第7話 偶然のツイン部屋

「……くしゅん!」


 華凛のくしゃみは、まるで子猫のような可愛らしさだった。そのくしゃみのおかげで、はっと我に返る。


 あたりを見回すと、近くの看板にビジネスホテルの文字。


「華凛さん、あそこに行きましょう」


 華凛と二人、再び雨の中に飛び出す。不意に、子どものころ傘もささずに雨の中で遊んでいた記憶が蘇ってきたことで、こんな状態にも関わらずつい笑みが浮かんでしまう。


 1ブロック分走って、ビジネスホテルに駆け込んだ。これでようやく一息つける。そう思った僕だったが、フロントからの答えに冷や水を浴びせられたような気がした。


「申し訳ありませんが、空いているのはダブルの1室のみです」


 僕と華凛は顔を見合わせた。別々の部屋をとってそれぞれで温まるというプランは実現できないことがわかった。しかし、全身濡れ鼠のようになってしまった僕たちは、このままでは風邪をひいてしまう。


「ツインの部屋、お願いします」


 意を決した僕の言葉に、華凛が袖を掴んだのを感じた。フロントから鍵を受け取り、華凛を促してエレベーターに乗る。


「大丈夫ですよ。僕は部屋に入ってタオルを取ったら外に出ますから」


 僕の言葉に、華凛が顔を上げた。華凛の瞳には、感謝とは違う何か言いようのない感情が宿っているように見えた。


 エレベーターが目的の階に着く。お互いの体から水滴が滴り落ち、エレベーター内の絨毯には水の跡がついていた。僕は先にエレベーターを降りて部屋に向かう。


 部屋番号と鍵の番号が合っていることを確認してから、ドアのスリットにカードキーを差し込む。電子音とともに、鍵の開く音が聞こえる。ドアを開けて部屋の中に入る。


 電気をつけるため、ドア近くの壁に設置されているスリットにカードキーを差し込む。すると、真っ暗だった部屋に電気がついた。ビジネスホテルでは一般的な間取りで、ドアの近くにユニットバスがあり、奥にはベッドが2つ置かれているというものだった。


 僕がベッド近くの台に置かれたバスタオルを手に取ろうとした瞬間、カチリという音が鳴る。振り返ると、華凛が内鍵とドアラッチをかけていたのだ。


「華凛さん、なにを……?」


「……冴喜原さんも、風邪引いちゃいますから」


 華凛の声に、決意のようなものを感じた。


「あ、ああ……でしたら、華凛さんが先にユニットバスで温まってください。僕は廊下で待ってますから」


 華凛は少し不満そうな表情を浮かべる。


「ダメですよ。部屋の中で暖房をつけていてくださいね?」


「え……いや、ですが」


「部屋を温めて待っていてくださいね?」


「は、はい」


 華凛から発される圧に、僕は首を縦に振るしか選択肢が残っていなかった。僕が頷いたのを見て安心したように頷くと、華凛はユニットバスに向かった。


 薄いドア越しに、濡れた服を脱ぐ音や、お湯を溜める音が聞こえてくる。時折漏れる華凛の吐息に、僕の心臓が早鳥を打つ。


「落ち着け……落ち着け……」


 思った以上に理性を揺さぶられている。僕は自分に言い聞かせながら、目をそらすために部屋の設備案内を見る。設備案内によると、このビジネスホテルは各階にコインランドリーがあるようだ。服を乾燥できる場所の存在に気づいた瞬間、華凛の声が耳に飛び込んできた。


「あの……冴喜原さん?」


 つい華凛の声の方を見てしまうと、ユニットバスのドアから顔だけ出した彼女と目が合う。


「バスタオルを……忘れてしまって」


 恥ずかしそうに言葉を紡ぐ華凛を前に、僕は必死に顔と目を逸らす。ここからでは遠すぎてバスタオルを手渡しできない。かといって、女性にタオルを投げるものどうか。そう思った僕は、華凛にバスタオルを手渡しするため、顔と目を逸らしたまま、ゆっくりとユニットバスのほうに足を進めていった。


 もう少しだろうと油断した僕は、部屋に備え付けで置かれていた椅子に足を取られてしまう。


「あっ!」


 転びかけた僕はたたらを踏み、なんとか転ぶことを回避した。ほっと安堵の息を吐いたのだが、僕の目の前には一糸纏わぬ華凛。一瞬ではあるが、彼女の姿が目に焼きつく。僕は慌ててタオルを彼女に押し付けると、背を向けて部屋の奥へと離れる。背後で、ユニットバスのドアが閉まる音がした。


「……冴喜原さん、まだ見ないでくださいね?」


「は、はい。もちろんです!」


 しばらくすると、再び華凛から声をかけられたので、僕はユニットバスに背中を向けた上で、自分用のバスタオルを顔に押し付ける。これで完璧だ。


 ユニットバスのドアが空き、華凛が出てきたようだ。その後、部屋の入り口近くでゴソゴソと音がする。まさか濡れた服を着ているのではないか。そう思っていた僕の耳に、再び華凛の声が飛び込んでくる。


「お待たせしました。冴喜原さんもシャワーで温まってきてください」


 事故があってはいけないと、恐る恐る後ろを見る。バスローブを見に纏い、頭にタオルを巻いた華凛が立っていた。


 その声に促され、僕は夢遊病者のようにユニットバスに向かう。華凛の姿が、僕の視界の端に映る。雨に降られた状況を考えると、バスローブの下に何も着ていないはず。それを想像してしまい、僕は自分でも気づかぬうちに息を呑んだ。

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