3月20日 I was born
ギシギシの葉の裏に、奇妙な形のコガタルリハムシを見付けた。昼下がりのことだ。
普段は閉じた瑠璃色の外羽に隠れるはずの腹部が、大きく露出している。腹部が膨れ上がっているのだ。卵を抱えた雌だろう。もういよいよ産卵間近だろうか、葉の裏でじっと息を潜めていた。
虫の卵や、卵を抱えた雌の虫を見付けるたびに、私は吉野弘氏の『I was born』を思い出す。中学だか高校だかの教科書に載っていた記憶があるので、ご存じの方も多いだろう。
(以下引用)
「I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」
(引用ここまで)
この一文を初めて読んだとき、私はまだ「多感な年頃」だった。実際に多感だったかどうかは分からないが、少なくとも『I was born』には大いに感じ入るところがあった。
そうか、確かに生きものというものは、生まれてからいくらかしたら自分の意思というものを持つものの、生まれるという行為については、まったく自分の意思ではない。生まれさせられるのだ。望む、望まないにかかわらず。
この時、私の心の真ん中に落ちた小石は、いまだに微かに水面を波立たせている。私の書く小説の中でも、メインとなる作品では、たびたびこのことに言及する。生きものは皆、生まれさせられるのだ。
虫たちを見て改めてそのことを思い返すのは、やはり彼らの命が我々と比べて極めて儚いからだろうか。『I was born』の作中では、腹いっぱいに卵を抱えた蜉蝣の話をするシーンがある。
(以下引用)
口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても入っているのは空気ばかり。見るとその通りなんだ。ところが卵だけは腹の中にぎっしり充満していてほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが咽喉もとまでこみあげているように見えるのだ。
(引用ここまで)
腹いっぱいに卵を詰め込んだ蜉蝣を見たとして、私は「せつなさ」(作中で、そのような表現がある)よりも「たくましさ」を感じる。それは、作中の人物たちのように、親しい人を「出産ゆえに亡くした経験」がないためかもしれない。それでも、痛々しさを全く感じないと言い切ってしまえば、それは嘘になる。
自らの骨を、肉を、命を削り、母というものは子を産み出す。そして子らも、この世に「生まれさせられた」瞬間から、その生命のサイクルに加わることを余儀なくされる。
ずっと前から、自分の中に小さな「反出生論者」が潜んでいることには、気が付いている。前の記事にも書いたが、私は基本的に生きることはつらく苦しいことだと思っているし、心の奥にはいつだって「I was born」がこだましている。
だけれど、多少の「向いてなさ」は感じていつつも、今のところ私は自分の人生にそれなりに満足している。春のたびにコガタルリハムシやクロウリハムシが飛び交うのを心待ちにしているし、スミレの芽吹きに心躍るし、セスジスズメがヤブガラシを食み始めるのを今か今かと待っている。結局、私は生きているものが(私を含めて)好きなのだ。そう思えることは、幸福なことだ。
好きでいられるうちは好きでいたいし、喜んでいられるうちは大いに喜んでおこうと思う。春の到来も、生まれさせられたということも、生きているということも。
I was born. 今日見たコガタルリハムシは、無事に産卵できただろうか。
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