合わなくなった指輪

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合わなくなった指輪

 日が傾きかけた頃。

 自宅玄関の、引き違い格子戸を開けて帰宅した、少年がいた。

 巌のような静けさを持つ少年・天神聖治と言った。

 玄関扉の音に気づき、居間から顔を出したのは姉の弥生だった。

 姉の普段着は、浴衣だ。

 今日は、赤い生地に花柄の模様がついた浴衣を身に纏っている。

 弥生の年齢は20歳。

 艶やかな黒髪に、整った容姿。

 その美貌は、すれ違う人誰もが振り返るほど美しい。自慢の姉だが、聖治は距離を取るように《姉貴》とだけ呼んでいる。

「お帰り」

「ただいま」

 聖治が返事を返す

 弥生の手を見て、聖治は少し目を丸くした。

 理由は簡単で、弥生の左指が赤くなっていたからだ。

「姉貴。どうしたんだ、その指」

 すると、弥生が恥ずかしそうに笑った。

「ああ。これね。洗い過ぎたの」

「洗いすぎ?」

 聖治は意味が分からなかった。それを弥生は感じ取り、そうなった理由を口にした。

「指輪よ。指輪が抜けなくなって、石鹸で洗ってたのよ」

 弥生は、左指にめた指輪を外そうとしていたのだ。

 理由は分かった。

 でも、聖治は疑問に思った。姉の弥生は普段からアクセサリーの類をする人間ではないし、そもそもこの家に指輪など置いてあっただろうか。

 そんな事を考えながら、靴を脱いで居間に上がった聖治は、座卓に指輪があるのを見つけた。

「どうしたんだ。この指輪……。あれ、これって」

 聖治は言いかけて、弥生が話しかける。

「あ。覚えてくれてた。私が中学の時に、聖治で買ってくれたやつよ。忘れちゃったかと思った」

 嬉しそうな声で言う弥生の言葉を聞いて、聖治も思い出す。

 それは弥生が中1の頃に、街に2人で出かけた時。

 アクセサリーショップを通りかかった際、たまたま見つけた指輪を、弥生がきれいと見とれていたのを見て、姉が中学生になった祝いとして、聖治がプレゼントした物だった。

 当時小学生の聖治にとって、それは精一杯のお小遣いで買ったものだったが、それでも聖治にとっては勇気を振り絞った行動であった。

 今になってみれば、その時の行動を思い出し、赤面する程である。

 そして、そんな聖治の反応を見た弥生もまた照れ臭くなり、お互いに顔を背けた。

「引き出しにしまっておいたんだけど、手にしたら久々着けてみたら抜けなくなっちゃったの」

 弥生は苦笑いする。

 小学生の聖治が買ったものだが、ガラスのおもちゃではない。宝石はキュービックジルコニアだ。


 【キュービックジルコニア】

 二酸化ジルコニウムが主成分の人工石。二酸化ジルコニウムに酸化マグネシウムや酸化カルシウム、酸化イットリウムなどを混合し、マイクロ波技術も用いながら結晶化させることで、キュービックジルコニアは作成される。

