3日目 祈り
それが、昨日の朝の話。
期待以上に早い目覚めだ。
慌てて身支度を整え、病院に走った。
目覚めたあの子の目は虚ろで、語りかけても返事はなくて。心も視線も交わらない、空虚な時間がとても苦しかった。
「うん。そう、そうだよね。いっぱい頑張って疲れちゃったよね」
その言葉も、届いたかどうかさえわからない。
看護師の哀れむような目をよく覚えている。
三十分ほど、横に座っていただろうか。
他の人に退室してもらって、二人きりの時間を過ごした。ぽつりぽつりと心をこぼす、私の声だけが部屋に響く。
退室する前、ちいさな嘘を吐いた。「きっと今日は幸せなことがたくさん起こるよ」と。
少しでも希望を持ってほしくて。
帰って相原さんに状態を報告すると、ただ「了解」とだけ返事がきた。
今日も私は病室に向かう。だって、あなたはもっと苦しいでしょう?
せめてそばにいたい、見守っていたい。
返事がなくても、届かなくても、何度でも言葉をかける。それがいつか糧になると信じて。
「こんばんは。こんな時間になっちゃってごめんね。お花を買ってきたの、気休めだけど」
紙袋からプリザーブドフラワーを取り出す。
お花やお見舞いには詳しくないから、プロに相談しながら無難なものを。黄、橙、鮮やかな暖色が美しいフラワーアレンジメント。
私はあなたには寒色が似合うと思ったんだけど、寒色は縁起が悪いんだね。基本的には避けるのが無難だと言われて、今回は避けることにした。
「ここは暖かいね。外はすごく寒かったよ。雪も降ってて……そう、あなたは雪を知ってるのかな。もしかして、ずっと建物の中で育ったの?」
返事はない。
「今度、一緒に雪を見たいね。そろそろ春がきちゃうから来年かな」
返事はない。
「もし——もし春までに外に出られたら、花を見に行くのもいいね。桜もいいけど、菜の花もチューリップも綺麗だよ」
返事はない。
いいの、それで。昨日から覚悟はしてた。毎日何度も話しかけて、いつかたった一回返事があったら。ううん、少しでもなにかに興味を持ってくれたら、それで良い。
だから、毎日違う話をしようと思った。
空のこと、天気のこと、花のこと、食べ物のこと。服の話でも、遊びの話でも良い。私の家や、故郷の話をしたって良い。教会の話も、いつかはね。
古城の話はまだしない。きっと嫌なことを思い出させてしまうから。
もし、いつかまたこの子の話を聞けたなら、それはそれでもちろん嬉しいけれど。
あの夜、この子が聞かせてくれたこと。古城でこの子が見てきたもの。
訴えるような目で、泣きながら初めに言った。
「わたし、ミカゲさんのこと食べちゃった」
すぐに、相原さんが話していた食人のことだと思った。ミカゲさんが誰なのかはわからない。性別も人種もなにもかも知らない。この子と一緒に捕われていた犠牲者の一人だろう。
ただ、「そっか」とだけ返した。
それからは、ただ淡々と、今までのことを話してくれた。
古城いた
言葉も順序もめちゃくちゃで支離滅裂だったけど、要約すると、恐らくこういう内容だったと思う。
全貌が見えない。
誰かが何かの目的のために人を集めて、殺し合わせた——あるいは、この子に殺させていたのだろうけど。
一晩話を聞く中で、この子が何度も繰り返した言葉がある。
怖い、苦しい、あの人、わからない。そして、守らなきゃ。
だからこの子を信じると決めた。
悪人と断定された原因の食人だって、望んだことじゃないのならこの子は罪人じゃない。悪いのはこの子を利用した
——やっぱり、相原さんに相談しよう。
明日の朝、起きてすぐに教会に向かう。大丈夫、彼ならわかってくれるはず。
「おやすみなさい。今日もいい日だったね」
その言葉に祈りを込めて。
——。
自宅に着いて、すぐに相原さんに連絡を入れた。
お忙しいところすみません。どうしてもすぐに相談したいことがあるので、明日の朝九時に教会に伺います。よければカフェでお話しましょう——。
眠れそうになくて蹲る。
あの子が教えてくれた古城の話。
そもそも、それほど大勢を支配していたような人が、そう呆気なく死ぬだろうか。あの子には殺しの才能がある?
ううん、それならまだいい。もしまだ生きているのだとしたら——?
不安を隠すように目を瞑る。
ごめんね、ごめんなさい、信じきれなくて。
風の音がうるさい。
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