこなかったか?」


 やがて牢の前までやってきた男は、鉄格子の向こうから私に聞いた。

 答えるために振り返った私は、見つけた。

 月明かりだけがぼんやり照らす地面に点々と、涙のあとが続いている。


 グラン。

 あなたは私をここで死んではいけない人間だと言いましたが、私はそうは思いません。


「自らへの問答ですか? 高尚なご趣味をお持ちですね」


 世界の在り方を、あなたなら変えてくれる。

 私の死を無意味に終わらせはしない。

 そう、信じています。



 それが、私の最後の夜。

 翌日、私はドクニンジンの毒杯を飲み干した。

 頭を締め付けられる感覚と、五臓六腑を引き裂かれる苦痛が、私の意識を刈り取っていく。


 私は、永遠の眠りについた。


 はず、だった。


「だ、誰なの!?」


 連続性を失った景色の中心に、一人の少女が立っている。

 素足に泥まみれの包帯を巻き、すり切れたぼろを羽織り、枝毛だらけのショートヘアをパサつかせた少女が、何かを警戒するように周囲を見回している。


『もしや、私を探していますか?』

「ぇ」


 その、彼女と、目が合った。


「う、動くなッ!!」


 そんな、悪霊を見つけたみたいなリアクション取らなくても……。

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