 一言で言えば、人工ダイヤモンド。模造ダイヤとも呼ばれる。

 本物のダイヤモンドと光の屈折率が似ているため、輝き、色味がダイヤモンドにかなり似ており、素人では見分けがつかないのがほとんどだ。

 煌めきは、ファイヤーと呼ばれる美しい虹色の輝きで、これがキュービックジルコニアの魅力の1つでもある。

 屈折率は2.15と宝石の中では非常に高い数値。

 また、色は無色透明、輝きは虹色が主流。

 だが、作られる過程で緑やピンク、赤といった色を様々な金属元素を添加させることで色づけしたものも販売される。

 キュービックジルコニアそのものには、はっきり言って価値はない。

 大量に存在するものに基本的には価値はつかないし、実際値段も低価格なので価値があるとは言えない。


 それでも、当時の聖治にとっては大金であり、一生懸命貯めたものでもあった。

 しかし、今となってはもう昔の話だ。

「処分したら。今まで大事にしてくれたのは嬉しいけど。もう古いものなんだしさ」

 聖治の提案に、弥生は首を横に振る。

「ダメよ。これは私の宝物だから」

 そして、弥生は懐かしむような目をしながら言った。

 当時、指輪は、左手の薬指にぴったりのサイズだった。

 それが偶然なのか、運命の意図的なのか。それは分からないが、もし運命の意図的に選ばれたものだとしたなら、それはとてもロマンチックだと、弥生は思った。

 そして、当時の聖治の優しさに心が温まる思いがした。


 ◆


 夕食を終えた後。

 聖治は自分の部屋に戻り、文机で学校の宿題をしていた。

 宿題が終盤に近づくと背伸びを兼ねて、床に転がる。

 仰向けになる。

 天井を見つめながら、聖治は指輪を見る姉の事を思い出していた。

(姉貴があんなに喜ぶなんて……)

