第4話 イフリート

 フランカがアリアと出会って一カ月が過ぎた。その間、フランカはほとんど毎日、アリアから舞双姫のレッスンを受けた。学校が休みの日は昼から夕方まで、学校がある日は夕方前からあたりがすっかり暗くなるまで。朝から晩まで工房で造駒に勤しむダリオはフランカの帰宅が遅れても気づかなかった。

 二人が午前中に会うことはなかった。アリア曰く、街中のアトリエを訪れては絵画やその他の工芸品の完成品を観賞したり、製作工程を見学させてもらったりしているらしい。「さも、どこかの貴族に仕える目利きのメイドや美術学校の先生のように振る舞えば、すんなり許可してくれるんだよね。有名どころとなると無理だけどさ」と笑うアリアだった。たしかに身なりと口調を整えれば、彼女はそうした身分の人間に見える容姿をしている。自分が貴族の令嬢と騙るのとは違うのだろうな、とフランカは半分は呆れて、もう半分は感心していた。


 そんなアリアであったが滞在二カ月目になると、泊まっていた宿を出て、近くに小さな部屋を借りた。そして書店で週に三日だけ働き始めたのだった。フランカは、書店での仕事に就いたアリアを羨みつつ「トリゼツィアが気に入って、ずっと暮らすつもりなの?」と訊ねた。するとアリアは首を横に振った。はっきりと。

 彼女なりの人生設計をフランカに詳らかに語りはしなかったが「フランカの舞双姫の腕前をせめて学校で一番にしないとね」と話してはいた。それが本気なのか冗談なのか、フランカには判断がつかなかった。


「ねぇ、フランカ。学校の友達とはちゃんと対舞している?」


 二人揃って休みのある日、曇り空の下、花畑でアリアがそう訊ねた。フランカ自身から対舞で勝利を収めた、あるいは負けてしまったという話を聞かないのを疑問に思っていたのだ。

 フランカは曖昧な返事をよこす。そんな教え子に先生であるアリアは、明瞭な返答をよこすように言った。


「そんなにしていないの。仲のいい女の子と、おしゃべりしながら駒を動かし、決着をつけずにやめてしまうことが多いわ」

「なぜ? この一カ月でプロローグ部分含めて、基礎的な部分はかなり固まった気がするよ。私以外の人たちとも試合をしていくことが上達の近道だ」

「でも……」

「何かわけがあるのかい。もしかして前に言っていたとおり、彼らが使う駒や盤が気に入らない? それならフランカのを持っていけばいいじゃないか。あるって話していただろう? お父様に作ってもらったっていう」

「私の七歳の誕生日にね。貰ったはいいけれど、その頃は対舞する相手がいなくて独りで遊んでばかりいたわ。当のお父さんは全然付き合ってくれないし」


 実際、フランカが父と舞双姫盤を挟んで向かい合うのは、彼が駒と盤を完成させてその出来を最終確認するときぐらいだ。ダリオ自身が駒を動かしつつ、そしてフランカに駒を動かすを指示する。盤上での見え方、それは造っている最中にも何度も確認しているが、最後にもう一度だけ、あえて素人のフランカを交えて確かめるのだ。

 ただし、それは対舞とは言わない。ダリオからフランカが何か戦術や陣形の一つでも教わったことなどなかった。


「傷つかないように大切にしまってあるの。そうよ、あれを汚されたり傷つけられたりしたら嫌だもの」


 ダリオの造駒師としての腕がどれだけであろうと、飾り物に過ぎず対舞に使われない駒に価値はないとアリアは思った。けれど、それを今ここで娘のフランカに言っても機嫌を損ねてしまうだけであるし、そもそも本題から逸れている。


「話を戻すけど、フランカが積極的に対舞しない理由は?」

「だって、ちっとも完璧じゃない」

「何が?」

「アリアが次々に教えてくれる舞い方、そのひとつひとつをものにできないまま、中途半端に他の人と舞うのって気が乗らないわ、まったく」


 大仰に肩を落としてみせたフランカにアリアが微笑み、そのいじらしい少女の髪を撫でた。


「ふふっ。君って意外と偏屈。まさかそういう一部の芸術家にありがちな潔癖な拘りを持っているなんて」


 そう言ってフランカの右耳を軽く指先でつまむ。くすぐったがるフランカにアリアは「いいかい?」と指を離した。


「これからは学校がある日は必ず誰か別の人、少なくとも三人と対舞してから私とのレッスンに来て」

「どうしても?」

「そう。それでどんな対舞だったか教えて。忘れそうなら記録をとるといい。それを参考に今後のレッスンを計画していく。完璧なものにするには、そうやっていろんな人を相手に舞わないといけない。わかった?」


 渋々、フランカは了承した。

 ようやく舞双姫の楽しさがわかり始めた彼女としては、ここでアリアに突き放されたくなかった。例の本を買うためにそうしたように、レッスン料のために街で細々としたお手伝いをまたしようかなと、考えてもいたのだ。アリアの厚意に甘えて、対価を何も支払わないのがフランカには不誠実だと思えたのである。


(そうね……レッスンの成果、それを対舞の記録として残し、示す。それこそアリアへの対価だと、ここは思っておこう。うん。そうしよう)


 その日以降、フランカは学校でまずは親しい友達、それから友達の友達、そして時には話したことのない子とも舞双姫をするようになった。

 そしてアリアから実戦経験を重ねる課題を出された二週間後。

 お前は見込みがあるな――――対舞し終えて、フランカにそう言ってきたのは、二つ上の十三歳の男の子で名をガヴィーノといった。背丈はフランカより少し低いがその顔立ちには同級生にはない大人びたものがある。

