3月17日 バネ、泉、それから春。
高校生のとき、英語の先生が話していた雑談で忘れられないものがひとつある。
「スプリング(spring)とは、縮こまって小さくなっていたものが、大きく伸びあがるようなものをいう。バネ、泉、それから春」
なるほど。と腑に落ちて以来、ずっと覚えている。バネ、泉、それから春。
バネは、縮こまって小さくなったあとでビヨンと伸びる。泉も、土の下から伸びあがって噴き出してくる。春もそうだ。土の中で小さく時を待っていた春は、日が永くなると共に地上に伸びあがる。たくさんの生命たちを引き連れて、バネのように、泉のように、ビヨンと噴き出すのだ。
スプリングの語源が、本当にそうなのかは分からない。けれど、とにかくあの先生の雑談は、私の心に深く根を張った。スプリング。伸びあがり、噴き出すもの。
春の土中からは、実に様々なものが飛び出してくる。フキノトウ、ツクシ、ミミズ、様々な植物の芽……。
ところで、この時期の苔からにょきにょきと伸びあがる「芽のようなもの」がある。苔好きは世の中に割と多いので、ご存じの方もいるかもしれない。苔の「蒴(さく)」、またの名を「胞子嚢」だ。
苔には雄と雌の区別があり、それぞれ精子と卵子を形成する。苔の精子は、雨や朝露の中を泳ぎ、苔の卵に到達すると受精する。そして生えてくるのが蒴だ。
本当は減数分裂がどうのこうの、染色体数がどうのこうのと、もう少し色々と複雑なのだが、詳しく書くと教科書のようになってしまうので割愛したい。とにかく、苔が受精したら蒴が伸びてくる。この蒴というものが、とても美しく、可愛らしい。
苔といえば、鬱蒼と湿った森の中に、まるで絨毯のように敷き詰められている……という印象かもしれない。日光を好まないため、空に向かって伸びていくということがない。大地を覆い、湿気を求め、しっとりふかふかひっそりとそこに在る。
しかし、普段はそのように控えめでしとやかな苔も、春は、やはり春ばかりは、おとなしくしてはいられないらしい。蒴が、にょきにょきと空を目指す。
苔が受精する(つまり、蒴を伸ばす)ためには、水が必要になる。苔の精子は、水の中を泳いで移動し、卵子を探すからだ。
冬はどうしても、乾燥する。歩道の端っこに丸っこく固まっている苔玉も、寒風に晒されてかさかさになっている。これでは繁殖しようにもできまい。
春になって雨が降れば、苔は潤い、精子は泳ぐ。受精は成功し、蒴がにょきにょき伸びる。そして成熟した蒴の中からは胞子が飛び散り、またどこか遠くの場所で、小さな苔が発生する。
つまりは蒴というものは、春と共に噴出した苔の命そのものなのだ。
蒴は、苔の種類によって実に多様な形をしている。先端に卵が付いた電柱のようなもの、先端のとんがった綿棒のようなもの、丸い栗饅頭がくっついたようなものもある。
若い蒴は、新鮮な果実のように瑞々しい。光の当たり方によっては、宝石のような透明感を見せるものもある。スマートフォンのカメラではピントを合わせるのが少し難しいのだが、上手く撮れたときの達成感はなかなかのものだ。
ちなみに私が栗饅頭に喩えているのは、タマゴケという苔の蒴だ。蒴が若いうちは若草色をしているが、熟してくると茶色になってくる。これが栗饅頭そっくりだと、私は思っている。
ちょっと画像検索でもしてみてほしい。半分くらいは同意してもらえるのではないだろうか。私が発見者なら、クリマンジュウゴケとかいう名前をつけていたかもしれない。
バネ、泉、それから春。縮こまって小さくなっていたものが、大きく伸びあがる。それが春だ。冬の寒さと乾燥にじっと耐えていた苔も、春になると、蒴を大きく伸ばす。(我々にとってはとても小さいが、苔にしてはかなり大きい)
もしかしたら、苔の蒴も、英語ではスプリングというのではないだろうか。こんなにダイナミックな伸長を見せるんだもの。きっとそうだ。そうだと面白いな。
やや夢見がちな期待をいだきつつ、調べてみる。sporangiumというらしい。うーん、まあ、現実とは得てしてそういうものだ。
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