 聖治にとって、指輪をプレゼントしたのは特別な意味があったわけではない。

 ただ、姉である弥生を喜ばせたい一心で贈ったものだ。

 その気持ちを弥生は理解しているのか、していないのかわからないが、とても喜んでくれた事が嬉しかった。

 ふと思いつく。

 聖治は起き上がると、姉の部屋を訪ねた。

 柱を叩き、ノックとする。

「姉貴。起きてるか?」

 すぐに返事が来た。

「聖治。どうしたの?」

 襖越しに弥生の声が聞こえる。

「入るぞ」

 聖治は意を決して部屋の中に入る事にした。

 部屋に入ると、布団の上に座っている弥生がいた。枕元に文庫本があるので、読んでいたのだろう。

 浴衣姿でいるので、裾が乱れている。

 聖治は目を逸らす。

 それに気づいた弥生は裾を直し、襟元を正すと微笑んだ。少し恥ずかしそうに頬を染めていた。

 聖治は視線を戻して、口を開く。

「姉貴。さっきの指輪、貸してくれないか?」

 すると弥生は驚いた表情をした。

「え? どうしたの」

「悪いようにはしない。それと姉貴の指を見せて欲しい。頼むよ」

 聖治は真剣な顔で言う。

 その言葉を聞き、弥生は戸惑う。

 聖治の顔を見て、何か考えがあるのだと感じた。

 だが、聖治の意図までは読めなかった。

 弥生は不安そうな顔をしたが、聖治の目をじっと見つめた。聖治の目は、弥生の事を本当に心配していた。

「分かったわ」

 弥生は聖治の想いを感じ取ると、ゆっくりと左手を差し出した。

 聖治はその手を優しく掴むと、付箋ふせんを指に巻きペンで印をつける。それと指輪を手にする。

 弥生はその様子を不思議そうな目で見ていた。

 聖治は弥生の手から指輪を預かると、印をつけた付箋ふせんを手にする。

「必ず返す」

 そう言うと、聖治は部屋から出て行った。


 ◆


 二週間後、聖治は弥生を連れて街へと出かけた。

 弥生は淡い桜色の色無地の着物を着ており、髪を結い上げていた。

 弥生を見て、聖治は綺麗だと感じるが、それを口にする事はなかった。

 聖治の私服は、黒いジーンズに白いシャツ、ジャケット姿だった。

 今日は休日のため、街中は賑やかだった。

 家族連れやカップルなどが多く行き交っており、2人は人混みに紛れながら歩く。

「ねえ。今日はどこに行くの?」

 隣にいる弥生が訊ねる。

 弥生はどこか嬉しそうだ。

 聖治は答える。

 それは――。

 聖治と弥生は、駅前の百貨店に来ていた。

 そこは地下1階から地上8階まで様々な店舗が入っている。

 この日の目的は、1階のアクセサリーショップだ。

 聖治は弥生を連れ、真っ直ぐ目的の店に向かう。

 店の前には、色とりどりのネックレスやピアス、イヤリングがショーケースの中に飾られていた。

 店内には、若い女性客が多い。

 聖治は入り口近くのレジで、店員に声を掛ける。

 対応してくれたのは、20代後半の女性だ。

 女性店員は、聖治と弥生の姿を見て笑顔を見せた。

 聖治は、預かり証を渡す。

「天神様ですね。こちらにかけてお待ち下さい。ご用意しますので」

 女性は言い、カウンターの奥にあるドアを開けて入って行く。

 聖治と弥生は言われた通り、椅子に座って待つ事にした。

 弥生は聖治の隣に座り、周りを見回している。

「どうしたの。急に、こんなところに連れてきて。私、アクセサリーとかあまり着けないんだけど」

 弥生は困惑した様子で、聖治に話しかけた。

 聖治は弥生の目を見ると、小さく笑う。

「まあ。待ってな」

 聖治は答えた。

 すると、すぐに先ほどの女性が戻ってきた。

 手には、小箱を持っている。

「お待たせしました」

 女性はそれをテーブルに置くと、蓋を開ける。

 中には指輪が入っていた。

 その指輪を見た瞬間、弥生は息を飲む。

 それは弥生が持っていた指輪だった。

「え。これって……」

 弥生が驚きの声を上げると、聖治は言った。

「つけてみな」

 聖治の言葉に従い、弥生は指輪を右手の人差し指にめる。

 すると指輪は、まるで弥生の指に吸い付くようにピッタリのサイズになっていた。

 弥生は目を見開く。

 弥生が持っていた指輪は、中学の時の物の為、大人になった弥生にはサイズが合わなかった。

 だが、今目の前にあるのは間違いなく、あの時プレゼントしてもらった指輪である。

 弥生は指輪を見つめたまま、呆然としていた。

 だが、急に悲しそうな顔をした。

 聖治は驚く。

「どうしたんだよ」

 弥生は、ゆっくりと口を開く。

 その声は震えている。

「――ありがとう。でも、私は新しい指輪が欲しかった訳じゃないの。サイズが合わなくなっちゃったけど、私はあの指輪で良かったのよ」

 そして、弥生は聖治の顔を見る。

 聖治は弥生の瞳が潤んでいる事に気づく。

 弥生は、自分の気持ちを必死に伝えようとしていたが、声には涙が混じっていた。

 聖治はその言葉を聞き、胸が締め付けられるような感覚になる。目を伏せると、口を開いた。

「俺を見くびるなよ。必ず返すって言っただろ」

 聖治は顔を上げ、弥生を強く見る。

 弥生は驚いた表情をした。

 その顔を見て、聖治は続ける。

「それ。預かった指輪だぜ」

 弥生はその言葉を聞き驚く。

 左手の人差し指に付けた指輪を眺め、自分の記憶を呼び覚ます。左手をかざすと、指輪が光を反射して輝く。

 聖治が言っている事は本当だ。

 それは自分が持っていた指輪と同じものである。弥生の目に溜まっていた涙が溢れた。

 弥生は泣きながら、左手を胸に抱き寄せる。

 突然の落涙に聖治のみならず女性店員も驚いていたが、聖治はすぐに弥生に声をかけた。

「おい。泣くなよ」

 聖治はハンカチを差し出す。

 弥生はそれを受け取ると、目元に当てた。

 しばらくすると、弥生は落ち着いたようだ。

 弥生は聖治の顔を見た。

 聖治は優しく微笑む。

 弥生は聖治の顔を見て、落ち着きを取り戻す。聖治の手を握り、深呼吸をする。

 彼女は涙を拭き、少し照れくさそうに笑みを浮かべる。

 聖治は、そんな弥生を見てホッとした。

「でも、どうして指に合うようになったの?」

 弥生が不思議そうに訊ねる。

 すると女性店員が口を開いた。

「サイズの変更をさせて頂きました。指輪の一部に切れ目を入れて、その状態でご依頼の大きさまで広げ、切れ目の部分に同じ素材の金属を足して溶接することでサイズを大きくすることができます」

