第9話 アンタは命の恩人じゃねえからな。

「ありがとよ。アンタがそう言ってくれると、なんだか安心するぜ。……ちょっと、かがんでみ?」


 力強く宣言したイリスをかがませて、泰樹たいきはその頭を撫でてやる。驚いて眼を見はったイリスは、やがて嬉しそうに笑って泰樹に飛びついた。


「うん、うん! 僕、タイキのこと、好きになりそう! だから食べたりしないから、絶対!」

「おっと! いきなり飛びつくなよー。ま、ちょっとばかし、献血するくらいなら構わねえけどな。死なない程度ならな」


 その位で、命を助けて貰った恩が返せるなら安いものだ。二人のやりとりを、微笑んで見守っていたシーモスが、不意に口を挟んだ。


「……わたくしにも、『献血』していただけますか? タイキ様」

「アンタは命の恩人じゃねえからな。残念だけど答えはノー、だ」

「古文書……」

「あー。うん。なんだか献血したくなってきたなー! スゴく、とてもー!」


 ぼそりとつぶやかれた単語に慌てて、泰樹はシーモスの手を取った。そのままぶんぶんと握手して、引きつり気味の笑顔を向ける。


「ふふふ。それでは、遠慮無くいただきます。今は喉も渇いておりませんので、後ほど」


 シーモスが、泰樹に向かって秘密めいた微笑みを投げる。それが、ほんの少し気にかかった。

 だが、冗談のようなやりとりに紛れて、違和感は直ぐに薄れてしまった。



「タイキ様は、お疲れでしょうから。おいとまいたしましょうか、イリス様」

「そうだね。今日は大変だったもんね。ゆっくり休んでね、タイキ」


 そう言い残して、イリスとシーモスは客間を出て行った。

 一人取り残されると、とたんに不安が頭の中をぐるぐると駆けめぐる。

 物騒なファンタジー世界、帰れるのかどうかさえ解らない現在。幻魔と魔人、『封印の島』。どうしていいのか、何も解らない。

 疑問は多く、選択肢は少ない。

 これ以上、思いわずらっても仕方が無い。今日はもう、寝る!

 泰樹はベッドに寝転がって、天井を見上げた。天蓋つきのベッドは柔らかく、ぼーっと天井を見上げるうちにまぶたが自然と落ちてくる。その眠気に身を任せて、泰樹は眠りに落ちていった。





「……んあ?」


 なんだか温かいモノに包まれているような気がする。それも下の半身だけ。

 それで、目が覚めた。


「……?」


 寝ぼけまなこをこすって、泰樹は身体を起こそうとする。


「……ああ、目が覚めてしまわれましたか?」


 薄暗い室内で、シーモスと目が合った。彼はベッドの上で、泰樹が投げ出した足の間におさまっていた。


「……なんで、アンタが、ここに?」


 まだ半分寝ぼけている泰樹は、静かに問いかける。シーモスはにっこりと笑って、視線を落とした。


「『献血』を、いただこうと思いまして」


 なんだか下半身がスースーする。なんでだ?

 シーモスの視線を追う。その先には、向き出しになっている自分の、下半身。下着まで脱がされている。


「……?!?!」


 混乱。パニックに陥る泰樹をよそに、シーモスは嬉しそうに微笑んだ。


「ちょ、ちょっと!! アンタ、何してんだ?!」

「ん……何って……タイキ様にもっと昂ぶっていただいて、『体液』を『献血』していただこうか、と」


 昼間は理知的に見えていた、シーモスの瞳が、すっかり色に潤んで見える。ヤバい。完全にスイッチが入ってしまっている眼だ。


 ――ウソだろ?! コイツが食うモノって、『体液』。まさか……!?

「じょ、冗談じゃねえ!! 俺にはカミさんも子供もいるんだよ!!」


 シーモスを引き剥がそうと、必死に手を伸ばす。


「……古文書」

「……!! 今、それを持ち出すなよ!! 卑怯だぞ!」

「よろしいでは有りませんか。一時の快楽と引き換えに、情報を得る。良い取り引きかと」


 執拗しつように下半身を狙おうとするシーモスをどうにか押し返して、泰樹は絶叫する。


「……だからって、はいどうぞって、言うかバカ野郎ーッ!!!!」





 昨日の晩は酷い目にあった。すっかり盛っているシーモスを、どうにか部屋からたたき出して、部屋の家具でバリケードを作った。

 神経がささくれ立って眠れない。ベッドの上に横になると、シーモスの姿がちらつくので、仕方なく長椅子にうつる。

 ようやくうつらうつらとする頃には、空が白み始めていた。


「……タイキ?」


 誰かに名前を呼ばれて、はっと目が覚める。


 目の前に、イリスが立っていた。


「おはよう。タイキ。もうお昼だよ?」

「ああ……」


 窓から眼に飛び込んでくる光が、まぶしい。泰樹はのろのろと、身体を起こした。


「よっぽど疲れてたんだねー。朝ごはん一緒に食べようと思ってたんだけど、シーモスが寝かせておいてあげましょうって……」

「シーモスは……あの、バカ野郎は……?」


 昨日の襲撃は、なんとか撃退した。イリスは馬鹿力のようだが、シーモスは筋力的にはたいしたことは無かった。現場仕事で鍛えておいて良かった……心からそう思う。


「んー。古文書探すから、ご一緒できません。だって。それで、これ、タイキに渡してって」


 イリスが差し出したのは、折りたたまれた便せんの切れ端だった。


「中身、みたか?」

「ううん。お手紙?」


 便せんを開くと、そこには丁寧な文字で、


『昨晩のことは、イリス様にはどうぞご内密に。事を急ぎすぎました。申し訳ございません』


 と書き付けてあった。

 急いでも、ゆっくりでも、もうシーモスに『献血』をするつもりは無い。

 泰樹は唇のはしを引きつらせながら、大きなため息をついた。

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