 フランカは彼の妹と級友であり、さほど親しくなかったのだが、成り行きで三日連続で彼女と対舞して打ち負かすと、兄であるガヴィーノを彼女は呼んできたのだった。


「あら、勝者にそんな言葉をかけられたのって初めて。男の子だったら、たいていは勝ち誇った顔をして『もう一回やってもいいけど?』みたいなことを言う」


 ガヴィーノはフランカに勝ったというのに嬉しそうにはしていなかった。

 場所は朝早くの教室だ。放課後に対舞をする子が多いのは間違いないが、フランカの場合、アリアとすぐに会いたいので、できる限りノルマを朝のうちに消化している。ここ二週間の戦績は上々だった。


(この子、私にもっと楽に勝てると思っていたのかな。こっちは悔しさを顔に出さないようにするので精一杯なんだけれど)


 途中、ガヴィーノ妹がはらはらとした表情を見せる程度には、接戦であった。彼女はガヴィーノをフランカの前に連れてきた時はずいぶんと誇らしげに、そしてニヤニヤともしていたのに。


「見込みというのは他でもない、俺たちイフリートの入会試験を受けてみないか」

「なにそれ」

「知らないの? うちの学校でお兄ちゃんみたいな舞双姫の強い人たちだけが集められた会よ。ショースーセイエイってやつ」


 ふふんと妹が鼻を鳴らして説明する。

 トリゼツィアにある小さな学校には、大都市の学校とは違い、校則で規定されたクラブ活動というのはない。それでも舞双姫が好きな子供たちが放課後に集まる会はあった。芸術分野に特化してはいない学校、つまりフランカが通っているような庶民のための教育施設は街の区画ごとに一つは設けられていたが、それぞれに舞双姫を愛好する子供の一団が自然とできあがっていたのだった。

 イフリート、その名称はフランカにとって初耳だった。いや、もしかすると前に話を聞いたかもしれない。舞双姫に夢中になっている子は多いのだから、日頃から教室で噂されていたっておかしくない。ただ、普段のフランカが、別の話題で盛り上がる子たちのグループにいるというだけだ。

 市井の人々の色恋の噂話であったり、美味しい洋菓子店の新作情報だったり、それから心をわくわくさせてくれる本であったりのほうが舞双姫より重要な。フランカにしてみれば、そういう彼女なりの淑女の集い呼べるものと比べると、盤上遊戯に熱心な子供たちはどこまでいっても子供だから気にかけなかった。

 アリアから舞双姫の楽しさと技術を教わるまでは。 


「あー……うん、遠慮しておく」

「どうして!?」


 フランカの返事に、驚き慌てるのは妹ばかりで、誘った当人であるガヴィーノは落ち着き払っていた。その余裕のある様子がかえってフランカを落ち着かなくさせる。


(勧誘は冗談だった? それにこの子は、そのイフリートでは何番目に強いのだろう。一番弱いってことはないよね?)


「えっと、そうね。いつどんなふうに活動しているかが肝心なの。特に放課後は、そんなに暇でないから」

「フランカ! あんた、お兄ちゃんたちが暇人の集まりだとでも……」


 目くじらを立てる妹を手で制止して、ガヴィーノは淡々と、活動している場所を教えた。そのうえで「毎日、誰かしらがそこにいるものなんだ。床屋みたいに定休日があって、営業時間が決まっているってことはない。わかるな?」と言った。


「ええ、わかるわ。それで? 入会試験ってあなたよりもずっと強い人と対舞するの? だとしたら、大変ね。それまでに強くならないと」

「お兄ちゃんはナンバースリーなの。でも上の二人は十五歳だから、ええと、ケイイをヒョーして、しかたなく三番手なのよ!」

「へぇ。大したものね。何人いる中で?」


 妹が兄を見やる。彼はやれやれといったふうに、十一人だと明かした。最年少はフランカより一個下の十歳で、最年長は十五歳。なるほど、たしかに子供の集まりだ。歴史は浅く、まだ一年に満たないという。妹が口にした上位とされている二人の十五歳が中心になって去年に発足したのだとか。


(アリアに話したら、面白そうねって言うんだろうなぁ。少なくとも嘲けりはしない。ぜったいに。彼女、私の対舞の記録を見て、嗤ったことってただの一度もないんだもの。姫士なのに根っこにあるのが、強い弱いじゃないのよね。それとも姫士だから、なのかな?)


 フランカは検討する。すなわち、イフリートの入会試験を受けるか否か。放課後の時間が減るのは嬉しくないし、彼らの中にアリアよりも強い子がいるとも思えない。ようするに、断ったのはアリアとの時間を優先したかったからだ。


「強制はしない。まともな戦力になるか現時点では不明だからな」


 悩むフランカにガヴィーノが無感情に続ける。だが、その内容はフランカを刺激するに足りる。


「うん? どうにも仰々しい物言いね。なに、戦力って。ひょっとしてどこか別の会と争っているの?」

「ああ、そのとおりだ。近々、交流試合が催される。五対五の選抜でな」

「交流試合、ね」


 取り仕切っている子供というのが、しっかりとした人物なのか、聞く限りの印象では妙に格式ばった雰囲気だった。トリゼツィアには公国が正式に認可している姫士連盟は存在しないが、よもやそれに似た組織が子供たちの間で作られているのだとしたら、大したものだ。


「相手は?」


 フランカの問いかけに、初めてガヴィーノの返答が詰まる。しばらくして、妹を見やって「耳を塞いでいろ」と指示をする。妹は素直に従う。なんだったら目も閉じる。


「お前、貴族は嫌いか」

「え……? 相手は貴族なの?」


 ガヴィーノがこくりと肯いた。


「敵方の名はローレライ。それを率いるのは子爵令嬢だ」 

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