 弥生は女性店員の説明を聞いて納得する。

 なるほど、そういうやり方もあるのかと知った。

「素敵な彼氏様ですね。思い出の指輪だそうで、大切にされているのが伝わってきました」

 女性店員は笑顔で言う。

 弥生は恥ずかしくなり、頬を朱に染めて俯いてしまった。

 それは聖治も同じであった。

 二人の様子が、おかしいことに店員は首を傾げそうになる。

「……俺達、姉弟ですから」

 聖治は視線を逸らせたまま女性店員に向かって言うと、女性店員は一瞬固まった。

 その後、慌てて頭を下げる。

「失礼致しました」

 と。


 ◆


 二人はアクセサリーショップを後にしていた。

 聖治は苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 隣にいる弥生は、その様子を見て嬉しそうに笑っている。

「私達、恋人同士に見えちゃったんだね」

 弥生は楽しそうだ。

 その言葉に聖治は答える。

 口調はぶっきらぼうだ。

「俺は、姉貴の恋人じゃねえぞ」

 弥生は、聖治の顔を覗き込む。

 聖治は横を向いてしまった。相手にしてくれない弟に弥生は、つまらなさそうに花びらのような唇をすぼめる。

 弥生は、ふと空を見上げた。

 青空が広がり、雲ひとつない天気だった。

 今日はとてもいい日だと感じる。

 ふと弥生は、悪巧みを思いつく。

「ねえ、聖治。さっきの指輪だけど。つけてもらってもいいかな。みたいに」

 聖治は弥生の方に顔を向ける。

 弥生は悪戯っぽく笑うと、お店で受け取った小箱を差し出す。中に入っているのは、先ほどの指輪だ。

 聖治は眉をひそめた。

 聖治は弥生の申し出に躊躇う。

 弥生は聖治の反応を楽しむように、じっと見つめていた。

「ダメ?」

 聖治はため息をつく。

「仕方がないな……」

 聖治は渋々承諾した。

 聖治の言葉に、弥生は平静を装いながらも目を輝かせる。

 小箱の中から指輪を取り出す。

「手。出せよ」

 聖治の言葉に従い、弥生は左手を出す。右手にはバッグを持っていて、塞がっていたからだ。

 聖治は弥生の左手を取る。彼女の手は柔らかく、少し冷たい。聖治は自分の手が緊張で震えている事に気づく。

「どうしたの?」

 弥生は聖治の顔を見ると、優しく微笑む。

 聖治は気まずくなり、目を逸らす。

「――何でもねぇよ」

 聖治は答えたが、その声には動揺がにじんでいた。どうして自分がこんな気持ちになっているのか分からない。

(――ただ、今は目の前の事に集中しよう)

 聖治は自分に言い聞かせる。

 彼は弥生の人差し指の先に指輪を当てた。

 だが、弥生は指を曲げて拒否を示した。聖治は弥生の顔を見ると、彼女は不満そうな表情をしている。

(――まさか)

 聖治は嫌な予感がした。

 そして、それは的中する事になる。

 弥生は言った。

 それは聖治にとって、思いも寄らない事である。

「違うでしょ。あの時は薬指にめてくれたじゃない」

 聖治は驚いた。

 弥生の言っている事は事実だ。

 確かに、弥生が中学生の頃は左手の薬指に指輪をめてあげた記憶がある。

 それはテレビドラマか映画の影響だ。男が女の左薬指に指輪をめる意味を知らなかった。そういうものだと思っていた。

 だから、弥生の左手の薬指に指輪をめたのだ。

 だが、今となってはその意味を知っている。


 【結婚指輪】

 結婚指輪を男女で交換するようになったのは9世紀、ローマ教皇であるニコラウス1世の結婚が由来とされている。

 ニコラウス1世が結婚したとき、花嫁に金の指輪、花婿に鉄の指輪を交換した。この後に少しずつ結婚指輪の交換が広まっていき、13世紀には今と同じように男女間で結婚指輪を交換することが一般的となる。

