第34話「Tokio《時生》」

 うんうん唸りながら粉と格闘している野々花さんを尻目に、特にどうと言う事もなく平和に時間が過ぎていく。


 私はいつもの通りに淀みなくパンを焼き、カオルさんは元気良く「いらっしゃいませおはようございまーす」、そして縦型ミキサーコロちゃんはリズミカルにぺたこらぺたこら粉を捏ねる。


 野々花さんは唸りながらもデジタルスケールで測って混ぜて、四苦八苦しながらなんとか一次発酵へと突入した。


「どうですか?」

「う――ん、良いんじゃないかな」


 少し時間を掛けすぎてしまった様だが、最初はその方が良い。捏ね不足に較べれば捏ね過ぎの方が望ましい。


 ちょうど昼ピークが始まり店内は活気を見せ始めたのに合わせ、発酵中は野々花さんに休憩してもらう。


 そして発酵後のガス抜きパンチ、ベンチタイム、成形、二次発酵、ドリュール溶き卵を塗り、ついに焼成という時――


「じゃママ一人で千地球にお昼行ってくるからね」

「うん! 行ってらっしゃい!」


 ――天板二枚挿し三段オーブンの覗き窓からじっと中を覗く野々花さんが言う。

 苦笑いのカオルさんへ、小声で「きっとみんなそんな感じですよ」と告げて微笑み合う。

 初めてのパン焼きってのはそんなもんだ。私にだって覚えがある。


 二人分のサンドイッチをカオルさんに頼んでその背を見送った。

 焼成までの工程に時間は掛かるが、焼き始めたらあっという間だ。ほんの十五分で焼き上がる。


 まんじりと動かない野々花さんへ、危ないからそれ以上近付かないよう言い含めてカウンターへ出る。

 すると早速からんころんとドアベルが鳴り、お客の来店を知らせた。


「いらっしゃいませ」


 私は『こんにちは』をつけるのがなかなか自然とはいかない。悪いな、無愛想なおじさんの接客で。


 小学生、せいぜい中学上がりたてって見た目の男の子のお客はパンに見向きもせず私へ言った。


杭全くまた 野々花ののかが居ませんか?」


 ……む、これは……

 この子はもしかしてアレか? 野々花さんに求愛してる六年生とかいう……


「いるけど……君は……確か……トキオく――ん?」

「そうですけど……あっ、もしかして! これは失礼しました! 上佐野うわさの 時生ときおと申します! よろしくお願いします!」


 いや違うから。私は野々花さんのお父上じゃあない。

 けれどそうなるとカオルさんと私が夫婦か。知らず知らずのうちに口角の端が少し持ち上がってしまうのは抗い難い。


 追い返すのが正解かなと思いはするが、つい浮ついた心持ちで厨房に視線をやってしまった。

 その視線を追った時生くんが声を荒げた。


「野々――、あ、あなたは娘を働かせているんですか!?」


 え? 娘でもないし働かせてるつもりもないが……


「こんなこと許されない! 児童相談所に言ってやる!」


 そうか、そういう意見があってもおかしくないのか。こいつは参ったな。

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