 もともと貴族の間で習慣化されていた婚約指輪・結婚指輪が一般化したのは、13世紀頃と言われる。

 指輪にダイヤモンドが使われるようになったのは15世紀頃。とはいえ高価なものだったので、欧米でも一般化したのは19~20世紀頃でした。日本でダイヤモンドの指輪が結納に用いられるようになったのは、1960年代とかなり最近のことだ。

 結婚指輪が日本に伝わったのは、明治時代とされる。キリスト教式の結婚式では結婚指輪が用いられていたため、キリスト教とともに伝来したのが最初と言われ、結婚指輪の慣習がきちんと定着したのは、大正時代になってからだ。

 そして、結婚指輪を左手の薬指にはめるようになったのは、古代ギリシャの習慣が由来といわれている。

 古代ギリシャでは、左手の薬指と心臓は1本の血管で繋がっている。と考えられていた。

 そこから「命に一番近い指」「愛の血管が心臓に直接つながっている」という意味で、左手の薬指に永遠の象徴である結婚指輪をつけるようになった。


 それは、まだ聖治が小学生の頃の話であり、今となっては恥ずかしい思い出でもあった。

 聖治は戸惑いながら、口を開く。

「……いや、あれは小さい頃の話だし。それにもう大人になったんだから、そこら辺はしっかりしないと」

 聖治は何とか誤魔化そうとする。

 しかし、弥生は聖治の顔を見て微笑む。

「いいから、お願い」

 弥生は聖治の目を見つめて言う。

 その目に聖治は憐憫れんびんの情を感じ目を逸らした。まるで幼子からのお願いのように。

 だが、聖治は内心では覚悟を決める。

(――別に深い意味がある訳じゃないし。俺のせいなんだから、仕方がない)

 聖治は弥生の左手を持ち上げると、自分の手を添えた。

 弥生の視線を感じながらも、ゆっくりと指輪を弥生の左手の薬指に近づけていく。

 指輪は弥生の細い指にぴったりと収まった。

 弥生は嬉しそうに指輪を見つめている。その表情は、とても幸せそうだった。

 聖治は弥生の様子に安堵すると、弥生は聖治の方に顔を向ける。

 そして、左手の薬指にはめられた指輪を嬉しそうに見せてきた。

「ありがとう。これからも、ずっと大切にするね」

 弥生はそう言って、満面の笑みを浮かべる。

 聖治はその笑顔に目を奪われる。姉のことは、いつもきれいだと思っていたが、今日の彼女は特別に輝いて見えた。

 ほんの小さな指輪をめただけで、こんなにも変わるものだろうか。弥生は指輪をつけた左手をうっとりと眺めると、聖治に向かって左手を伸ばす。聖治は何事かと思い、首を傾げる。

 弥生は聖治の右手を握ると、自分の方へ引き寄せる。突然の出来事だったので抵抗できずに、身体が前のめりになる。

 聖治の顔が、弥生の顔に近づく。

 弥生の顔を見ると悪戯っぽく微笑んでいる。

 聖治は何か嫌な予感がした。

 彼は慌てて顔を背ける。

 ――その時、聖治の頬に柔らかい感触があった。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 だが、すぐに理解する。

 弥生が聖治の右の頬にキスをしたのだ。

 聖治は驚きのあまり硬直してしまう。

 そんな聖治を弥生は見つめていた。

 弥生は楽しげに笑う。

 そして、聖治の耳元に唇を寄せて囁いた。

「なに驚いてるの? 頬へのキスなんて海外だと挨拶。家族や友人といった親しい間柄なら、普通にするものよ。親愛の気持ちを相手に伝えるためのね。――ねえ、聖治?」

 聖治は何も言えなかった。

 弥生の言葉に聖治は混乱していた。

 ――俺は弥生に何を言えば良いんだ。

 ――どうすれば正解なのか分からない。

 ――そもそも、これは本当に現実なのだろうか。

 夢を見ているような気分だ。

 だが、手のひらに感じる弥生の手の温もりだけは、確かなものだ。

「……う、家は。天神は、古神道の伝統を受け継ぐ家だろ」

 つまり聖治は、海外の西洋の習慣をする必要はないと言いたかった。必死に反論するが、弥生は余裕のある態度で言う。

 聖治の反応を楽しむように。

 彼女は言った。

「聖治がしてくれた指輪は、海外の習慣でしょ。だから、私も海外の習慣で、お返しをしてあげたの。感謝の気持ちを込めて、ね」

 聖治は言葉に詰まる。

 何も言い返せない。

 昔からそうだ。いつも姉と主導権争いをしても、勝てた試しはない。

 弥生は聖治に言う。

 その声は優しく、慈愛に満ちたものだった。

「ねえ。帰りに、どこかで食事していかない?」

 弥生は楽しそうな声で提案してきた。声にはずみが感じられる。

 聖治は視線を逸らせ、少し考えてから答える。

 その声には、動揺が滲んでいた。物心がついてからキスなどいう行為をしたこともされたことも無い聖治にとって、弥生の行動は衝撃的だった。いくら海外では挨拶程度とは言え、ここは日本だと言いたかった。

「……ま。まあ、良いんじゃねえの」

 聖治は弥生のペースに巻き込まれないように、平静を装って答えた。

 だが、内心では焦っていた。

(早く家に帰って、自分の部屋に引きこもりたい)

 聖治は弥生と食事をすることに同意すると、2人は歩き出した。

 2人の手は繋がれたままだ。

 聖治は姉と手を繋いでいる事実を認識すると、急に恥ずかしくなった。

 だが、振りほどく事はできなかった。

 聖治が弥生の手を握っているのではなく、弥生が聖治の手を握っているからだ。

 その手を聖治は見る。

 弥生に手には、指輪が光っている。その光景は、まるで映画のワンシーンのように美しかった。

(――指輪か。確かに、俺のしたことは間違ってないかもしれない)

 聖治は弥生の手を握り返す。

 そして、その手をしっかりと握った。

 聖治は、ふと思う。

 弥生と手を繋いで歩くのは、いつ以来だろう。

 少なくとも、聖治が高学年になってからは、手を繋いだ記憶は無い。

 聖治は昔を思い出しながら、弥生と手を繋ぎながら歩いた。

 弥生と聖治は手を繋いだまま、歩いていく。

 その様子は、姉弟ではなく恋人同士にしか見えない。

「姉貴。どこに行こうか?」

 聖治は弥生に声をかける。

 すると、弥生は微笑みを浮かべて、聖治を見つめる。

 弥生は聖治の問いに答える。

 その口調はとても優しげだ。子供に語りかけるかのように。

「静かな所。そうね、個室があるレストランが良いわ」

 弥生は、そう言って笑みを浮かべる。

 聖治はその表情を見て、胸が締め付けられる思いがした。

 弥生が自分に向けてくれる表情が、あまりにも幸せそうだったからだ。

 聖治は、そんな弥生の様子に戸惑いつつも左手でスマホを取り出す。右手が使えないからだ。

 それを弥生に差し出す。

「俺。右手が使えないから姉貴が検索してくれるか?」

 聖治は弥生に尋ねる。

 弥生は、自分の左手が聖治の右手を掴んでいる事に改めて気づくと、肩を寄せながら聖治のスマホの画面を、白い指先で撫でるように操作していた。

 二人だけになれる場所を探して……。

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